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原発の問題がニセ科学の問題になりにくいわけ

はじめに

 福島の原発事故のせいで、放射能が広く飛び散った。この放射能対策として、EM菌やホメオパシーといった効果のない方法がいくつも提案された。個別の議論は、既に、片瀬さんが「怪しい放射能対策」という記事にまとめている。

 ところが、この記事を始めとする類似の議論が「ニセ科学批判」として括られ、「なぜニセ科学の問題として原発を取り上げてこなかったのか」という疑問がツイッターなどに書かれている。さらに、「ニセ科学の問題よりも原発の問題の方が大きい」といった、何の意味があるのかよくわからない言説まで出て来た。

 原発の問題をニセ科学の問題として、私がほとんど取り上げて来なかったことは事実である。なぜそうなったのかということも少しわかってきたので、とりあえず今の考えをまとめておく。

原発の問題はニセ科学か

  ニセ科学の定義は「科学を装う」「科学でない」である(「ニセ科学とは何か」)。これに当てはまるものなら、どんなものでもニセ科学と判断することができる。この定義を使う限り、原発を特別視する理由は何もない。原発や原子炉の技術そのものは、まだ至らない部分があったにせよニセ科学ではないごく普通の意味での技術であると考えているが、事ここに至っては、いわゆる「原発安全神話」の方にはニセ科学性があったと考えざるを得ない。

なぜ原発の問題が取り扱いづらいのか

 原発の問題を取り扱いづらいのは、ニセ科学の判定基準が、今現在それなりに確立した科学・技術の存在を前提としたものになっているからである。

 私は、ニセ科学かどうかの判定をする方法として、「ニセ科学判定ガイドライン試案」を提案している。このガイドラインは、科学の非専門家に使われ、個別にニセ科学の問題を取り扱う時に役立つことを目指して作ったものである。景品表示法や特定商取引法の運用ガイドラインで「合理的な根拠」を求めるやり方ととほとんど同じ内容である。

 この方法をとった理由は主に2つある。

 ニセ科学の定義に「科学でない」が含まれるが、この部分の判断の仕方を完全に自由にしてしまった場合、「科学とは何か」という論争に引きずり込まれるおそれがあった。科学的に証明されているとはどういうことか、といった哲学的な問いは、それ自体では研究対象かもしれないが、ニセ科学が発生させるであろう被害を防ぐためには、さほど有効とは思えなかった。そこで、誰でも使える判断の手順を決めることにした。ニセ科学は、哲学などの学問の分野の話ではないし研究対象でもないので、泥臭いが具体的な手続きを決めてしまうことで、哲学の論争を避けた方が望ましいと考えた。

 もう一つは、ニセ科学を問題だと考えて意見表明する人を守るためである。ニセ科学の多くは金儲けと結びついているので、ニセであることを指摘すると、インチキをやって儲けたい人の利益を直接損なうことになる。誹謗や中傷を含まない冷静な指摘を行ったとしても、嫌がらせの提訴を受けるリスクは常にある。裁判制度には被害救済の目的があるので、訴状を受け付ける間口は広くなっており、審理に入ってから個別に判断することになっている。つまり、ほとんど根拠がなくても、相手が引くだろうという見込みのもとに提訴でプレッシャーをかけるという手が使えるのである。指摘のやり方を、現実の法の運用に合わせておけば、提訴された場合、裁判所にわかりやすい方法で防御できるはずである。訴えられた場合には、裁判所に出す証拠の一部は「既に確立された科学」の内容を示すものになる。裁判所は学会ではないし、科学的な真実を決めるところではない。裁判所に行ってから科学そのものの論争をするという展開は筋がよいとはいえないし、一般の人には荷が重いだろう。

 これら2つの理由から、ニセ科学の判定の際には、「既に確立した科学・技術」の内容は疑わずに採用する、ということになった。こうしたことで、「確立した科学・技術」の内容そのものを問わなければならない問題と、ニセ科学の問題は、さしあたり別々のものとして扱うしかなくなった。

 原発の場合は、産官学一体となった原子力業界があり、その業界で、技術のスタンダードが決まる。「原発安全神話」は、スタンダードになるはずのものが過失か意図的にか歪められてしまい、結果としてわかりにくい嘘をまぜて一般に提示されるものになっている。スタンダードがずれているのだから、判定ガイドラインの手順をたどっても、ニセ科学である部分を抜き出すことは難しいだろう。

まとめ

 原発の問題、特に「安全神話」が、ニセ科学の問題としてほとんど取り上げられてこなかったのは、ニセ科学の定義と判定方法の構造によるものだと私は考えている。

 他の人たちが行っている怪しい放射線対策に対する指摘は、判定ガイドラインが適用可能なものを取り上げているだけに見える。

 問題の大小について。一つ一つのニセ科学は小さい問題であることが多いかもしれないが、手を替え品を替え次々に出て来て被害を発生させるので、足し合わせると被害は大きなものになってしまう可能性がある。

 専門家で判断が割れるような問題や、業界ぐるみでスタンダードの決め方がおかしい(あるいは足りない、不備がある)といった場合は、ニセ科学として扱うのではなく、科学や技術の問題として扱うしかないのではないかと思う。

 原発の問題も取り上げられるように判定基準を変えるのが良いのか、うまい変え方が果たしてあるのか、私にはまだよくわからない。

追記

  これまでに、ニセ科学の問題として原発安全神話を取り上げてこなかったのがまずいと考える人は、ニセ科学の判定の新しいやり方を提案するなどして、どんどんやっちゃってください。できなかったことがあるのが問題だと言われても、私が今考えている範囲では実際できなかったりします。新しい判定方法を提案するのはどなたでも自由にできます。ニセ科学の判定方法にはスタンダードがあるわけではないし、私が書いたものに権威があるわけでもないです(私が考えるための手掛かりとして出しているだけで)。そもそも、ニセ科学の判定方法を考案することに研究費は出ていませんので、誰か特定の人の仕事であるとも、科学者の仕事であるともいえない状況です。これまでのニセ科学のとりあげ方に異議があるなら、どうか変更しちゃってください。そして、巧い方法を見つけたら私にも教えて下さい。