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甲12号証

甲12号証(原告:松井氏提出書類)

本件訴訟は2007年3月に第一審判決が言い渡され、既に確定しています。このページは、ネット上の表現を巡る紛争の記録として、そのままの形で残しているものです。

 htmlの性質上、元の印刷物とはフォントやレイアウトが違っているため折り返し位置が異なるが、できるだけ原文に忠実に再現した。


雑感301-2005.4.28「名誉毀損事件(近況)」

ある種の“穢れ”

今回の提訴(松井三郎さんによる提訴)の内容は実に些細なことで、しかも私にすれば、何が悪いの?というようなことなので、このことによって、身のまわりに何か起きるとは思っていなかったが、でも小さなこととはいえ、色んなことが起こるなと、改めて、法廷の外での影響を思い知らされる。

つまり、提訴されたことで、ある種「穢れた」人間としての扱いを受ける。お祝いの場には招かない方がいいのではないかとか、挨拶は控えてもらった方がいいのではないかという考えによることが、意外と多く起きる。

さらに多いのは、巻き込まれると困る、味方と思われるのは困る、だから、できるだけ顔を合わさないようにしよう、できるだけ関係ないようにしよう、という動きである。ついこの間まで、にこにこして挨拶していた人(研究者)が、私を遠くで見かけて慌てて逃げていく。今まで様々な関係(友好的な?)があったのだが、急に、私だけでなく、私の属する研究センターに関係のある仕事は一切断るという挙に出る。また、そういうことを公言するなど、思ったより多い。

こういうことがあると、やはり心がざわつく。
それでも、今回の裁判は、圧倒的に不安が少ない“軽い”例であることは間違いがない。と言うのは、事実が争われているのではないことが、本人には“軽い”ものになる。つまり、解釈の違いは、事実の違いよりは救いがあるということだろうか?なるほどそうだろうと、自分で自分の気持ちの深層に納得する。

CNPの場合

1999年に我々の研究グループは、CNPという水田除草剤に有害なダイオキシン不純物が含まれていることを見つけた。そして、日本における過去のダイオキシン汚染のかなりの部分が、水田除草剤中に含まれていた不純物によること、その影響は今も残っていることを明らかにした。

その時、三井化学の担当者は、農薬関係の学会で怒りを顕わにし、“告訴する”と公言し、様々な妨害的行動に出た。また、これがよく分からないのだが、農水省の担当者までが、市民団体との話し合いの場で、裁判になるかもしれないと話したという(伝聞:環境リスク学、54頁から数頁)。

この件は、最終的に提訴されなかったが、もし、これが提訴されていたら、随分大変なことになっていたと思う。半年後に三井化学が、含有率についての違いはあるが、CNP中に含まれていたことを認めて、決着がついた。

告訴に至らず、非常に早く決着がついたのは、もちろん、最終的に裁判で勝てないという予想もあったかもしれないが、何よりも、当時の三井化学の幹部が、三井石油化学の出身者で占められ、農薬を作っていた三井東圧化学系の幹部の力が弱くなっていたことが強く影響している。三井東圧化学と三井石油化学は、1997年10月に合併し、三井化学ができた。

もし、告訴されていたら

もし、これが裁判になっていたら、最終判決を待たず(最終的には裁判で勝ったとしても)、私の研究室はつぶれていたと思う。この研究は科学技術振興機構(当時、科学技術振興事業団)のCRESTの資金援助を得ていた。「例え裁判になっても、この研究費は続くのですよね」と、科学技術振興事業団のある会議の場で当時の担当者が問いかけたことがあったが、誰も答えなかった。

ことほど左様に、法廷外での裁きは実に厳しい。名誉毀損事件のかなりの部分が、法廷での決着よりは、この種の公衆による裁きを期待して行われるのではないかとも思う。

それはさておき、ダイオキシンの場合に裁判になっていたら、事実を争うことになるから、ずっとずっと苦しかったに違いない。事実として出された中には、間違いもある。自分が気付かなかった間違いも当然ある。「もしかしたら、自分のデータに間違いがあるのではないか」という疑い、自己への疑いに苛まれるに違いない。そして、無限に、間違いがないことを証明するための努力を続けたに違いない。大凡、非生産的な実験に全精力を注いだに違いないと思うのである。

能力の退化

それに比べると、今回は事実がはっきりしている。環境省には議事録もあるだろう。その意味で、もしかしたら自分の実験結果が間違っていたのではないかという心配もないし、また、どこかの研究費に絡んだことでもないので、随分気が楽である。

とは言え、かなりの時間がとられ、冒頭に述べたような心のざわつきが続く。こういうざわつきで自分を乱すことなく、冷静に世の中を見る目を失わないことが大切ということはよく分かっている。ひとつだけ心配があるとすれば、心のざわつきに克つ能力が、30代、40代の頃に比べて退化しているように思えることである。

眼鏡の忘れ物

今回は、ドイツのPETデポジット制について書くつもりであった。ところが、数日前の会議で、眼鏡(老眼鏡)を忘れてきてしまい、どうにも論文が読めなくなって、こういう気持ちを書くことになってしまった。家人によれば、こういう忘れ物をすることが、時代の経過(年をとるという意味らしい)なのだそうだ。