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宗教も科学も、人間にあたかも世の中に客観的な真理があるかのように思わせる手段に過ぎない。科学には客観性があるけど、自然の「近似」であって「真理」ではない。それも、大勢の人が莫大な手間と資源をつぎ込んでどうにかこうにか今の精度にまで持ってきた近似。
私の認識では巷に溢れかえる擬似科学批判は単なる科学信仰に過ぎない。そりゃ、認識が甘い。他の人はともかく、私の場合は対悪徳商法の面がかなりある。
非<環境>であるところの不確実で未決定な<世界>の中にあって、我々は、<世界>を確定させる客観的な事実であったり、秩序を欲する。それが神や科学ではないか。科学はあくまでも「近似」だから、もっと確かなものが欲しいと思った人が神の方へ行くのだろう。 さて、本題。「科学」を「ヴィトンのバッグ」に置き換えて考えると、議論のどこが変かがよく分かる。後半三分の1あたりでやってみる。
我々のあるべき振る舞いとしては、個別の情報について科学的な検証を行うことではなくて、むしろ科学的な無知に開き直ったうえで信用に値する人物や権威を道徳によるなり利害によるなりして見極め、そこから生じる情報を自身の利害に基づいて利用することを選択する以外にはありえないのではないか。そして、そうした態度を選択した場合において、科学と疑似科学の間の科学的な区分は、まったく重要性を持たない。これこそが、前回のタイトルに込めた意味であって、科学と疑似科学(と宗教)の区別に固執する意味が「わからん」と述べた趣旨である。個別のバッグが正規なヴイトンの工場を出たかどうかなんて、店頭で見て買うだけの我々にはわからないから、売っている百貨店のネームバリューとか、既に購入した信頼できる友人の口コミによって見極め、バッグを買うかどうかを選択する以外にありえないのではないか、ってことだな。確かに、バッグを買うにはそうするしかない。だからといって、「正規品のヴィトンのバッグとニセヴィトンのバッグのブランド品としての区分は全く重要性を持たない」とは、普通は思わないんじゃないの。「知らぬが仏」って言うけどさぁ……。
しかしよく考えればすぐ分かることだが、この一見すると完全に見える「ニセ科学批判」は、「悪意」という道徳的区別を準用しているに過ぎない。ここでも脱魔術化による魔術的な負担を魔術的に免除しているわけだ。ニセ科学の批判なんて、ニセヴィトンのバッグを売るなと言うのと変わらないわけだから、「ここでも脱魔術化による魔術的な負担を魔術的に免除している」なんてわけのわからない話じゃないでしょ。
この「ニセ科学」という概念の存在自体を、科学の危うさを示すものとして捉えることが可能だ。これが私の「疑似科学批判に対する批判」における2つ目のポイント、即ち科学に対する過剰な絶対視の傾向とその危険性である。ニセブランド品というカテゴリーの存在自体を、ブランド品の危うさを示すものとして捉えることが可能だ、と書き直せば、えらくナンセンスな話になる。ニセブランド品を批判することの背後に、正規のブランド品に対する過剰な絶対視の傾向があるかとか、危険性があるかとか、ちょっと考えてみればそんなのは違うというのはすぐにわかるだろう。別に普段からブランド信仰してなくたって、「たまにはちょっと高いけどブランド品を買うか、丈夫で長持ちとか使い勝手がよいということで定評があるしなぁ、でも、できれば少しくらいは割引があるといいなあ」などと思ってショッピングに出かけた先で、見た目ブランド品だけどパチモンである確率は結構高いよ、なんてことになってたら私は嫌だ。
上のニセ科学という言葉の定義が示唆する危うさとは、つまり科学的基準と道徳的基準の混同である。ニセ科学という恰も科学的な用語が、実のところは悪意という道徳的な基準に過ぎないと言う構図は、まさにそれ自身がニセ科学的ですらある。このニセ科学というパラドクスは、ニセ科学の対立概念が科学であるかのような錯覚を引き起こすことで、人々に科学を善と捉えることを可能とさせる。ニセヴィトンのバッグを作って売りさばくのは倫理的に悪だけど、正規のヴィトンのバッグを売っているという事実は別に善とは結びつかない、ごく普通の商行為に過ぎない。「ニセ○○」はニセだから悪なのである。○○がヴィトンのバッグだろうと科学だろうと。 じゃあ、何で倫理的に悪なのかというと、これには2つの面がある。
1つは、他人の努力にただ乗りするという点。ブランド品も科学も、これまでに人の努力によって良くしてきたものだ。ブランド品のバッグであれば、耐久性やデザインなどで他社とは違った価値を生み出した。科学は、先に書いたように自然の近似に過ぎないが、それでも、近似の精度を上げるために大勢の人が努力してきた。その結果として、ブランド品は品質に定評があり、科学は近似の精度に定評がある状態になっている。ニセブランド品を作って売ったり、ニセ科学を広めたりする行為は、他人の努力によって築き上げられた信頼や定評といったものを、そうではない粗悪なものも同じだと広く誤解させることで、横からズルをしてかすめ取る行為に他ならない。
もう1つは、判断のコストを上げるという点。ブランド品を買いに行ったらパチモンが出回っているような状態では、消費者が各自で多大な手間をかけて調べないと、本物を買えない。しかし、人は、あらゆることに十分な手間をかけられるわけではない。ブランド品=精度のよい近似である科学、で判断することができれば、社会全体として判断のコストを下げ、かつ、正しい判断をすることができる。ニセ物の横行を放置しておくというのは、判断のコストを広く一般に押しつけることになる。
こうして生まれるのが科学信者であって、彼らは非科学的なものやそれを信じるものを批判し、<科学的に>啓蒙する行為のなかに善を見出す。当然、上で述べたように我々が出来ることといえば信じることくらいなので、<科学>を信じることも可能なわけだが、それを絶対視し、妄信することにはあまり賛成できない。それは、この<世界>において太古の昔から絶えることのない宗教戦争や、文明化の旗印のもとで公然と行われた植民地主義と大差ない行いだからだ。科学者だって、ヴィトンのバッグを買いに行く時は目利きじゃない。自分がヴィトンのバッグを買いに行った時に「パチモンが横行してますが何か?」って状態になってたら、分かる奴ちょっと来て何とかしろ、と思うのが普通だろう。私としては、安心してヴィトンのバッグを買い物できる社会に住みたい。だから、私の方も、安心して科学の内容を正しく知ってもらうために、ニセ科学はニセ科学だとはっきり区別して、パチモンを広めるなと言いまくることにする。ま、今回はヴィトンのバッグを例にしたけど、他の「商品」、例えば経済学とか政治学について知りたいと思った時に、ニセが大流行している状態が放置されているのはやっぱり困るので、そっちはそっちで分かる人が何とかしてくださいよ、それが相互扶助の精神ですよってことで。
ニセ科学の判定についてどういう基準を立てるかということについては、旧blogのエントリー「ニセ科学の定義と判定について考える」が消えてしまっていたので、編集して再度公開した。
・ニセ科学の定義と判定について考える
・ニセ科学の定義と判定について考える(つづき)
posted at 2008/11/17 18:55:22
lastupdate at 2008/11/17 22:52:09
ただ、雑誌などで人気商品であること、時々ニセ物が出たと報道があったことなどから、例としてわかりやすいかな、と思って使ってみました。
私の認識は、「科学は方法や道具の一種」です。はさみや鉛筆と同じような、生活に便利なものということです。科学者は、自然を理解したり、有用なものを作るために科学を使っているだけです。科学者が「科学を信仰」しているだけでは、自然現象の機構を明らかにしたり、便利な製品を生み出したりはできません。
ニセ科学も自然現象の解明や技術革新には寄与しません。「使いものにならない道具」ですし、ときには人に損害を与えます。
科学は別に完璧な「道具」ではありません。だから、人々はより良いものにしようと絶えず改良しています。そして、そのような行為は具体的な効用をもたらします。自然現象の理解がより深まったり、新しい製品が発明されたり、いままでできなかったことができるようになったり。
はっきりいって、ニセ科学発信者は、科学を用いて人類に有形無形の有益なものをもたらそうと真摯に活動している人々の足を引っ張る、不埒な行為を行なっています。紙を切ることのできないはさみや字の書けない鉛筆等の欠陥道具を広めようとしているのですから。ただ、ニセ科学は、はさみや鉛筆ほど、一般の人々に即座に欠陥性が認識できるようなものではありません。
扨、上の「科学と疑似科学(と宗教)の区別に固執する意味が『わからん』」というのは、まあ言ってみれば、「切れるはさみと切れないはさみの区別はそれほど問題ではない」と言っているように思えます。恐らく、その論者には、自分で使わないので、はさみ(科学)は直接必要ないのでしょう。でも、多くのことで間接的に利益を受けているのにね。その論者が着ている衣類やすんでいる家や食べている食物などは、科学の恩恵無しにはもたらされなかったものです。
このような人は、自分も利益を受けている科学に害を与えるニセ科学を批判する人に対して、何で批判の矛先を向けるのでしょうか? 実は、個人的好き嫌いなど、議論の外に原因があるのでしょうか?
>このような人は、自分も利益を受けている科学に害を与えるニセ科学を批判する人に対して、何で批判の矛先を向けるのでしょうか? 実は、個人的好き嫌いなど、議論の外に原因があるのでしょうか?
よく分からないんですが、科学について何だか高尚というか哲学的なイメージを持ちすぎているように見えます。ただ、ニセ科学に対する批判に反感を持つ人の方が、科学を絶対視しているというか。まあ、なかなか本当のところはよくわからないのですが。
でも、
「科学と宗教の区別に固執する意味がわからん」
というのは
「えんぴつとはさみの区別に固執する意味がわからん」
というのと変わらないし、
「科学と疑似科学の区別に固執する意味がわからん」
というのは
「普通に最後まで使えるエンピツと、芯が折れまくったり紙を破いたりしてまともに使えないエンピツの区別に固執する意味がわからん」
というのと同じなんじゃないかと。
……いや、そりゃ普通どっちも区別するだろ、と。
こういう置き換えで、科学に対する一種の幻想というか思い込みみたいなものをあからさまに取り除いてしまえば、話の構造がすっきりすると思います。
でも、科学の側からすれば宗教と同程度の権威性があっちゃ困るんですよね。apjさんが端的に「王様は裸だと言えること」と書いたように、相手の肩書きやら何やらを抜きにしてストレートに疑問をぶつけられることが、科学にとってよいことなので、権威性は邪魔になると思うのです。そして、普通の科学と同じように疑問をぶつけた時、あっさりボロを出すのがニセ科学というわけで。
迂遠で、もとより完璧は期しがたいとしても、ニセ科学批判ができる程度に科学リテラシーを身につけることで、幾分でも科学の権威性から自由になる、というのが地道な道だと思うのです。そこをいきなり「科学主義が攻めてきた」みたいなアレルギー反応を起こされるのは、困ったものだなあと思います……
> 「科学主義が攻めてきた」みたいなアレルギー反応を起こされるのは、困ったものだなあと思います……
まったくその通りです。
でも、なぜそのような人たちは科学に権威性を感じるのでしょうか?
昔、学校で理科の勉学に挫折した苦い経験が元になっているとか? あるいは、厳密な論理的展開にうんざりしているとか?
矢野健太郎氏がエッセイで「日本の数学教育は科学技術(=理系)のための数学ばかりで、行動科学(=文系)のための数学は疎かになっていた」と指摘していたけど、これは数学を理科に科学技術を技術立国に置き換えても当てはまる気がしますね。
ごくごく個人的な話をすると、私の場合、空気を読むのが苦手なので、脊髄反射的に素朴な疑問をぶつけてしまうというところがあり、それが権威性を感じない元になっているのかなと思わないでもないです。
確かに、情報格差は必ずあるものだし、これを埋めるのは困難で、これが権威性の起源になっているというのは肯けるのですが、権威性の大きさを決めるパラメータはこれだけじゃないとも思うのです。
みんなでKYになって、もっと質問しよう(何か違う)
>でも、なぜそのような人たちは科学に権威性を感じるのでしょうか?
1)権威だということにして祭り上げておかないと、科学がただの道具だとわかったた途端、そんな道具もろくに使いこなせないバカな自分と向き合うハメになるから。権威ってことにして哲学方面からメタにゴニョゴニョと言ってれば、一応はかしこそうな外見を取り繕うことはできるし。
2)科学の中身を丁寧に説明するのをはしょって、権威だということにしてとりあえず押しつけるという手抜き教育をされたから。あるいは時間と手間が不足していた?
何か、身も蓋もない理由しか出てきません。
あぁ、それ言えてるかも。権威と言うのか日本は技術立国で科学技術無しに生きていけないからって大義名分持ち出して、それで科学を教え込むって・・・・・
だから、技術立国の内実がスカだったり技術立国以外の他の部分が好調だったりしちゃうと、忽ち方向性を見失う訳でwwwww
>それは裏返すと技術立国に関わりと言うばかりか関心を持たなかったり時には批判的だったりすると、日陰者の様な扱いになっちゃう。
日陰者扱いになるのは、技術立国に批判的だったことが原因じゃなくて、対案を示さなかったからじゃないの?
例えば、「技術立国なんてとんでもない、これからは金融立国だ」と大声を上げて人材養成するとか、少なくとも自分がそういう人材になって、金融立国向け人材になることのすばらしさとそれによってもたらされる富を宣伝していれば、日陰者になんかなるはずがないわけで。
#あ、サブプライム踏んじゃうとまずいでしょうけど。
>だから、技術立国の内実がスカだったり技術立国以外の他の部分が好調だったりしちゃうと、忽ち方向性を見失う訳でwwwww
別に技術立国の内実はスカでもないし。他の部分は、まあ金融方面はぼろぼろだし。
いっそ、文学立国ってことにして、みんなで和歌でも詠みながら、わびさびの世界に浸りつつ、経済活動的には沈没していくってのはどうでしょう?
これが「自由技術」として、取り敢えず知っておいて損は無い→応用例は後で幾らでも見つかっちゃうって教えると、例えば技術立国でダメでもソフトがある金融があるサービスがある、極端な話何とか立国とか意識しなくても生活者として得をする、ってなりますから。そうした観点が抜け落ちているから、「理科離れ」への危機感心を今一つ共有出来ない気がするんですよね。
#内橋克人氏の著作とかでも詳しく議論されてますしね
# » link here «
でも「わびさびの世界に浸りつつ、経済活動的には沈没していく」って・・・・・じゃ、フランスは当の昔に崩壊してるwww
誰も共有しろなんて頼んでないって。
それに、「理科離れ」が目立ったのは、たまたま「技術立国」などと言ってたからで、実際には「○○離れ」は全教科で起きてると思うけど。危機感を持つとしたら、「○○離れ」が理科だけじゃないってことの方じゃないの。
までは、凝った箱庭を作って愛でようとかそういう方向では。
>何も需要が無いばかりか、下手にコストが嵩み見向きもされない。
何か芸術作品みたいな方向にいっちゃったような。
ガラパゴス化したから技術立国じゃないといかんという、逆の話になったりしないわけ?
うーむ・・・・・だったら教育指導課程の改正で社会が体育以下という理由が説明できないでしょうに。知的関心が低くなっているって危機感を共有しようにも、他の利害が絡んじゃっているから本質に迫れないって問題なんじゃ?
>ガラパゴス化したから技術立国じゃないといかんという、逆の話になったりしないわけ?
だって「技術立国」の成れの果てがガラパゴス化な訳だから、芸術作品の様な付加価値を加えることにばかり集中して技術開発だのしたから、マーケティング的に失敗したということ。
そもそも今日のマーケットって付加価値を如何につけるとかじゃなくて如何にコストを回避して効果を挙げるかって問題が中心だったりするもので。それは従前の「技術立国」とは違った大局的なアプローチが必要だったりする訳でしょう。同じ物理学でも、原子力や水素で動く車を作るより如何にエネルギー効率の良い交通体系を構築していくかが消費者として当然の選択。















ところでヴィトンがお好きなんですか?