第3章:再現性と選択性が問題だ

 約1年弱をかけて、やっと前任者の追試ができるようになった。ところが、私の実験結果は、前任者の結果を全く再現しなかった。

 まず、ラット小脳スライスに対し、高カリウムリンゲル液で刺激をすると、確かにグルタミン酸センサーの応答が見られる。ところが、同じ実験を、酵素を固定化しない単なる電極を用いて測定しても、やはりセンサー応答が出てしまう。つまり、出てきたセンサー応答にはグルタミン酸以外のものが含まれていることになる。
 次に、センサーを設置して小脳を電気刺激すると、やはり応答が見られる。ところが、カルシウムをキレートした状態で実験しても、やはりセンサーに応答が出てしまう。電気刺激は、カルシウムがないと伝わらないことが電気生理の実験では確認されているので、応答が出るはずがないのだが。一体何を測定しているのだろう?

  何回か実験しても、何を測定しているかわからない結果しか出なかったので、そのことを正直に報告したのだが、教授をはじめとするスタッフは、「もうちょっとやってみろ」という話しかしてくれなかった。どうやら、前任者がポジティブな結果を出したので、私の結果は単なる実験の失敗だと思われている節があった。

 追試で結果が再現しないだけでは納得してもらえそうにないので、私はもう一歩進めることにした。センサーの改良を試みたのだ。酵素をつけない電極で直接測定できて、かつ刺激に伴って出てくる物質として可能性が高いのがカテコールアミンだった。カテコールアミンは水溶液中で正イオンになっているので、電極表面に正電荷を持つような膜を作れば、カテコールアミンは電極表面に近づかないだろう。いろいろ試して、ビニルピリジン膜をつけるとそこそこうまく行くことがわかった。グルタミン酸と酵素が反応すると過酸化水素ができるがこれは中性なので、正電荷を持つビニルピリジン膜に邪魔されずに電極表面に到達し、酸化されるので、センサー応答が出てグルタミン酸を定量できる。また、カーボンファイバーに白金メッキをすると壊れやすいので、最初から白金線を使うようにしてセンサー製作の歩留まりも上げた。

 この改良で、最初の問題点は解決した。カリウムで刺激したときに、酵素無し電極では応答が出ず、酵素をつけると応答が出るという結果を得て、確かにグルタミン酸のみを選択的に測定できるセンサーを作ることができた。

 ところが、肝心の、長期記憶を起こさせるための電気刺激では、相変わらず何を測定しているかわからない状態が続いた。刺激電極の近くにセンサーを置くので、刺激のためにかけた電圧でバッファ中で電気分解が起きて、その生成物を測定しているらしかった。

 1年を過ぎた頃には、この方法では長期記憶の測定は無理だという感触を得ていた。それで、かねてから興味のあった水関係のテーマに進むために、教授にもスタッフにも知らせずに情報収集を始めた。ちょうど、岡崎の生理研で生態系と水の研究会があったのでそれに参加したり、光散乱や超音波測定など、タンパク質と水の測定ができそうな方法を調べたりしていた。

 ところがスタッフは、私がセンサーの改良をやったものだから、いい方向に進むと思いこんでいるようで、他のテーマも考えるという話は出てこなかった。私としては、この改良でだめなら撤退と心に決めていたのだけれど。

 何の興味も持てない脳の測定のためにわざわざセンサーの改良までしたことで、私は精神的に消耗していた。前任者の結果とあわせてとりあえず論文を書くように民谷助教授に言われたが、とてもじゃないが書けなかった。書こうとはしたのだけれど、その度に、「これは私のアイデアじゃない。民谷助教授のアイデアだから、私がまとめる話じゃない。私の独創性などどこにもありはしない。」と思ってしまい、それが苦痛でまとめられなかった。これ以上脳のことなんか見るのも考えるのもいやだった。


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Y.Amo /
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