低振動数ラマン散乱で見る液体のダイナミクス

3.水の動的構造と現象論的解釈

 水・電解質水溶液系のラマンスペクトルは、ピークの強度比や幅に多少の違いがあるものの、図2と同じような形になる。このスペクトルを解釈するのに、これまではCole-Cole型の緩和モード

eqn.3

と式(2)で示した減衰振動モード2つの重ね合わせの式を用いてきた。

 Walrafenらは、水分子同士の配置としてゆがんだ4面体モデルを提案し(図3)[7]、水の低振動数ラマン散乱スペクトルには氷の格子振動の名残である歪んだ4面体の振動モードが現れていると考えた。さらに、180 cm-1付近のモードを水分子5個の間の伸縮振動、50 cm-1付近のモードを水分子3個のO-O-O間の変角振動と考え、20 cm-1以下の成分については弾性散乱の成分と解釈し解析から除いた[8,9,10]

fig.3
図3:水の歪んだ4面体構造のモデル。水分子間は水素結合で結ばれている。中心の酸素に注目すると、2つの水素は共有結合で残る2つの水素は水素結合である。結合の性質が異なっているので4面体としてはひずんだものになっている。[7]

 ここで注意しておきたいのは、液体の水がこのような孤立した4面体の集まりではないということである。分子動力学の結果は、図3の外側にある4つの酸素に対してさらに別の水が水素原子を向ける形で水素結合し、3次元的にネットワークを作ったような形を予測している[11]。熱揺らぎで水素結合は生成消滅を繰り返し、その結果このネットワークは〜10-12秒のオーダーで組み替えがおこっている。ある瞬間のスナップショットをとれば、図3のような4面体になっている部分が存在し、その構造が持続している間だけ分子間振動が可能である。平均構造として分子間振動が可能な部分が存在しているから、ラマン散乱の測定で分子間振動が観測できるのだと考えられる。十分長い時間観測する(ずっと低い周波数領域のスペクトルを見る)と、水分子は全くランダムにその位置を変えているだろう。しかしある時間スケールで観測すると、水分子同士の相関をもった動き、すなわちある種の構造が見えてくる。この時間を考えに入れた構造のことを動的構造という。水の「構造」という概念は、EisenbergとKauzmanによって最初に提案された*3

 我々はWalrafenらの結果をふまえて、180 cm-1付近のモードと50 cm-1付近のモードが減衰振動であると仮定した。さらに、20 cm-1以下の成分にはCole-Cole型の緩和関数をあてはめると、水・電解質水溶液の温度変化、濃度変化ともに低振動数領域のスペクトル全体をとりあえずよく再現できることがわかった(図2)[11,12,13,14]

 ジオキサン水溶液で180 cm-1付近のモードの濃度依存性を調べると、水のモル分率0.8以下、すなわち水分子4個に対してジオキサン分子が1個の割合以下でこのモードが見えなくなった[16]。ジオキサンは自身は水素結合を作らないが、水と任意の濃度で混合することができ、混合に際して水の水素結合を壊して混じっていく。この結果より確かにこのモードが水分子5個を単位とする振動によるものであることが確認できた。

ところがこのCole-Cole緩和と減衰振動2個の重ね合わせによる解析には次のような問題点があった。

  1. 水・電解質水溶液ともに、フィッティングの結果得られた50 cm-1のモードの強度・振動数が室温以上の温度変化に対してほとんど変化しない。このことは、温度上昇にともなって水分子の熱運動により水素結合が切れていくと考えただけでは説明がつかない。また、Walrafenらによる水の高圧下でのスペクトルでは、圧力の増加によって水分子の4面体構造が壊されて180 cm-1付近のモードが見えない状態でも、50 cm-1のモードがしっかり残っている[10]。50 cm-1のモードが変角振動のみによると考えると、分子間の伸縮振動がまったくない状態で変角振動のみが存在するということになり、これは考えにくい。しかし、もう1つ新たに振動モードを入れる根拠は今の所ないし、振動モードを追加して解析するとパラメータが増えすぎて、おそらくフィッティングが収束しなくなる。
  2. 図4に、水の4000 cm-1までのスペクトルと、図2の低振動数領域のフィッティングによって得られたCole-Coleの成分と、四塩化炭素のスペクトルを示す。四塩化炭素に比べると水のスペクトルの強度は4000 cm-1にいたるまで大きく、Cole-Cole型関数の高振動数端があたかもバックグラウンドのように見える。四塩化炭素をはじめとする他の有機溶媒では分子間振動の領域と分子内振動の領域がはっきり別れるので、Cole-Cole型の関数を使うとスペクトルよりfitting関数の方大きくなってしまい使えない。また、感受率の虚部にCole-Cole型の成分があって、ずっと高振動数領域までこの裾野が続いているとすると、対応する吸収エネルギーは無限大に発散する。水には本当にバックグラウンドがあるのだろうか? Cole-Cole型の緩和成分はどこまで延長可能なのだろうか?
fig.4
図4:水と4塩化炭素のスペクトルの比較

 水のスペクトルのバックグラウンドについて、Walrafenらはcollision-induced background*4という考え方で説明しようとした[17]。これは、もともと単純液体(液体窒素など)の光散乱スペクトルでみられるバックグラウンドの説明のために提案されたものである。同じことが液体の水に対して成り立っていても不思議はないが、他の有機溶媒(ベンゼン、トルエン、アセトンなど)でバックグラウンドが出てこないことをどう説明するのだろうか? 液体中での分子間の衝突は有機溶媒でもごく普通に起きているはずである。

*3 「水の構造と物性」カウズマン・アイゼンバーグ著(関・松尾訳)みすず書房
*4 collision-induced absorptionというのもあるが、これは遠赤外領域での有機溶媒の吸収ピークの原因として提案されたもの。collision-induced backgroundは光散乱のスペクトルにあらわれる高振動数領域まで続くなだらかなバックグラウンドのこと。


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