水素結合型強誘電体における強誘電性相転移の動的機構の実験的研究

冨永 靖徳

お茶の水女子大学大学院人間文化研究科
複合領域科学専攻  物質科学講座

 以下の内容は,「日本結晶学会誌」40, 26-31 (1998) に掲載した報告をもとにして,このサイトの目的に合うように手直しをし,最近の結果を付け加えたものである.


要約

 リン酸二水素カリウム (KH2PO4,略称KDP) に代表される水素結合型強誘電体の相転移の動的機構を明らかにする分光学的な研究を行っている.KDPは結晶内のリン酸基(PO4)が水素結合で三次元的につながった構造をしているが,この水素結合の水素を重水素で置換すると,強誘電性相転移温度が著しく増加する.この説明のために導入された「プロトントンネリングモデル」の考え方が,相転移の動的機構に対して適切でない事,それに代わる新しい考え方を,ラマン散乱分光の手段で,実験的に明らかにする研究を推進している.

 以下に,これまでに得られた結果を要約する.

  1. 高振動数領域のラマンスペクトルの選択則の解析から, PO4四面体が常誘電相においても, 局所的にはすでに強誘電相と同じ対称性C2まで低下している事を明らかにした.
  2. 低振動数領域のラマンスペクトルに現れるブロードな中心成分は,従来言われてきたようなプロトントンネリングモードでない事を,重水素置換結晶との比較によって明らかにした.
  3. 強誘電性相転移温度に近づくにつれて,ブロードな中心成分の中から,鋭い緩和型モードの成分のみが著しく成長し,臨界緩和の振る舞いをする事を明らかにした.この鋭い中心成分は,相転移に伴う分極揺らぎの発散に対応し,相転移が秩序無秩序型である事を示した.
  4. KDPのx(yx)yラマンスペクトルのブロードな中心成分は,分極ゆらぎに伴う鋭い緩和モードと,本来は禁制であるPO4四面体が結合している,結合モードとして説明される事を明らかにした.このPO4の束縛回転モードは,局所対称性の低下で選択則が破れていることと整合している.
  5. KDPとDKDP(KD2PO4)の混晶系のラマンスペクトルの高振動数領域のラマンスペクトルが,KDPのスペクトルとDKDPのスペクトルの単純な和スペクトルで再現される事を明らかにした.このスペクトル解析により,ラマンスペクトルのみから,水素モードと重水素モードをPO4四面体の分子振動モードから分離して同定する事に始めて成功した.
  6. KDP水素モードの振動数に対して,対応するDKDPの重水素のモードの振動数をプロットすると,すべての振動数の組が,常誘電相でも強誘電相でも同様に勾配1/1.37の直線に載る事を明らかにした.この1.37の数値がO-HとO-Dの換算質量の比の平方根である事を考えると,水素の運動はO-Hの単純な光学型分子振動である事がわかり,トンネリング運動とは考えられない事を明らかにした.
  7. KDPとDKDPの混晶系の分子振動領域のラマンスペクトルが,常誘電相でも強誘電相でもKDPのスペクトルとDKDPのスペクトルの単純な和スペクトルで再現されたと言う結果は,混晶系においても,PO4四面体と水素結合は,それぞれの個性を保っており,水素は単純にローカルな分子振動をしているという事を示している.この点からもプロトンの集団運動につながるトンネリングのような現象は起こっていない.
  8. 以上の実験結果から,KDP型の強誘電性相転移の同位体効果をプロトンのトンネリングモデルで説明する事が適切でない事を明らかにし,相転移温度の相違は, PO4四面体の局所的な歪みの相違によるものであると言う提案をしてきた.最近,杉本と池田によって,この同位体効果をHとDのゼロ点振動の違いによる電子状態の相違に説明する理論が提出された.この理論では, 水素結合の水素のポテンシャルが常誘電相においても,もともと非対称であって,この非対称性がHとDで異なっている事によって起こり,常誘電相でこの非対称ポテンシャルが,時間的空間的に平均化されていると考えると,整合性のよい説明ができる事がわかってきた.我々のラマン散乱での結果は,この考え方と整合している.

 KDPの強誘電性相転移温度はTc = 122 Kで,常誘電相(T > Tc )は正方晶で空間群 I(-4)2d(点群D2d)に属し,強誘電相 (T < Tc )では斜方晶となり,z軸方向に自発分極をもつ空間群Fdd2 (点群C2v)に属する結晶になる.KDP型強誘電体が多くの研究者に注目された理由は,表1に示すように,例えば,KDPの水素を重水素で置換した結晶である DKDP(KD2PO4)では,その強誘電性相転移温度がTc = 218 Kにまで約1.8倍も上昇するという,極めて大きな重水素置換効果を示すことである.この大きな重水素置換効果(同位体効果)を説明するため,水素結合上でプロトンが量子力学的にトンネリングを行っているという,プロトントンネリングモデルが提唱されて1),理論家,実験家を問わず多くの研究者の間で広い支持を得た結果,標準的な教科書にも代表的な相転移のモデルとして採用されてきた2)

表1 水素結合型強誘電体結晶の相転移温度
(------ (NH4)塩は反強誘電体)
H-compoundTc(K)D-compoundTc(K)
KH2PO4122KD2PO4218
RbH2PO4147RbD2PO4238
CsH2PO4153CsD2PO4267
KH2AsO496KD2AsO4 161
RbH2AsO4100RbD2AsO4 173
CsH2AsO4 143CsD2AsO4212
(NH4)H2PO4147(NH4)D2PO4242
(NH4)H2AsO4216(NH4)D2AsO4 304

 しかし,その後の実験家の多大な努力にもかかわらず,現在にいたるまで,これらの結晶のなかでプロトンが,二つの対称的な平衡位置の間を直接トンネリングしているという,実験的な証拠は見つかっていない.このため,KDPの相転移機構とその大きな重水素置換効果の説明をめぐって,長い間論争が続いている3)-5)

 KDPにおけるプロトンのトンネリング運動の証拠を見つける努力の過程で,トンネリング運動とは全く関係のない,分子振動(内部振動)領域でのラマン散乱スペクトルの解析から, PO4四面体が,常誘電相( T > Tc )でも,局所的にみると,すでに,強誘電相( T < Tc )と同じ対称性C2に低下していることが,我々の実験で明らかになり6), プロトントンネリングモデルへの強い疑義が出された.この実験結果を契機として,ラマン散乱,X線回折,中性子散乱など多くの実験が行われ,KDPの強誘電性相転移の動的な機構は,プロトンの直接のトンネリングによるものではなく,局所的に歪んだPO4四面体による秩序無秩序型として理解したほうが,多くの実験結果に対して整合性のあることがわかってきた.
しかし,一方でPeercy による高圧下でのKDPの低振動数ラマン散乱の実験から,この結晶の強誘電性相転移が,秩序無秩序型ではなく格子振動の凍結を伴う変位型の性格をもっており,プロトンのトンネリング運動と格子振動が結合したモデルで説明できることが主張されている7)

 また,Samara による高圧下の誘電測定の実験から,KDPは1.7 GPa 以上の圧力下で,強誘電性相転移そのものが消失することがわかった8).さらに,遠藤等は,室温高圧下のX線回折の実験より,上記の強誘電性相転移の消失に対応すると思われる,結晶構造上の異常を見つけた9).室温高圧下のラマン散乱スペクトルの解析からは,約2 GPa以上の圧力下では, PO4s四面体の局所的な対称性の低下が解消され, C2からS4の対称性に上昇することが明らかになった10)

KDPの相転移機構のモデル

 KDPの強誘電性相転移を説明するために,これまでに数多く提出されてきたモデルのうち,主なモデルをほぼ年代順にまとめると以下のようになる.

  1. スレ−タ−モデル (Ice rule) (Slater11))
  2. プロトントンネリングモデル (Blinc-Zeks1))
  3. Over-Damped Phononモデル (Kaminow-Damen12))
  4. プロトン−格子振動結合モデル (K.K.Kobayashi13))
  5. Two Oscillators 結合モデル (Katyar-Ryan-Scott14), Lagakos-Cummins15), Peercy7), et al.)
  6. PO4秩序無秩序モデル (Tominaga-Tokunaga6))
  7. プロトン−内部振動結合モデル (Simon-Gervais16))
  8. 非対称ポテンシャルモデル (Sugimoto-Ikeda17))
  9. プロトンポーラロンモデル (Yamada18))

 (1)のスレーターモデルは,水素結合上の水素の位置に対して,氷Ihの場合と同様のice ruleを設定して,相転移を水素に位置に対する秩序無秩序の統計に置き換えて論じたものであるが,この理論では確かに相転移の起こる事は説明できるが,分極についての考察が抜け落ちているのが欠点である.また,同位体効果の説明についても無力である.(2)のプロトントンネリングモデルは,簡単に言えば,KDPで水素結合上の2つの平衡位置の間を,プロトンが量子力学的にトンネリング運動をしていることを仮定すると,トンネリング運動のないDKDPとの間の相転移点に関する重水素置換効果(同位体効果)がうまく説明されるというものである.(2)(3)(4)(5)(7)は,なんらかの意味でプロトントンネリングを考えており,KDPの相転移の型は結局のところ変位型相転移となる.これに反して,(1)(6)(8)は,プロトントンネリングを全く考えてなく,単純に秩序無秩序型の相転移となる.また,(9)は中間的な考えで,直接のプロトントンネリングは考えないが,格子振動に支援されたincoherent proton tunnelingというものを考える.しかし,この考え方は(8)の非対称ポテンシャルモデルと実質的には同等になり,実験的にも秩序無秩序型のスペクトルを与える.

 KDPの相転移機構が変位型か秩序無秩序型かに研究者がこだわるのは,プロトントンネリングモデルが,結果として変位型の相転移を示すからであり,この相転移の型を決めることが水素結合の相転移へのかかわりを明らかにするための重要な指標になっているからである.

ラマン散乱分光とKDPの相転移機構

 結晶のラマンス散乱スペクトルは,分極率テンソルαijが基準振動によって変調をうけるかどうかで活性がきまるので,考えている基準振動が結晶点群のどの規約表現に属しているかが重要になる.KDPの結晶点群は常誘電相でD2d,強誘電相でC2vである.KDPの格子振動領域の並進モードと束縛回転モードの属する規約表現とその数を,それぞれの点群において表2に示した.

表2 KH2PO4結晶の格子振動領域の因子群解析

Tr: 並進モードの数  R: 束縛回転モードの数
x, y, z: T > Tcでの結晶軸
x', y': T < Tc での結晶軸(z軸を中心に45度回転)

D2d (T > Tc )
Tr Rαij
A101xx+yy, zz
A201
B120xx-yy, x'y'
B2(z)10xy, x'x'-y'y'
E(x, y)32yz, zx
D2d (T > Tc )
Tr Rαij
A1(z)11x'x'+y'y', zz
A221x'y'
 
B1(x')32x'z
B2(y')32y'z
x(yx)yスペクトル: T > Tc B2(z) ===> T < Tc A1(z)

 表2からわかることは, 例えばx(yx)yの配置で格子振動領域のラマン散乱を測定すると,散乱ベクトルはxy平面にあるので,分極率テンソルαyx (= αxy) への変調を通してz軸方向に分極をもつB2(z)に属する「横波」の基準振動モードが,ただ1個のみ現れるということである.また,この配置で強誘電相まで温度を下げると,C2vでのA1(z)束縛回転モード1個がこのスペクトルに加わり,合計2個の格子振動モードが現れる.

 KDPの相転移にかかわるモードのラマン散乱スペクトルを,最初に測定して解析したのはKaminowとDamenである12).常誘電相でKaminowとDamenが測定したものと同じ格子振動領域のx(yx)yラマンスペクトルを強度をlog表示にしてFig.1に示す.このスペクトルで特徴的なことは,180 cm-1付近の格子振動の他に,幅が広く強度の大きい中心成分が存在することである.「この中心成分の起源が何か?」の解釈が,水素結合との関係で長い間の論争になるのである. KaminowとDamen達は,この中心成分のスペクトルを「過減衰した振動モード」として解析し相転移を変位型とした.彼らはこのモードをはっきりプロトンモードとは断定しなかったが,相転移点に向かって振動数が減少する過減衰ソフトモードとして,プロトントンネリングモデルを想定した解析を行った.

Fig.1 : KDPのT = 295 Kでのx(yx)yラマンスペクトル.縦軸の強度はlog表示してある.180 cm-1 付近のモードが,群論から期待されるB2(z)並進モードである.このモードの他に,強い中心成分が存在するのが特徴である.

 x(yx)yラマンスペクトルの180 cm-1付近の格子振動モードは,群論から示されるとおり, B2(z)横波の並進モードであることは疑う余地がない.もし,この並進モードの振動数が温度の低下と共に,低振動数側にシフトしてゆき,相転移点に向かってゼロになれば,典型的な変位型の相転移になり何も問題が生じなかった.しかし,KDPの場合,この格子振動の振動数はほとんど温度変化しないで,むしろ中心成分のスペクトルの方が相転移点に向かって顕著に変化したのである.

 これまでの記述で明らかなように,この中心成分の起源は,群論の解析から得られる基準振動モード以外の自由度に求めなければならない.この自由度の候補として,プロトンの量子力学的なトンネリング運動と分極の熱的な運動が考えられるが,多くの実験家は迷うことなく,このスペクトルの起源を,プロトントンネリングに求めた.その大きな理由の一つは,Blinc達の提案したトンネリングモデルが,重水素置換効果(同位体効果)を説明する上で大変魅力的であったことがあげられる.しかし,もう一つの大きな理由は,KDPとDKDPのx(yx)yラマンスペクトルの温度変化にあった.常誘電相の x(yx)yラマンスペクトルをそのまま強誘電相まで冷やすと,KDPでは中心成分の中から1個の振動モードが出現するが,DKDPではこのモードに対応する応答が観測されなかったのである19). このため,KDPに存在してDKDPに存在しないこのモードこそプロトントンネリングモードだとして,大方の実験家,理論家が納得してしまったのである.(この解釈が全くの間違いであったことは,後で述べる.)

 しかし,よく考えてみるとプロトンの運動はほぼxy平面内なので,プロトンの運動だけではz軸方向の分極は生じない.このため,あくまでトンネリングにこだわる解釈としては,プロトンの運動とz軸方向に分極を出す格子振動との結合という考え方が提出され,多くのx(yx)yの低振動数領域のラマンスペクトルが2個の振動モードの結合として解析された.これらの解析では結合した低振動数側のモードを過減衰と考え,程度の差はあるが,これを暗黙のうちにプロトントンネリングモードと考えていた.これらの中でLagakos-Cumminsが行った実験と解析15) は,大変信頼できるものである.しかし,そのスペクトルのフィティングには,系統的なずれがはっきり現れており,2個の結合振動モードでの解析の限界を示すことになった.

 この系統的なずれを完全に解消するためには,単純に2個の振動モードの結合ではなく,中心成分として緩和型のモードを導入すればよい.転移点の近傍で中心成分が急激に変化していることは,注意してながめると,最初のKaminow-Damenのスペクトルの温度変化にも現れているが,緩和型のモードが相転移の主役を演じることをはっきりと示したのは,Tominaga等20)および,独立にKasahara等21)である.また,後にShin等22)がハイパーラマン散乱でこのことを確認した.

 KDPおよびその同族結晶のx(yx)y常誘電相のラマンスペクトルの低振動数領域を,最も忠実に再現する方法は,1個の緩和モードとA1束縛回転モード及びB2(z)並進モードの2個の振動モードをfactorized-formと呼ばれる,積で表された誘電関数にして用いることである23).結論だけを述べると,歪んだPO4四面体,あるいは,H2PO4の担うストカスティックな分極のゆらぎ(緩和型のモードを与える)が,本来禁制のA1束縛回転モードを介して,B2(z)並進モードと結合することによって,複雑なスペクトル形を出しているということである.この考えのポイントは,従来プロトントンネリングモードとされてきた応答を,禁制のPO4のA1束縛回転モードと考えることである.禁制モードがスペクトルに現れる理由は先に述べたように, PO4が常誘電相でも,すでに局所的に強誘電相と同じ対称性に歪んでいるからである. PO4が強誘電相と同じ対称性に歪んでいる証拠は,分子振動領域でのラマンスペクトルの解析6) に述べられている.

 常誘電相のx(yx)yラマンスペクトルの中心成分がプロトンのトンネリングに由来するものではないことは,別の実験からも明らかになった.先に,「常誘電相の x(yx)yラマンスペクトルの配置のまま強誘電相まで冷やすと,KDPでは中心成分の中から1個の振動モードが出現するが,DKDPではこのモードに対応する応答が観測されなかった.」という実験結果が,中心成分をプロトントンネリングによる応答と同定する有力な実験的根拠になっていたと述べた.しかし,Fig.2に示すように,KDPとDKDPの混晶系(KDP)1-x(DKDP)x で,相転移点から十分に低いT = 100 K のx(yx)yラマンスペクトルには,すべての試料ではっきりとKDPのモードに対応するモードが存在していることがわっかった.しかも,その振動数はDKDPの濃度が上昇するとともに高くなった.実は,DKDPでは転移点の直下では,このモードがスペクトルに現れないのであるが,十分に低温にすることによりその存在が確認され,しかも,振動数の濃度変化から,このモードが水素/重水素には,全く関係しないモードであることがわかった.このモードはPO4四面体の束縛回転モードなのである.この実験事実から,少なくともラマン散乱スペクトルから,プロトントンネリングの存在を結論するのは,全く間違っていたことになる.

Fig.2 : KDPとDKDPおよびその混晶のT < Tcでのx(yx)yラマンスペクトル.縦軸の強度はlog表示してある.矢印は, T > Tc での中心成分から出現したA1(z) 束縛回転モードである.KDPのみでなく,DKDPにも存在しており,重水の置換率x の増加とともに,この振動数が上昇する.この事は,このモードがHとDにかかわるモードではない事を示している.

中性子散乱と非対称ポテンシャル

 さらに決定的な結果が,KEKにおいて,KDPに対する中性子コンプトン散乱の実験から得られた24).中性子コンプトン散乱からは,水素結合上のプロトン波動関数のフーリエ変換の絶対値の二乗平均が得られる.もし,プロトンが対称的なdouble minimum potentialの間を量子力学的にトンネリングしているとすると,干渉効果によって散乱強度の波数依存性には,二つの極小位置間の距離の逆数に相当する波数の位置に,干渉効果に対応するセカンドピーク(干渉ピーク)が現れるはずである.しかし,結果は常誘電相も強誘電相も同じく単調減少で,セカンドピークを観測することはできなかった.つまり,プロトンのトンネリング運動に対応する波動関数の分布を検出することができなかったのである.

 このようにして,KDPの強誘電性相転移にプロトンのトンネリングがかかわっているとする主張は,多くの理論家の根強い抵抗にもかかわらず実験的に否定されていった.最後に残ったのは, KDPの相転移を変位型と結論づけたPeercyの高圧下の実験である.しかし,この実験結果の解釈も,先に述べた緩和モードを含むfactorized-formの誘電関数で再解釈することができ,他の実験と整合性よく秩序無秩序型と結論づけることができた25)

 プロトンのトンネリングが否定されていく過程で,常に問題にされた事は,それでは,プロトンのトンネリングなしで,相転移温度の重水素置換効果(同位体効果)をどう説明するかであった.これに,納得のいく説明を与えない限り,いくら実験的にプロトンのトンネリングを否定しても,なかなか受け入れられない状況が続いた.

 この重水素置換効果の問題を,水素と重水素のポテンシャルの差まで考えて,具体的に筋道を与えたのがSugimoto-Ikeda の非対称ポテンシャルモデル17)である.このモデルの画期的なところは,これまでの物理屋の常識に反して, T > Tc でも,結晶の水素結合に対して対称なdouble minimum potentialの存在を否定したことである.結晶中の水素結合の水素のポテンシャルに非対称項を導入することにより,中性子非干渉性散乱から得られた水素モードと重水素モードのエネルギー差を,整合性よく説明することができるようになった.非対称ポテンシャル中でのHとDの零点振動エネルギーの差が,H(D)とPO4の歪みの相互作用にはねかえる事で,重水素置換効果が説明される.このモデルのおかげで,やっと,KDPの相転移機構の問題はプロトントンネリングの呪縛から開放された.

最近の結果

 我々は,これまで,KDP型結晶の相転移の動的機構をラマン散乱分光のスペクトル解析からプロトントンネリングの考えを否定し,代りに,局所的に歪んだPO4四面体という考えを提案してきた.しかし,ラマン分光だけからは,水素の運動そのものを特定する事ができず,間接的にしかトンネリングを否定する事ができなかった.このため,水素の運動に関してはいつも中性子散乱の結果を参照しながら考察をせざるを得なかった.

 最近,KDPとDKDPの混晶系の分子振動領域のラマンスペクトルを解析する事によって,水素と重水素の運動によるスペクトルを,PO4四面体の分子振動から分離して同定する事に成功した.こうして得られた水素と重水素の運動を,常誘電相と強誘電相で比較検討する事によって,いずれの結晶においても,水素と重水素は明らかにLocalな分子振動をしており,プロトンの集団運動につながるようなトンネリングモードを考える必要は,全くない事が明らかになった.つまり,ラマン散乱分光だけから,直接,水素と重水素のモードを測定できるようになり,KDP型結晶の相転移の動的機構に対する新たな知見を得る事ができるようになった.

 KDP/DKDP混晶系の強誘電性相転移温度は、KDPの122 Kから、DKDPの218 KまでDの濃度増加とともに、ほぼ直線的に変化する.Fig.3に、KDP0.54/DKDP0.46混晶の強誘電相T = 100 Kでの z(xy)-z の高振動数領域のラマンスペクトルをドットで示す.この散乱配置の高振動数ラマンスペクトルでは、B2(LO)に属する分子内振動モードを測定する事ができる。実線は、同じ配置z (xy)-z で測定されたKDP (T = 91 K)とDKDP (T = 101 K)の、単純な和スペクトルである。混晶の強誘電相のスペクトルが、純物質の和スペクトルでほぼ再現されていることがわかる。Fig.4に、KDPの水素モードとDKDPの対応する重水素モードの振動数の相関を示す。○が強誘電相で●が常誘電相での値である。直線の勾配は1/1.37で、これは、O-HとO-Dの換算質量の比の平方根に一致している。

Fig.3 : KDP0.54/DKDP0.46の混晶系の強誘電相T = 100 Kでの z(xy)-z の高振動数領域のラマンスペクトル.測定値をドットで示す.KDPとDKDPの単純な和スペクトルを実線で重ね書きしてある.水素(重水素)モードのっ領域でのスペクトルが,和スペクトルで再現されているのがわかる.
Fig.4 : KDPの水素モードと対応するDKDPの重水素モードの振動数の相関を示す.これらの振動数の組みは,勾配1/1.37の直線に載っている.この勾配の値は、O-HとO-Dの換算質量の比の平方根に一致している。

 以上の結果から、KDP/DKDP混晶のz(xy)-z 高振動数ラマンスペクトルに現れるブロードなバンドは、水素と重水素の運動に由来するモードである事が明らかになり、それらは、PO4四面体の分子内振動モードと、はっきり区別される形で現れる。また、(重)水素モードが、強誘電相でも純物質の和スペクトルでほぼ再現されたという事は、水素結合が局所的には、それぞれ純物質の結晶での構造の個性を保っているという事を示している。これらの振動数は、常誘電相と強誘電相でほとんど変化しない事も明らかになった。これは, KDPにプロトントンネリングが存在するという考えと明らかに矛盾するものであり,水素結合性強誘電体の相転移機構にプロトントンネリングのような水素の集団運動につながる特別なモードを考える必要のない事を示している.

蛇足

 KDP型結晶におけるプロトントンネリングの考えが間違っていた経緯を,主に,ラマン散乱と中性子散乱の結果に基づいて述べてきたが,このプロトントンネリングのアイディアは相当に根強く,このアイディアにこだわる主張が,主に欧州のグループによって出されている.これがSimon-Gervaisによる20 cm-1までの遠赤外反射の実験に対する,プロトン−内部振動結合モデル16)である.このモデルでは要するに,プロトンのトンネリングと格子振動の結合による説明がうまくいかなくなったので,無理やり,PO4の内部振動と結合したモードが中心成分まで延びていると解釈しようというものである.しかし,Shin 等は,放射光を用いた3 cm-1までの遠赤外反射のスペクトルは,どうしても緩和モードを中心成分にしなければならないということを主張している.

 実は,この一連の論争には,最初に議論しておかねばならなかったことがあったのである.それは,結晶の水素結合上に二つの平衡位置があるとき,このHに対するポテンシャルが対称的なものであるという,暗黙の思い込みがあってはいけないということである.結晶の水素結合はまわりの環境の影響を直接受けるので,まわりが「力学的」に対称的でない場合,水素のポテンシャルは対称にはならない.むしろ,非対称の方が普通であることが,その後の議論で明らかになってきたのである.

 また,ふりかえってみると,KDP/DKDP混晶系の相転移温度が重水素の濃度に対して直線的に変化する事は,混晶系の相転移が,KDPとDKDPの相転移に関る相互作用の単純な平均になっている事を示しており,トンネリングのような,新たな機構を考える必要のない事を,最初から示していたと思われる.最近の混晶系での実験結果は,それぞれが局所的には個性を保っている事を示しており,相転移温度の直線性と整合性のよい結果となっている.

文献

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TOMINAGA, Yasunori /
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