故・真下 悟 教授を偲んで

 真下先生に最初にお会いしたのは、私が修士1年の秋だった。

 私のテーマは、冨永教授が東大の和田研からゆずりうけたTDR(時間領域反射法)による誘電緩和測定装置をちゃんと動かして、DNAゲルの凍結過程を測定し、結合水の挙動を調べるというものだった。装置はオシロやデジタルメモリやパルスジェネレータが別々の部品で、接続と計算プログラムの使い方を元和田研の坂本健博士に教わり、プログラム言語のシステムが古かったので勉強のついでにFortranからCに移植し、いくつかわからない定数があるものの、秋頃には動き始めた。しかし、DNAのゲルのような、イオンを含んでいて直流導電率のあるもののデータ処理はそのままではできないという問題があった。また、譲り受けたサンプルセルでは大きすぎて、DNAのような少量しか使えない試料を測るのも難しかった。そのため、指導教官の冨永教授に連れられて、東海大の真下研究室に相談に行った。また、結合水が見えるかどうか確認してもらうために、DNAゲルの試料も持ち込んだ。

 真下先生は、ゲルを測定して、確かに結合水が2種類ありそうだということを見せてくださった。それから、SMAコネクタを利用して、微量の液体用やゲル用のセルを作る方法や、セミリジドケーブルをセルとして使う方法について、実物を見せて教えてくださった。また、すでに直流導電率のある生体高分子溶液の測定法も開発しておられて、その方法が書いてある論文と、どうやって直流成分を補正するかを丁寧に解説してくださった。未知試料の誘電率を決めるには標準試料の誘電率の正しい値が必要になるのだが、それも教えてくださった。

 お茶大に帰ってから、セルを作ってくれる会社を探して発注し、真下先生の出された論文を読んで、その通りの計算をするプログラムを作り始めた。しかし、1回きいただけではわからないところが出てきた。例えば、反射波形の和で割っているところは実は反射波形の和の微分に置き換えて計算してよい、などということは論文だけからはすぐにはわからない。途中でつっかえる度に、東海大に電話をかけて真下先生に教えていただいた。途中の計算がうまくいかなかったこともあり、修士2年の夏は何回か行って、取ったデータと計算の途中の値を持っていって、ここまではあっている、ここからが違う、というのを1つずつ確認してプログラムをなおしていった。このときも、真下先生は決して面倒がったりせず、いつも丁寧に教えてくださった。何しろ初めて研究室で動かす装置を私は一人で立ち上げていたので、教授も助手も先輩も扱い方を知らず、真下先生が頼みの綱だった。

 どうにかプログラムを間に合わせて、DNAゲルを測定し、修士論文をまとめることができた。春の物理学会で発表したあと、完成したプログラムリスト付きの修士論文を持ってお礼をいいにいったら「よく間にあったねえ」と言われてしまった。修士2年の10月頃までプログラムと格闘していたうえ、院試が11月半ばでそっちの対策にも追われていたからである。

 修士を終わった私は、水の動的構造が生体分子の機能とどのような関わりを持っているかという興味から、タンパク質の研究をするつもりで、東大の博士課程に進んだ。ところが脳の研究を強く勧められた。ラットの脳スライスを電気刺激して出てくるグルタミン酸を微小な酵素センサーで測って、長期記憶との関連を調べるというテーマだった。しかし、始めて1年たたないうちに、はっきり言えないがどうもこの先うまくいきそうにないと感じ始めた。それで、遠からずテーマは変更せざるを得ないと予想して、進学のそもそもの目的であった生体系の水に関する論文や試料を集めはじめ、研究会などにも参加させてもらって情報収集をしていた。この間に、真下先生には集中講義でお茶大にいらした時や、岡崎の生理研での生態系の水の研究会などで数回お会いすることができ、いつも結合水の面白い話をきかせていただいた。結合水とともに動く分子、というイメージのわく話だった。

 所属していた研究室はバイオセンサーの研究室であったので、結合水もからむ話として、酵素などが分子と相互作用しているときに、水の状態が変わったりタンパク質の状態が変わったりして、それが誘電緩和で見えるのではないかと考え、東海大学まで一度相談しに行ったことがある。そのときは微小なセンサーというテーマもかかえていたので、電極を細くする話も含めて話をきいていただいた。このときに「そういう現象も見えるかもしれないね」とおっしゃってくださったことが、その後2年にわたって私の支えになった。

 指導教官に与えられたテーマの方はますますひどい状況で、センサーの選択性を上げる方法はわかったものの、神経伝達物質らしい信号は出ないままだった。そのうち遺伝子から攻めていたグループが、神経伝達物質を回収するチャンネルをつり上げて、神経伝達物質は正常な組織では漏れ出てくることはないという話になった。そもそものテーマ設定そのものが無理だった訳である。教授も助教授もまわりのスタッフも、前任者が測定成功と報告したため、できるものと信じ切っていた。それをひっくり返すために結局2年半もかかってしまった。

 それからテーマ変更の交渉が始まった。教授はセンサーで学位を取らせたかったらしいが、測定した結果の生理学的意味を説明できない限り、工学系ならともかく医学系の審査には通らないと説明し、どうしても水とタンパク質のからむ話をやると主張した。1回目に教授の言うことをきいていたらテーマごとつぶれたのだから、「次のテーマをください」と2回目に教授に頼むのは、学習効果のない馬鹿のすることだと思っていた。私が脳からもセンサーからも手を引くと宣言した後は、軽部教授は新しいテーマのための装置の購入や研究環境の準備を快諾してくれた。もう時間もなかったので、新しい測定法をあれこれ試す余裕はなく、私のできる方法で攻めるしかなかった。水がからめば生理学のテーマとして話を作れるので、再び誘電緩和でいくことにした。修士の時に、ブラックボックスの部分が全くないところまで真下先生にいろいろ教えていただいていたので、追い込まれた時に自分で動くための足場になった。

 それが足場になることを認識したのは、テーマ決めでもめて、(多分論文を提出したら審査委員になると思われる)人工心臓の藤正教授に相談したときだった。工学部のテーマとしてなら軽部教授のセンサー案でいいが、生理学のテーマにはならないということを説明したら、藤正教授は理解してくださった。同時に、「ぼくが何か君にアドバイスをするのは、君が、何ができる人なのかわからない限り無理だ」とおっしゃったのだった。

 誘電緩和分光は物質の濃度がある程度以上でないと信号が出てこない。分子量の小さいものほど高濃度にしないと出てこない。これを逆に利用して、小さな分子とタンパク質が結合したときに、結合による変化の分だけ拾い出すような系を探すというアイデアでいこうと決めた。

 最終学年の4月に装置の発注許可が下り、測定は時間領域がいいか周波数領域がいいか、装置を借りて比較のためのデータをとり、TDRに決めて発注をかけたのが5月の終わりだった。同時に必要になるセルやケーブルも発注した。それから、Macでプログラムを作りはじめた。7月の半ばに装置が納品された。MacとGPIBで接続し、データ取り込みの部分を追加して、7月末からルーチンの測定が始まった。この時、研究室からは400万円近い費用を出してもらっていた。「タンパク質の分子認識に関係する信号をとれる」という見通しのもとで走ったわけで、これがはずれたら私の信用はなくなる。これまでずっと下調べをし、自分なりに方針をたててきたことがつぶれるわけで、研究を進める上で非常に大事な予測の能力が、私には無いということになる。装置を発注してから、うまくとれる系を見つけて1つ目のデータが出るまでが、一番不安できつかった。このとき、前向きにがんばれたのは、「見えるんじゃないか」と言ってくれた専門家、つまり真下先生の一言が支えになっていたからだと思う。

 もっとも、あとから、「真下先生は決してネガティブなことを言わない」という話をきくことになったのだが。この時はそれを知らなかったし、知らない方がよかったのかもしれない。

 7月末からルーチンの測定、10月末日に学位論文提出、年明けの1月下旬に本審査というスケジュールだった。分子認識とタンパク質の変形の話で、その時までにそういう測定が無かったので、first observationを主張し、学位の審査に通ることができた。たまたま、秋に東大に移ってこられた先生が、水の話に興味をもってくださり、しかも副査で、論文の修正などを丁寧にみてくださったことも幸いした。

 かなり無茶なスケジュールで、論文を発表する間も就職活動する間もなかったので、学位はとれたが、どこの職にも実績がないため応募できないという状態だった。それで、1年間軽部研で、ウェブサーバの立ち上げなどをしながら、追加実験と論文書きをしていた。はじめて自分で書く投稿論文だったのでなかなか進まなかった。

 夏頃に、社会人大学院生をしていた人から、真下先生の噂をきいた。何でも会社の人たちを対象とした講演会でお話をされたということで、元気にがんばっておられるのだなあと思って、自分の励みにしていた。いずれ論文が通ったらそのときは報告に行こうと思っていた。しかし、後できいたところ、大学の仕事は相当な激務だったようだ。

 秋頃に、縁あって千葉の放医研で仕事をするということになった。それで、引っ越しなどで論文書きも中断してしまった。3月の終わりに、私は祖母の法事のため東京を離れた。戻ってきて、真下先生が亡くなられたという知らせを見たが、すでに葬儀は済んだ後だった。

 論文が出てからなどと考えず、なぜさっさと報告に行かなかったのか。「こんなアイデアでやりました、実はあの一言を支えにしてやってました、ありがとう」と伝えることが、もう永久にできなくなってしまった。真下先生に教えていただいた技術のおかげで、1年で学位をどうにか取って、次のステップに進むことができたのに。教えを受けた時間は、真下研の学生に比べれば短いものかもしれないが、その時間で私にとって本当に大事な知識と技術を伝えてくださったのに。ささやかではあったが、真下研の流れとも冨永研の枠組みとも違う種類の研究をやりました、と報告したかった。

 真下先生は、研究会の後の懇親会では、決してお酒を飲むことはなかった。だいぶ前に肝臓をひどく悪くして、ドクターストップなのだときいた。「肝臓は沈黙の臓器」ってのは俗説じゃなく、医学的にも本当で、症状が出たときはすでに相当悪いということも知っていた。動脈瘤だって原因は血圧が上がるためで、血圧を上げなきゃならないのはそれだけ血流量を増やす必要があるからで、つまりは機能の低下分を流量の増加で補償しようとするからだということも知っていた。健康状態に不安のある人なのだということも頭の片隅にはあった。それなのに、3年近くの間、報告はいつでもできるつもりでいた。医学が進んで管理が良ければなんてことないんだろうと勝手に甘くみていた。完全に油断した。

 私は、知らせをきいて2、3日は本当に食事ができなかったし、その後1カ月位は、滅多に人が来ない放医研の計算機室の片隅でぼうっとしていた。さらに風邪をこじらせて、2カ月ほど気管支炎のまま過ごしていた。

 亡くなられたのは学会の直前で、冨永教授はは学会に行く前に病院に行って、奥様にお会いしたとのことだ。そのときに「主人がしてきたことを無駄にしないでほしい」ということをおっしゃていたらしい。私としても、何かその役に立ちたいが、自分の職もままならない状態では、研究ではどうしようもない。さしあたり私が持っているのは、TDRの測定の技術と、教えを受けて作ったプログラムだけである。真下先生が開発された手法を広めて、より多くの人が使えるようにするためには、始めるときの敷居が低い方がいい。だから、全部のソースをつけて、Macintoshで動くTDRのディファレンス法のプログラムを公開することにした。作ってる状態で研究の方ががデスマーチだったので、美しいプログラムとはいいがたい。それでも、始めるにあたってまともに動くものがあれば、少しは参考になるのではないかと思う。他にも測定関連の情報で、私が出せるものはまとめて公開することを考えた。

 放医研に居る間は、個人のウェブサーバの整備が十分でなくて、公開がままならなかった。冨永研に居候してからも、なかなか教授がサーバを上げる余裕がなかったので、今年になって私は勝手に立ち上げて始めることにした。それでやっと環境が整った(?)ので、プログラムを公開することにする。

 伝え損なった想いは、私が自分でこれからもずっと抱えて墓の下まで持っていく。生きてる間にできることは、これだけである。




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