低振動数ラマン散乱で見る液体のダイナミクス

6.電解質水溶液の動的構造

 電解質水溶液に対しても、MRTモデルと減衰振動2つの重ね合わせによるフィッティングを行うことができる。LiCl、NaCl、KCl水溶液を室温で濃度変化させて測定し、緩和時間とα0を求めた。

fig.13
図13:緩和時間の電解質濃度依存性
fig.14
図14:α0の電解質濃度依存性

 Li+,Na+は構造形成イオン、K+は構造破壊イオンといわれている。Li+,Na+ではイオン半径の小さなところに1価の電荷が集中しているため、水和圏の水を強く引きつけるため水分子は純水中よりも動きが遅くなる(構造形成)が、K+はイオン半径が大きいため水はイオンの影響を受けると同時に水素結合ネットワークが切られる効果も受け、このため純水中より動きが速くなる(構造破壊)。1価塩化物の水溶液でプロトンの緩和時間や自己拡散係数を測定すると、Li+,Na+では濃度増加とともに緩和時間は長くなり自己拡散係数は小さくなるが、K+では緩和時間は短く、自己拡散係数は大きくなる*8

 MRT模型によるラマンスペクトルの解析では、Li+,Na+の構造形成効果とK+の構造破壊効果が定性的に変調の相関をあらわすパラメータα0ににあらわれることがわかった(図14)。濃度0(純水)のα0の値を境にして、Li+,Na+では濃度の増加とともにα0が大きくなるがK+では小さくなる[32]

 α0は、ラマンの緩和モードに寄与している分極率の相関が感じている熱浴の相関に対応すると考えられる。α0が大きいときは熱浴の相関が強く揺らぎは有色ノイズであり、α0が小さいと白色ノイズに近づく。構造形成的なイオンの場合に水よりもα0が大きくなり、構造破壊イオンの場合にα0は小さくなっている。NMRのプロトン緩和時間は、個々の水分子のプロトンがイオンのまわりにどれくらいの時間滞在するかということの指標であり、これとα0が定性的に相関するのは興味深い。MRTモデルから得られた緩和時間が分子の集団的な運動の相関を反映するのに対し、熱浴の相関の程度はむしろ個々の分子の運動を反映すると考えられる。ラマンのスペクトルからイオンの構造形成・破壊に関する情報を取り出したのはこれが最初である。

 緩和時間と変角振動モードの関係をさらに調べるために、電解質水溶液の温度変化を測定した 。モル比0.08のLiCl、NaCl、KCl水溶液とモル比0.2のLiCl水溶液を測定し同様の解析を行った。直接強度の比較ができないので、それぞれのスペクトルに対して50 cm-1と180 cm-1のモードの強度比を温度に対してプロットして比較した。50 cm-1の強度が0になると強度比も0になる。

fig.15
図15:50cm-1と180cm-1の振動モードの強度比

 緩和モードが振動モードにかぶっている状態でfittingで強度を振り分けており、測定データのノイズの影響もあって、fitting結果がばらついているが、定性的な傾向は読みとれる。

 水では300 Kを境にして変角振動が見えなくなる。モル比0.08の電解質水溶液は320K前後で 変角振動が見えなくなる。しかし、モル比0.2のLiCl水溶液は高温になってすべてのモードの強度が著しく減少するまでずっと変角振動が見えている。このときの緩和時間を次に示す。

fig.16
図16:緩和時間の温度依存性

 水と水溶液では変角振動モードの振動数にそれほど大きな違いはない。図16に示した0.72 psとは、緩和時間が変角振動モードの時定数の約5倍となる時間である。図16と図15を比べると、緩和モードの緩和時間が速くなって変角振動モードの時定数の5倍以下となることと変角振動モードが見えなくなることがよく対応している。また、ガラスになることで知られているモル比0.2のLiClは温度を上げても緩和時間が0.72 psより小さくなることはなく、これに対応して高温でも変角振動モードと緩和モードを区別することができている。

 ラマンで見える緩和の緩和時間を、分子間振動のユニットの寿命と解釈すると、この結果を定性的に説明することができる。293 Kでの緩和時間は0.72 psで、変角振動の振動数は44cm-1であり、これに対応する周期は1/(2πω)=0.12 psである。緩和時間が振動数の約5倍より短くなると十分振動する前に分子の配置が壊れてしまって明確な振動として観測されず、しかし、分子運動には振動が崩れた成れの果ての相関が残るため、有色ノイズの効果をとりいれたMRTモデルの波形に取り込まれてしまうと考えられる。近似の破れを取り入れた緩和モードと変角振動モードをはっきり区別することが、解析の上ではできないようである。一方伸縮振動は192 cm-1で、変角振動の4倍以上速い振動であり、高温になって振動のユニットの寿命が短くなってもまだ十分な回数振動できるから振動のピークとして観測される。



*8 「水の分子工学」(上平著、講談社(1998))4章が詳しい。


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