低振動数ラマン散乱で見る液体のダイナミクス

8.まとめ

 ラマン散乱の測定をしてみると、緩和モードよりちょっと高い振動数の所に分子間振動が存在したりGaussianに見える広がったピークが存在したりする。ラマン散乱の緩和の具体的な原因はまだはっきしりないが、分子相互の配置によって4極子ができて、その4極子を構成している分子そのものの熱揺らぎで、4極子が変化することで出てくると考えられる。このような場合に、緩和モードのすぐ近くに別のモードが存在すると、そのモード固有の動きが熱浴を通して緩和モードに影響し、結果として緩和モードのbandshapeが変わってくる。マイクロ波領域の誘電緩和のように緩和の特徴的な時間が分子間振動の時定数よりずっと遅い場合は、振動数の高い運動による影響をすべて熱浴にたたきこんで、白色雑音として分離することが可能である。また明確な分子内振動が観測されるような領域では、その振動モードにとっては分子間の位置の揺らぎはずっと遅いのでほとんどconstant backgroundにしか感じられないだろう。

 これらの中間では、着目系(緩和モード)と熱浴を完全に分離することができない。従って液体のラマン散乱の緩和の関数型を決めるには熱浴の性質を取り入れることが本質的に重要である。MRTモデルでは熱浴の相関が入っているが、熱浴と緩和モードの分離のcriteriaが無く、現状ではfittingアルゴリズムに頼っている。一方、液体のモード結合理論では速い動きと遅い動きを射影演算子で分離して同じ時間発展方程式に従うと仮定する(密度相関を記述するときは、4体の相関関数が2体の相関関数の積で書けるという近似をする)が[36]、多くの論文で実験結果の解析に適用されるときにはfitting関数としてDebyeを引き延ばしたKWW関数などが使われることが多く[37]、これを高い周波数まで適用するのは疑問である。注目するモードから分離させた速いモードは相関のある熱浴として効くはずだから、この効果を取り入れた関数型を使うべきだろう。モードの分離が十分にできている状況なら、KWW関数やDebye緩和が良い近似になると思われる。逆に、緩和時間が遅くなっていくときにMRTを使った解析にもう1つ拘束条件を課すとしたら、モード結合的な考え方に基づくものになるのかもしれない。最終的にはモードの振り分けが妥当かどうか、分子動力学の結果とあわせるなどして検証することが必要だろう。

 MRTモデルでは、フィッティングの結果から、ミクロで速い動きを反映する熱浴の性質を取り出すことができる。図23は、室温の水のフィッティングパラメータを用いて2状態遷移模型の時系列を乱数を用いて発生させ、パワースペクトルを計算したものである。この計算結果は、分子動力学計算で求められる分子の揺らぎと何らかの形で比較することが可能ではないかと考えている。

fig.23
図23:室温の水のフィッティングパラメータから、2状態模型の時系列を計算して求めたパワースペクトル。計算の都合上、時間スケールを3つに分けて計算したものを滑らかにつないだため全体に少しS/Nが悪い。

 緩和時間の分布を考えてよいのは、系の動きが十分遅いときである。緩和モードのもとになっている素過程が分布をつくるためには、分布できるだけの時間スケールの幅が必要である[38,39]。低振動数ラマン散乱の観測範囲では、緩和を導くときに前提としたoverdamped limitがすでに破れ始めており、このような領域で緩和時間の分布を考えるのは無理があると思われる。

 現象論では、分子間相互作用の細部を知らなくても、それなりに測定したスペクトルから情報を得ることができるという利点がある。しかしモデルの選択如何によっては時として誤った描像を持ってしまう。選んだモデルが物理現象の解釈を規定してしまうからである。

 従って、現象論的な解析で得た解釈が他の実験結果と矛盾する場合には、そのモデルを捨てなければならない。また、モデルを使うときには、それがどういう前提のもとに作られたものかしっかり理解しておく必要がある。もちろんモデルだけではなくて、測定手法の持つ特徴も正しく理解しておかなければならない。可視光による光散乱では、光のエネルギーが分子運動に近いのでエネルギー分光ができるが、光の波長は分子のスケールより遥かに長いので、k 〜0の測定となって空間情報は落ちてしまう。このような測定結果を解釈するのに、例えばクラスターサイズといった空間相関にかかわる曖昧な概念を安易に持ち込んではならない。

 水やアルコールといった複雑な液体を理解する場合でも液体一般を記述する枠組にのっとって考えるべきで、かつ、他の手法による結果と矛盾しないように進んでいく必要があると思う。この際、統計物理は強力な道具となるだろう。

謝辞

 いつも貴重なアドバイスをくださる、お茶の水大理学部物理学科の柴田先生に感謝します。また、「非平衡の統計物理シンポジウム」で発表の機会を与えてくださった筑波大学理学部の有光敏彦先生にお礼申し上げます。

This work is partly supported by a Grant-in-Aid for Scientific Research from the Ministry of Education, Science, Culture, and Sport.


top pageへ戻る
目次に戻る

Y.Amo /
当サーバ上のページに関する問い合わせや苦情のメールは公開することがあります。