水のクラスター
−伝搬する誤解−

目次

はじめに

 最近、食品や化粧品の会社の技術者から、「クラスターの小さい水を使うといい製品ができるのでしょうか」「磁気処理水って、クラスターが小さいという話ですが、どうなんですか」という質問を相次いで受けた。これに対して私は、「液体の水のクラスターをちゃんと測定した実験は今の所ないので、クラスターを指標にするよりは水の不純物の分析をして成分で押さえた方がいいですよ」という内容の返事をした。

 私が、「クラスターの小さい水はおいしい」という話を最初に知ったのは、修士に進学した直後だった。それからしばらくして、その話の根拠となったNMRの測定は誤りであるという話を研究会できいたので、もうそんな話は消えただろうと思っていたのだが、一度広まった話はなかなか根強く残っているようである。

 このウェブページを作るにあたって、企画の1つとして、水関係の変な話をとりあげてツッコミを入れようということを考えた。そこで、浄水器や活水器のウェブページをながめてみたら、結構な数のページが「クラスターの小さい水はおいしくて体によい」という話を掲載していた。このままでは、水のクラスターの話は伝わり続けると予想される。

 そこで、この話の発端とその後の顛末について、私の知る限りのことをまとめることにする。

 私の知っていることに誤りや足りない点があれば、ぜひご指摘ください。それを反映して、このページは随時改訂する予定です。

 なお、文中の敬称は適宜略させていただいた。

発端

 最初に、「クラスターの小さい水はおいしい」ということを、NMRの測定結果とともに主張したのは、松下和弘氏(元・日本電子)である。最初の主張を行った報告がどれか私は知らない。松下の書いた論文「食品をNMRでみる −分子レベルでとらえた「味」の違い−」(現代化学 1989年1月、62-67)に、水のクラスターに関する記述があるが、これは水とアルコールの混合の話である。この文献から、関連部分を引用する。

 私たちの食する物は、必ず水と食塩が関係している。したがって、水分子あるいはナトリウムイオンの挙動をみることが、味覚の解明につながると考えられる。
(snip)
食品の中には、成分の変化がないのにもかかわらず、ある期間熟成させると味覚が良くなるものがある。これらの代表的なものが焼酎、泡盛、ウイスキー、ブランデーといった蒸留酒類と、醤油のような醸造食品である。蒸留酒は、貯蔵初期と長期熟成後においてエタノール濃度に差がないのにもかかわらず、官能的に感じるエタノール刺激はまったく違ってくる。この熟成現象を分子の状態変化でとらえるには、17O-NMR法が有効である。
(snip)
 醸造学の教科書には、熟成がすすむと、エタノール分子を含む水分子の塊(クラスター)が大きくなって安定化すると記されている。果たしてそうであろうか。筆者らのグループがNMR分光法で研究した結果ではまったく逆で あった。  製造工場の異なるウイスキーモルトの新酒(0年)、4年もの、8年もの、おのおの3種類について、36.44MHzの17O-NMRスペクトルを27℃で測定した結果、水の酸素核の共鳴吸収線の線幅は、熟成期間が長くなるほど狭くなっていくことが明らかになったのである。

 松下は、この実験事実を次のように説明している。

 NMRのスペクトルで信号の幅が狭くなるということは、測定している分子の運動が速くなったことに相当する。この信号の幅は、NMRの観測に用いる高周波エネルギー(原子核によって異なる)を吸収した原子核が、このエネルギーを放出するまでの時間(緩和時間と呼ぶ)に反比例する。対象としている分子の運動が速くなると、緩和時間は長くなるから、結局、信号の幅が狭くなるということは、分子が活発に運動していることを示すことになる。
 アルコール分子が水に溶けるというのは、水分子のクラスターの空孔に、アルコール分子が入り込むことである。わかりやすくいえば、水の分子がアルコール分子を包み込んだ状態である。熟成が進むほど酒の中の信号幅が狭くなるというのは、水分子の運動が速くなる環境になったことを示す。いいかえれば、水分子のクラスターが徐々に小さくなり、動きが活発になったと解釈される。

 上記の解釈を証明するために、水とエタノールの水酸基の挙動を1H-NMRで調べると、新酒ではそれぞれが分離して観測されたが古酒では融合した信号が観測されたことから、

 これは、熟成によって両者の水酸基同士の交換が速くなったことを表している。

と述べている。
 さらに、酒の水分子クラスターを人為的に小さくすれば熟成に似た効果がでるかもしれないという期待のもとに、低出力超音波照射器を使ってエタノール水溶液や酒に超音波をかけた後、17O-NMRを測定すると、信号幅が照射前に比べて狭くなった。この説明として、

 低出力の超音波の効果は、分子同士を結んでいる水素結合を切るということである。水素結合によって形成されている水分子のクラスター、同じようにしてできているアルコール分子の集団を切断し、アルコール分子が水分子クラスターの空孔に入り込みやすくしたと考えられる。新酒では、アルコール分子の集団が残っている上に、水分子のクラスターも大きく、いわば、アルコール分子がむき出しの状態で存在するために、刺激臭が強く、味もきついのである。
と述べている。

 松下の研究は、水とエタノールの混合状態の変化を、両者のクラスターの状態の変化として解釈しようとする試みであることがわかると思う。NMRで測定できるのは、あくまでもT1やT2であり、クラスターサイズそのものを測定しているわけではない。クラスターは、実験結果を説明するためのモデルとして導入されたに過ぎないのである。(この論文には、参考文献リストがないので、クラスターの話がどこから出てきたか不明である)
 また、後述するように、水分子の17O-NMRの線幅から得られるT2緩和時間は、pHに敏感に依存し、プロトン交換速度の指標になるが、水分子そのものの運動状態の直接の指標にはならない。

 翌年、松下は「水の状態評価と味覚・熟成度の解明」(食品と開発 vol.24, No.7, 82-85)、を発表した。こちらは、正しい部分と怪しい部分がある。水の動的構造に関する記述は正しい。しかし、水のおいしさに関する話は、実はちょっとあやしい。以下に関連部分を引用する。

 天然湧水のように、カルシウムイオンがあると、水分子同士の大きな集団が壊れ、水の分子がカルシウムイオンを取り囲んで、水だけの場合と比較して、分子集団が小さくなると考えられる。これで、おいしく感じるようだ。
 では、水の分子集団が小さいと、なぜおいしく感じるのだろうか。私達人間は、舌の味らい(味細胞)で味を感じているのであるが、小さい分子集団になるほど、それが味らいにすっぽりとはまり込むのでおいしく感じると考えられる。
 今、ブームの天然水も、いくつか17O-NMRで調べてみたが、水分子の集団は水道水のそれよりも小さい集団になった。まずい水は分子集団が大きくなっているのである。

 さらに、松下は、東京都練馬区の水道水と昭島市の水道水を17O-NMRで分析し、次のように述べている。

 17O-NMRのスペクトルを見ると、共鳴信号の線幅が練馬区のそれよりも30%狭くなっていて、おいしさを分子レベルの差として裏付けている。
 NMRのスペクトルで信号の線幅が狭くなるというのは、観測しているものの分子運動が遠くなっていることに相当する。この信号の線幅は、NMRの観測に用いられるエネルギー(ラジオ波領域、原子核の種類によって変わる)を吸収した原子核が、このエネルギーを放出するまでの時間(緩和時間と呼ぶ)に比例する。
 対象としている分子の運動が速くなると、緩和時間は長くなるので、結局、信号の線幅が狭くなるのは分子が活発に運動していることを示すことになる。水の場合は、平均的に分子集団の小さい割合が増加し、運動が活発化したと解釈される。
 17O-NMRの結果から、水分子の相関時間(集団が1回転に要する時間と思えば良い)を計算してみると、練馬区の水道水は69×10-12秒となり、昭島市の水道水は47×10-12秒となる。30%程度水分子集団の運動が速くなっているが、人間の感性ではこれでもおいしいと感じるのである。

 原文のまま引用したが、文中の「遠く」は、おそらく「速く」の誤植と思われる。
 この実験結果より、

 すでに説明したようにおいしい水は平均的に分子集団が小さく、まずいといわれる水道水は分子集団が大きいのであるから、よりおいしい水に変えるには、なんらかの方法で水の分子集団を小さくしてやれば良いことになる。

 と考えた松下は、浄水器などで処理した水を17O-NMRで分析した。その結果は次のように書かれている。

 こうした観点から、現在市販されている種々の浄水器(蛇口直結型のセラミックフィルター、中空糸膜あるいは電気分解を利用したもの)について17O-NMRで分析評価してみたところ、効果に差はあるものの、水分子集団を小さくしていることがわかった。
(snip)
 ひとつの方法は、超音波を照射して水を振動させることである。超音波の力で水素結合を切断し、水分子の集団を小さくできる上に、塩素(カルキ)のいやなにおいも追い出せる。
 いろいろな実験をしてみた結果、メガネの洗浄用に使われる高出力(100V)のものでは、2、3日後に元の状態に戻ってしまうことがわかった。つまり、出力の低い物ほど持続時間が長いのである。
(snip)
 もっと簡単で経済的な方法に、セラミックスを利用するというのがある。材質にもよるがセラミックスには遠赤外線という微弱な電磁波を放射する効果があり、これによって水分子の集団を小さくできるのである。
 セラミックスプレートを水道水に浸漬しても、水は変化する。このセラミックス効果を積極的にりようしたものとして、セラミックフィルターがある。セラミックフィルターを4回通した水道水は、信号の線幅が45%も狭くなって、すばらしい水になった。
 水道水をおいしくするもうひとつの方法として、蛇口に電気分解型の浄水器を取り付けるというのがある。この中を通過した水は陽イオン(酸性イオン)水と陰イオン(アルカリ性イオン)水とに分けられる。ふたつのイオン水は、原水のほぼ1/2までの線幅になっていた。

 どうも、上記の内容が、その後浄水器関係の宣伝文句の原型になっているように思われる。とりあえず引用した部分について、どこがまずいか書いておく。

 カルシウムイオンがあると、水分子の集団が乱されることは確かである。しかし、小さい分子集団となった水が味らいに入り込むという説明は、見てきたような嘘である。味を感じるメカニズムはまだ十分わかっていないし、水分子の分子集団の大きさを関知する仕組みが存在するという証拠はない。
 「カルシウムイオンの入った水はおいしい」という、官能検査と成分分析に基づく実験事実があった場合、なぜおいしいかを解明するための次のステップは、味を感じるときに分子集団の大きさを検出しているのか、それともカルシウムイオンを検出しているのか、それとも別のメカニズムがあるのかを確定するための実験系を組むということになる。味を感じるメカニズム(受容体の構造など)がはっきりしていない場合は、そちらが解明された後で、水の場合には何を検知しているのかはっきりさせるための実験系を作って測定することになる。

 「カルシウムイオンの入った水はおいしい」ことの説明として、「水の分子集団の大きさが変わることを人間の舌が感じるからだ」という結論に、細かいメカニズムの解明無しにいきなり飛びつくのは、はっきり言ってフライングである。

 17O-NMRの線幅は、分子の回転運動と同時にプロトン交換の影響もうけるので、17O-NMRの線幅が変わったことと分子運動の速さに直接の関係はない。分子運動の指標になるのは、NMRのT1緩和時間の方である。
 また、T1緩和時間を観測したとしても、分子集団の大小はわからない。分子運動に関する特徴的な時間が測定できるだけである。その測定結果を説明するために「分子集団」という「モデル」を考えようということであって、決してT1緩和時間や17O-NMRの線幅の変化が分子集団の存在と大きさの変化の証拠になるわけではない。

 水分子の相関時間について、「集団が1回転に要する時間と思えば良い」と書いてあるが、非常に誤解を招きやすい表現である。水分子集団は、液体の状態ではそんなにくるくる回ったりしていない。むしろその逆で、水分子自身の熱揺らぎによって、絶えずいろんな方向に揺さぶられている。
 NMRの測定では、まず磁場をかけて、核スピンの準位を分裂させる。順位間のエネルギー差に相当するエネルギーのラジオ波を照射すると、核スピンはエネルギーを吸収して熱的に非平衡状態になる。ラジオ波を切ると、核スピンはまわりのスピンや分子の揺らぎの影響によって、エネルギーを失い熱平衡状態に戻るが、この「戻りかた(緩和)」は周りの揺らぎによって起きるので、周りとの相互作用の強さによって緩和の速度が違う。実験では、多数の分子の統計平均を観測することになる。実際には、ラジオ波の照射の仕方を工夫して、測定したい情報をうまく得るようにしている。観測して得られたNMRの緩和時間と、分子の回転の相関時間を結びつける式は理論的に導かれているので、NMRの(T1緩和時間の)測定から、分子の回転運動の相関時間を得ることができる。
 分子や分子集団は、ある方向に回転しようとしても、次の瞬間には熱揺らぎによって別の方向に揺さぶられる。従って、時間がたつとだんだん最初の運動状態とは無関係な運動になっていく。回転の相関時間は、どの程度の期間、最初の運動状態に関する記憶が残っているかをあらわす。相関時間が短いということは、すみやかに最初の状態を忘れて別の運動をしてしまうということである。例えば、温度を上げると分子の熱揺らぎが激しくなって、運動の相関時間は短くなる。相関時間が長いというのはこの逆で、最初の運動状態の情報が、なかなか消えないということである。温度を下げると熱揺らぎが小さくなるので、運動の相関時間は長くなる。

 松下の主張は、分子の回転運動を議論するのにT1緩和時間ではなく17O-NMRの結果を使っているので、出発点で間違っている。しかも、17O-NMRの線幅が水分子集団のサイズを反映するというまだ未確認のことがらを、あたかも確定した事実のように扱い、これに基づいて水分子集団を小さくする方法を探索し、評価をまた17O-NMRの線幅の測定で行っている。浄水器を使う前と後で水の17O-NMRの線幅が変化したのは事実だろうが、実験結果と水の分子集団のサイズには直接の関係はないし、17O-NMRの線幅で水の処理法方を評価するのは無理な話である。

 なお、酸性イオン水とアルカリイオン水のいずれも17O-NMRの線幅が小さくなるというのは、17O-NMRの線幅がpH7付近で最大になり、どちら側にずれても小さくなるということと一致している。

 超音波の力で水素結合を切断し、水分子の集団を小さくするという話は、超音波の強さによっては、超音波がかかっている間だけそういうことが起こるかもしれない。問題は、超音波をかけるのを止めたあと、どのくらいの時間で元に戻るのかということである。17O-NMRは評価法として適切でないので、T1緩和時間による評価やX線による水分子の分布関数の測定がなされるまではっきりしたことはいえない。

 もし、物質の出入りや化学的変化がないという条件下で、水素結合の切れた水とそうでない水が同じ温度・圧力下で安定に長時間存在するとしたら、熱力学量を測ることで直接証拠が得られ、それら2つの状態の間の相転移が観測されるだろう。超音波処理の効果について、将来何か実験がなされた場合、物質の出入りを許すような実験系が組まれていたとしたら、水分子集団の大きさを問題にする前に、まず成分の変化で現象を説明することを考えた方がよい。今の所、室温付近の水に水素結合の切れたのとそうでないのと2種類あって、それぞれ分離できて安定に存在することを示すような実験結果は何一つない。(液体の水の2状態模型というのはあるが、これは全く別の話である)

 遠赤外線で水分子集団を小さくできるというのは、微弱な遠赤外線では無理だと思われる。水を特徴づける誘電緩和の虚部(吸収スペクトルに対応する)のピークは20GHz付近にあり、遠赤外線の領域までピークの裾野が広がっている。このピークの低い方の裾野は1GHz以下まで広がっている。遠赤外線を水に照射したら、水はその遠赤外線を吸収して温度が上がる。水は熱容量が大きいので、遠赤外線が微弱だと温度の変化もほとんどないことが予想される。まあ、温度が上がれば水素結合の切れる割合が多くなるという話はあるので、強力な遠赤外線ならできるかもしれないが、それならヒーターを入れて温度を上げても同じことである。

誘電緩和による評価

 故・真下悟教授(東海大学理学部)のグループでは、高周波誘電緩和法による高分子の測定や、高分子の結合水の測定や、アルコール水溶液の測定が活発に行われていた。

 真下らは、水にジオキサンやアルコールを混ぜて、混合比を変えて誘電緩和を測定した。水の誘電率は約80であるが、他の液体はその半分以下である。従って、溶質の濃度が上がっていくと、溶液の誘電率はだんだん減少する。この減少のしかたが、溶液中の分子数比で、水分子が約5ないし6個に対して溶質分子が1個以上になるあたりで折れ曲がることがわかった。この結果から、真下らは、水が水としての性質を持つためには、少なくとも6個以上水分子がまとまって存在する必要があると主張した。

 これだけなら、液体の性質の基礎研究であり、誤解をうむ余地はない。ところが、真下教授に取材を行って記者が書いた文章では、だいぶニュアンスが異なっている。
 まず、新聞記事からの引用である。手元にコピーがあるが、引用元が不明なので、どなたかご存知でしたらお教えください。1990年12月3日付朝日新聞夕刊7ページに掲載されているという情報をいただいた(2005/06/59)。

新説「おいしい水は粒ぞろい」
(snip)
...「おいしさを決める条件は、水の分子が集まった塊の大きさが全体でそろっていること」という新しい説を、東海大学の真下(ましも)悟教授が出している。
 水は均質のように見えるが、実は構造をもっている。通常五個から六個以上の分子が互いに結びつき、大きな塊になっているのだ。水にマイクロ波をあてると、水の分子に電気的な偏りがあるためにこの塊が回転する。真下さんはこの回転の程度を測定し、水の分子がどの程度互いに結合しているかを判断できる方法を開発した。
(snip)
 この方法でいろいろな水を測定してみたところ、おいしいと言われる水は塊の大きさがそろっていることが分かった。
(snip)  また水とアルコールを混ぜた時の両者の結合の割合を同様の方法で測定すると、高級な酒ほど分子の塊が大きくなっているという実験結果も出た。

 この記事とともに、「マイクロ波をあてて水の塊の大きさを調べる装置を手にする東海大学の真下悟教授」という注釈付きの写真が掲載されている。

 次は、WEDGE, March 64(1991)の記事で、真下教授に取材して書いたものである。

水 WATER STRUCTURE
(snip)
 水は普通、5つか6つの水分子が固まった状態で存在している。そこにマイクロ波をあてるとどうなるか。水分子が動き、その反射波が跳ね返ってくる。この反射波の位相の違いを測定することで水の構造を分析するのだ。
(snip)
 真下さんは、この主観的なる水の美味しさを、分子レベルで評価したのである。
 サンプルとして集めた水は、世界一美味しいといわれるカナダのケベックの水をはじめ、鎌倉の水道水、東京練馬の大泉の水、神奈川県秦野のわき水など15種類。もちろん、まずい水の代表である大阪の水道、東京の水道も加えた。
 この水に30ギガヘルツのマイクロ波を当てる。
(snip)
 その結果は、
「ケベックの水の分子の塊は、ほとんど均一なものでした。逆に東京や大阪の水道水の分子は大きさにばらつきが多い。つまり世間で美味しいといわれる水ほど、水分子の塊の数がよりそろっている」
 という結論がでたのである。

 まず、この2つの記事で紹介されたマイクロ波をあてる装置とは、別ページで解説しているTDRのことである。TDRでは、高速に立ち上がるステップパルス電圧を試料に入射し、反射波形を測定し、計算によって試料の複素誘電率スペクトルを得ることができる。プローブの種類と測定の時間レンジを選ぶことで、10GHzまでの測定を手軽に行うことができる。最も高周波を測定できるようにすると、最終的に得られるスペクトルは大体100MHzから10GHzの範囲になる。水の測定はこの条件で行われたはずである。

 誘電緩和スペクトルは、実部はなだらかな減少関数で、虚部は裾野が広がったピークの形をしている。得られたスペクトルを、簡単な関数でフィッティングするのだが、広がりが大きくて単純なデバイ型では合わないことがしばしば起こる。この場合は、デバイ型に緩和時間の分布のパラメータを入れた実験式でフィッティングを行う。フィッティングの結果得られるパラメータは、誘電緩和の大きさ、ε∞(周波数無限大での誘電率の大きさ)、緩和時間、緩和時間の分布を表すパラメータである。これらのうち、水の均一性と結びつけられるものは、緩和時間の分布をあらわすパラメータである。「分子の状態が均一な場合は緩和時間に分布がなく、不均一になると緩和時間に分布が出る」というのは、実験データの定性的な説明としてよく言われることである。

 しかし、説明はあくまでも説明である。測定できるのはスペクトルであり、スペクトルからいくつかのパラメータを求めることができるだけである。誘電緩和の測定では、物質中の電気双極子モーメントの時間相関を測定している。これをもとに分子の運動状態を推定することはできても、分子の塊の大きさを推定することはできない。動的な測定では、空間情報を得ることはできないのである。

 さらに、水の状態を議論できるだけのデータがTDRで得られるかというと、実はかなり難しい。それは、装置の限界で、10GHzでもよほど注意しないとデータのばらつきが大きくなり、20GHzはまず越えられないからである。水を特徴づける誘電緩和のピークは、20GHzより少し高いところにある。TDRで測定しても、緩和のピークを越えることができないのだ。すると、フィッティングは、スペクトル全体の半分以下の情報だけ使って行うことになる。たとえば、富士山の形を求めるのに、8合目から下の静岡側の情報しか知らないで推定するようなものである。こういうデータのフィッティングをすると、緩和の終わるあたりの情報はまったくないわけだから、わずかの誤差でε∞の値が大きく変動する。これに伴って、緩和強度も緩和時間も変わってくる。変動を押さえるには、何か別の方法なり文献値なりに基づいて、ε∞の値をまず決めなければならない。実際の試料の測定結果とは関係しないようなε∞の値を決めた時点で、フィッティングの結果にはこのことによるエラーが入り込む。

 ε∞の値を何らかの方法で決めて、フィッティングを行い、緩和時間の分布のパラメータと水の官能検査の結果に相関が出たとしよう。それでも、「緩和時間の分布の少ない水はおいしい」という結論を引き出すことはできても、「分子の状態の均一な水はおいしい」はただちにいえないのである。というのは、緩和時間に分布が出るメカニズムについては、分子レベルではまだ十分解明されていないからである。

 なお、真下が論文中で主張した「液体中に水分子が平均して6個以上まとまって存在できないと、液体全体としては水の性質をもたなくなる」ということは、この通りの意味であって、液体の水は5ないし6個の水分子の小集団が集まってできている、ということを意味しない。真下の論文のどれを読んでも、「TDRで水分子集団の大きさを求めた」などということは、当然どこにも書いていない。水の小集合体モデルは、後に述べるように、水の研究の早い時期に提案され、水の誘電率の大きさを説明しないという理由で捨てられたモデルである。引用した記事は、注意して読まないと水の構造のモデルについて誤解する可能性がある。

 なお、引用した文献は2つとも、真下の仕事を取材した記者によって書かれたものであることを指摘しておく。真下本人の書いた解説文では、結合水の話が主であり、バルクの水そのものにはほとんど触れていない。結合水の場合は、高分子に束縛されることで動きが遅くなっており、対応する誘電緩和のピークは数百メガヘルツに出るので、TDRで十分観測することができる。

磁気処理水のNMR測定

 前述の実験とほぼ同じ頃に、磁気処理水のNMR測定が宮崎大学のグループによって行われた。実験および結果の報告は、「水の磁気処理に関する基礎的研究」(石川 et al, 農業機械学会九州支部誌 40(1991) p40-43)にまとめられている。磁気処理の方法は、市販の磁気処理装置パイプにとりつけ、水槽内の水を循環させるというものである。評価の方法として、17O-NMRの測定と、小麦の初期生育試験を行っている。

 実験結果および考察の、「17O-NMRスペクトル線幅」には、以下のように書かれている。

 水の構造に関しては多くの研究が行われているが、最近、水分子の集合体モデルとしてクラスター(cluster)の構造が提唱されている。
 Hindmanらは、2Hと17O-NMR(核磁気共鳴)の緩和時間の温度依存性の実験結果と誘電緩和の結果を合わせて、熱力学的な考察からクラスターの存在を示唆している。また、17O-NMRの信号幅に影響を及ぼす要因として、H-O間のスピン−スピン相互作用や常磁性溶解物、反磁性金属イオンなどが考えられているが、いずれにしても水はクラスターの状態で存在しており、その中に物質を溶かし込んでいるといえる。
 17O-NMRスペクトルから得られる信号幅は、一般に信号強度の1/2の所で表され、ν1/2を半値幅、T2をスピン−スピン緩和時間として、
ν1/2=1/πT2
で関係づけられる。
 一方、17O核は核スピン数が5/2であり、緩和時間に対しては核四重極モーメントの緩和機構が支配的であり、分子運動は故雑になるが、半値幅はクラスターの大きさと運動状態を反映すると考えられる。
(snip)
 処理前の水道水と磁気処理した水道水とでは水の状態は明らかに異なり、磁気処理水はいずれも反値幅は小さくなることが判明した。
(snip)
 これより、磁気処理によって水素結合が切れて、クラスターは次第に小さくなり、水の動きは活発になるといえる。

 まず、引用されているHindmanの論文(J.Chem.Phys, vol.54 No.2 (1971) 621-634)であるが、Hindmanらは、スピン−スピン緩和時間ではなくて、スピン−格子緩和時間T1の測定結果に基づいて、水の構造を議論している。分子の回転運動と直接関係するのはスピン−スピン緩和時間ではなくて、スピン−格子緩和時間の方である。Hindmanの論文を引用し、その議論にそって水のクラスターの状態を論じるのであれば、スピン−格子緩和時間のデータに基づいて行うべきで、スピン−スピン緩和時間の結果をあてはめるのは、論文の誤読か誤用ではないかと思う。

 Hindmanらは、2Hと17Oのスピン−格子緩和時間の温度変化を測定し、緩和時間の温度依存性が単純なアレニウス型では説明できないことを見いだした。かれらは既存の水のモデルを実験データにあてはめて検討した結果、ディスカッション(p.632)で次のように述べている。

The data have therefore been interpreted in terms of an equilibrium between a hydrogen-bonded "lattice"and"free" or "defect" molecules which relax by rotational diffusion. The model for T1 process is therefore formally a "two-state" or "mixture" model.

 これは、水素結合でつながった分子種と、その隙間に割り込む分子種が存在し、それらの間に平衡が保たれているというモデルで結果を説明できるということである。あるいは、隙間の多い配置をとっている分子集団と、密な分子集団が存在し、両者の間に平衡が成り立つというモデルを支持するという話である。水素結合でつながっている水分子の領域をクラスターと呼ぶのならば、石川らの論文中でHindmanの仕事について「熱力学的な考察からクラスターの存在を示唆している」と書いているのは、誤りではない。しかし、水の「混合物モデル」や「2状態モデル」がちゃんと定義され、モデルに基づいた計算もなされているのにくらべると、「クラスター」という概念はかなり曖昧なものである。

 石川らの論文の議論は、その前提となる論文を誤読し、しかも元の論文の議論をあいまいにしてしまうような「クラスター」という考えを新たに持ち込んだものである。

 かりに、石川らが「クラスター」をきちんと定義する方法を考えていたとしても、引用部分の最後の1文は、「クラスターというモデルに基づいて考えるならば、磁気処理をしたらクラスターが小さくなったということが、実験結果を説明する1つの方法である」と読むべきである。まだ他にも現象を説明するモデルはあるかもしれないし、水の構造以外の原因でも現象を説明できるかもしれない。この論文の結果でもって「磁気処理すると水のクラスターが小さくなる」ということが証明されたわけではないのだ。しかも、考察の前提としているHindmanの考え方を、スピン−スピン緩和時間のデータに適用することが妥当かどうかという問題は、依然として未解決のままである。

 さらに、磁気処理を行う装置は、水槽中にポンプを入れて、パイプをつなぎ、パイプから出た水がまた水槽の中に落ちるというもので、磁石はパイプの途中にとりつけている。この処理装置では、外から何かが水に混じることを防ぐのは難しいし、気体の溶解度なども制御できないと思われる。かりに、NMRのT1に違いが出たとしても、磁気処理の効果なのか不純物の効果なのかを切り分けることが難しいだろう。この装置で処理した水の測定結果で水のクラスターサイズの議論をするのはちょっと無理なのではないか。

 やはり著者たちは問題を認識していて、論文のあとの方で、
 水条件と半値幅、クラスターとの関係については今後さらに研究を継続する必要がある。
と述べている。私としては、次の実験をする前に、Hindmanの論文をもう一度ちゃんと読み、かつ物質の出入りがないような系を作ることをおすすめしたい。

NMR測定の正しい使い方

 実際には、17Oのスピン−スピン緩和時間T2は、水の構造の指標にはならず、そのかわり、むしろpHの指標になる。このことは、最近論文として発表された("DYNAMIC STRUCTURE OF WATER IN ULTRA PURE WATER PRODUCING SYSTEM OBSERVED BY DIELECTRIC AND 17O-NMR RELAXATIONS", Koji YAMANAMA, Akio SHIMIZU, Shintaro SUGAI and Satoru MASHIMO, J. Chem. Eng. Japan, vol.29, No.3(1996) 421-426)。著者のYAMANAKAは、オルガノの山中弘次博士、MASHIMOは、真下悟教授である。

 YAMANAKAらは、市販の超純水製造装置で行われる水処理の各段階で水をとりだし、TDRによる誘電緩和測定と17O-NMRの緩和時間測定を行い、次のような結果を得た:

 YAMANAKAらは、17O-NMRについて、論文中2.2節およびconclusionで次のように述べている。

The orientational motions of water molecules can be derived from the measurement of T1. On the other hand, the spin-spin relaxation time, T2, is effected by both the orientational motions of water molecules and the rate of proton exchange reactions in water(Meiboom, 1961). The difference between T1 and T2 represents the contribution of the proton exchange reactio as described later. (snip) The drastic change of R2 in the UPW system was clearly explained by proton exchange mechanism, and should not be directly correlated with the rotational motion of water molecules.
(拙訳:水分子の配向運動は、T1の測定から求めることができる。一方、スピン−スピン緩和時間T2は、水分子の配向運動とプロトン交換反応の両方に影響される。T1とT2の差は、後述するようにプロトン交換の寄与を反映する。
(略)
超純水製造システムにおけるR2の大きな変化は、プロトン交換のメカニズムで完全に説明でき、水分子の回転運動とは直接の関係がない。)
 文中で引用されているMeiboomの論文は、S. Meiboom, "Nuclear Magnetic Resonance Study of the Proton Transfer in Water", J. Chem. Phys. vol.34 No.2(1961) 375-388で、T2の測定によりプロトン交換速度を出している。

 なお、17Oスペクトルの半値幅と、pHの関係については、大河内らによって、水環境学会誌vol.16(1993)411-、にも報告がなされており、「水の分子工学」(上平恒、講談社サイエンティフィク、ISBN4-06-153378-9)の102ページに引用されている。

モデルの一人歩き

 ここまでの文献引用と解説で、「水のクラスター」という話が出てきた経緯は理解していただけたと思う。そのうち、松下の報告と宮崎大グループの報告は、水分子の回転運動とプロトン交換の両方の影響を受けるT2緩和時間を、水分子の運動を直接反映する指標と誤解している。
 松下は元日本電子勤務の技術者であるが、日本電子はNMR分光器の開発をしている会社であり、松下はNMRの測定にはおそらくなじんでいたはずである。一方の宮崎大のグループは、研究を生業としているプロである。まず、気に留めておいてほしいことは、このように研究・開発の現場にいるプロでも、つい勘違いをすることがあるということだ。(そう、勘違いするかもしれない人の中にはもちろん私自身も含まれる)

 次に、この両者は共に、緩和時間測定では「速度」に関する情報は得られても、分子の空間配置に関する情報を得ることは本来不可能であるのに、「水分子のクラスター」というものを持ち込んで実験結果を説明しようとした。宮崎大の論文では、「クラスター」の話はかなり断定的に導入されているように思う。松下の論文では、クラスターサイズの変化が確定した事実であるかのように扱っているので、ちょっとやりすぎかもしれない。

 とはいっても、私は別に「クラスター」を持ち込んだことそのものを非難するつもりはまったくない。批判はするかもしれないが。私がなぜそうするかということをわかってもらうには、実験の論文がどのように書かれるかということを説明する必要がある。

 何かを発見しました、合成しました、等の直接証拠が出せるような仕事以外の実験の論文は、次のように書かれる。まず、その分野の現状とこれまでの主要な成果と未だ解決しない問題点まとめる。そのうち、今回の自分の仕事が未解決問題のどこを攻めるかを簡単に書く。次に、実験方法について、専門家が見れば実験を再現できる程度の詳しさで記述する。その次は、実験の結果についてまとめて、その結果についての議論(解釈や既存の結果との整合性などについて述べる)をする。最後に結論、謝辞、引用文献と続く。このうち、実験の結果と議論は明確に分離して書くのが普通である(レターなど、長さに限りがあるものは別だが、それでも読む人にわかるようにしておく)。なぜなら、実験の結果は、実験そのものが誤りでなければ技術の進歩によって改訂されるまで残るが、議論の方はその実験データが有効な間に別の説明や解釈にとってかわられるかもしれないからである。
 論文を読むときは、こういう書き方を前提にして読む。さらに、測定対象が複雑(たとえば、実験室で慎重に調整された純水とアルコールの混合物は単純、発酵の産物である酒は複雑)な場合は、複数のグループの追試を待って、測定結果が妥当かどうか判断する。生き物を直接対象とする生物学や医学分野では、論文によっては、複数のグループが独立に同様の調査や測定をして、同じ傾向が出てこないとなかなか認められない。一時期、私は脳の計測に携わったことがあるが、共同研究者にこう言われた:「脳生理学でいろんなグループが同じ実験をすると結果が3つ出る。増えた・減った・変化しないの3つだ」。物理学や化学では、これよりずっとましな状況だが。
 論文に書かれる実験事実と、それを説明するモデルは別々に理解し、モデルについては他の説明がありうるかもしれないという前提で取り扱う。我々は普段からそうしている。しかし、浄水器関係のウェブページを見ると、本来作業仮説であったものが、あたかも事実のように書かれている。これは、ウェブページを作った人に、モデルと事実を分けて論文を理解するという習慣がなかったからではないかと思われる。

 また、論文を読む時には、それがどの程度の審査の結果公表されたかということを考慮する必要がある。「農業機械学会九州支部誌」にも「食品と開発」にも私は投稿したことがないので、審査のシステムについては何もコメントできないが、先に引用した論文を読んで、かなり甘い(もしくはほとんどやってない)のではないかという印象を持った。
 我々が実験結果を発表するときは、英語で書いて、論文誌(例えば、Physical Review, Journal of Chemical Physics, Journal of Physical Society of Japanなど)に投稿する。投稿した論文は編集者の判断で1人〜3人の審査員(レフェリー)に送られる。誰がレフェリーかは投稿者にはわからないし、レフェリーであることを明かさないことが不文律とされている。論文の内容に明らかな誤りがないか、足りない所や矛盾した所はないか、この論文誌に載せることが適切か、といったことが審査されて、コメントが戻ってくる。それをみて、直すところは直し、レフェリーの誤解があるときはそのことを指摘してレフェリーを説得し、OKがもらえれば論文が受理され掲載される。とんでもないレフェリーに当たることもあり、そのときはそのことを編集者に伝えて別のレフェリーを選んでもらうこともある。

 実は、水の動的構造の研究という分野は古くからやられていて、それだけ蓄積もあり、またうるさい人も多い。したがってこの分野で実験をして論文を書いても、下手なことを書くと論文は却下(リジェクト)されてしまう。水のクラスターの話はそのいい例で、実は我々のグループでもラマン散乱(直接空間情報がとれない)の実験結果からクラスターというモデルで議論しようとした論文がリジェクトされている。どうも、クラスターの話を持ち出すには、X線や中性子や分子動力学シミュレーションといった、直接空間情報を取り出せる手法と組み合わせない限り論文は認めてもらえないのではないかという感触を持っている。
 こういう状況なので、「NMRのT2で水分子の回転運動を評価し、クラスターの変化と結びつけた」という内容の論文をまともな審査をやる論文誌に投稿したら、「T2を使うのは間違い」「クラスターサイズを議論する根拠がない」ということを指摘されてまず確実にリジェクトされると思われる。また、「不純物の効果だろう」という指摘もあると予想される。だから、先に引用した論文を公表する論文誌の審査は甘いかやってないかだろうと思いたくなるのだ。
 まあ、審査を通った論文がすべて信用できるというものでもない。どう見ても変な論文が通っていることもある。しかし、審査の過程で明白に変な論文はかなりの確率でふるい落とされるので、審査付きの論文誌に掲載された論文の内容についてはそれなりに信用できると思われる。逆に、我々は、新聞発表や雑誌記事を実はほとんど信用していない。取材に来た記者は何とかしてわかりやすく面白い話を書こうとするものだし、研究室によっては教授が理想を語り、現場がその後始末に追われるということもあるからだ。審査がないか、非常に甘い雑誌に研究者本人が書いた論文は、この両者の中間として扱う。いずれにしても、自分が研究を進めるときの参考にするのは、ちゃんとした審査付きの雑誌に掲載された論文のみである。面白い話が雑誌や新聞に掲載されたときは、その元になっている(審査済みの)論文を探すことになる。審査済みの論文がなかったら、その件については未解決として棚上げし、信頼できる結果が報告されるまで判断を保留する。
 審査付きの論文誌から水の構造に関する情報を得ていたら、クラスターの話が一人歩きすることは無かったのではないか。

 クラスターという考え方は、実はそれが曖昧なものであったとしても、一見わかりやすい。そして、一見わかりやすいということは、多分浄水器や食品の商品説明には重要なことなのだろう。水の状態は、直接目に見えるわけではないので、分子が集まっている絵を出されると、わかりやすいが故にその説明に飛びついて理解した気分になってしまう。しかし実際の水はそんなにわかりやすいものでははないし、水分子の状態を実際に見た人は世界中で誰一人居ない。そもそもわかってないものに対し、絵に書けるようなわかりやすい説明を要求すると、結局のところわかりやすい誤解が広がるだけだろう。クラスターの話が根強く残る背後には、未だに水の構造の決定的なモデルを出せない研究者と、簡単な説明を欲しがる研究者以外の人々がいるということなのだろう。

 なお、真空中に液体のジェットを吹き出して(超強力な霧吹きのようなものを想像してください)、数分子からなる細かい液体の粒を作って質量や成分を分析する実験技術があり、このときできる微小液滴をクラスターと呼ぶ。このクラスターは実体もあるし測定できる。しかし、液体中で、分子がクラスターを作って存在するかどうかはまた別の問題である。水商売で「クラスター」というと、たいていの場合は液体中に分子のまとまりが存在するかのような記述がなされるが、液体状態でそのようなクラスターの集まりを測定する方法はない。ジェットにして強制的に粒々を作るとはじめてどういうクラスターかはっきりする。(これに関する参考文献は、茅幸二・西信之よる「クラスター」という本や、産総研の脇坂による研究がある)

 クラスターが小さくなったときに起きる現象として考えられるのは、以下に示した誘電率の減少と、マクロな体積の増加である。それまでネットワーク的にくっついていた水分子がばらばらになるから、体積が増えなければおかしい。この2つの変化の前後で水の中の成分の組成が変わらないことが条件である。このような変化が同時に起きない限り、液体の水のクラスターが小さくなったという主張を認めることはできない。

補遺:水の小集合体モデル

 引用した記事や、「水商売ウォッチング」でリンクしているページには、あたかも水が、水分子5個や6個の集団が集まってできているような説明があったり図が書いてあったりする。「水のクラスターが小さくなる」といったようなタイトルの図では、連続的につながった水分子が、数個ごとにまとまった集団にばらばらにされていく絵がしばしば描かれている。これらは明白に間違いである。

 間違いであることの説明は、「水の構造と物性」カウズマン/アイゼンバーグ著、(関、松尾訳)、みすず書房(1975)のp.260にある。(この本の原著は、THE STRUCTURE AND PROPERTIES OF WATER, D.Eisenberg and W. Kauzmann, Clarendon Press, London, 1969である)
 訳本での説明は以下の通り。

 水を水分子の小さな集合体の平衡混合物と考える一連のモデルがかつては広く受入れられたが、現在では歴史的な意味しかもたない。これらのモデルのいくつか(Chadwell 1927を参照)は、水をH2O, (H2O)2および(H2O)3の混合物として扱った。後二者はそれぞれディヒドロール(dihiydorol)およびトリヒドロール(trihydrol)と呼ばれた。また他のモデル(Eucken 1946)において、水はH2O, (H2O)2、(H2O)4、および(H2O)8の混合物と見なされた。温度、圧力および溶質濃度に対する諸性質の依存性がこれら集合体の平衡濃度の変化によって説明され、数多くの性質について実験とのよい一致が得られた。Dorseyは水に関する彼の成書(1940, p48)において、ディヒドロールとトリヒドロールの性質を表にまとめた。
 Bernal and Fowler(1933)は、小集合体モデルを、“あまりにも分子の化学にとらわれた考え”であり、液体中の分子の空間的な配置の誤った記述を与えるものとして批判した。
 最近のデータは、小集合体モデルが正しくないことを確証している。分光学的データ(第4.7(b)節)は水がはっきりと区別される小数の分子種から成るのではないことを示す。また、誘電緩和時間の分布が小さい(第4.6(a)節)ことから、種々の集合体が水の中に存在するとしても、それは10-11s以上にわたって持続するものでないことがわかる。水分子の間に強い角度の相関があることは、大きい誘電定数の値から明らかであるが、これは小集合体モデルによって説明されない。

 文中の第4.7(b)節は、水の振動分光のデータの温度依存性の話である。水の伸縮振動モードの温度依存性が、連続で唯一の極大を持つという実験事実から、水は分子種のことなる状態の混合物ではないということが指摘されている。もし、水がはっきりとした小数の分子集団の混合物なら、各分子集団の環境の違いが伸縮振動モードにあらわれてしかるべきだからである。
 第4.6(a)節は、水の誘電緩和の当時の測定結果の紹介である。

 ともかく、1969年の時点ですでにこれである。今頃主張するのは無理だろう。

謝辞

 本稿を書くにあたって、お茶の水女子大学大学院人間文化研究科助手の細井晴子博士にアドバイスを頂いた。ここにお礼申し上げる。




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