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「ニセ科学批判」とは何か

初出

  「ニセ科学批判」という用語がいつ頃、どのあたりで使われ始めたのかがはっきりしない。この部分について情報があったらお教えください。

  • 自然発生的に、水からの伝言やマイナスイオンを問題にすることを簡単に説明する用語として(「批判側」によって)使われた。
  • ニセ科学を問題にする行為そのものを問題とする立場の人が、メタな議論をするときの括りとして使い始めた。

 

 【資料収集場所】「ニセ科学批判」という言葉が出てきた経緯や、この言葉の使われ方の変遷など

同語反復でしかない

 個別のニセ科学について何が問題か議論する、あるいはニセ科学言説を広めることをやめるように言う、つまりニセ科学を批判する、という同語反復以上の意味はない。

 「水からの伝言とかマイナスイオンとか……(個別の事例を全部列挙)……を批判すること」の短縮表現が「ニセ科学批判」である。

「ニセ科学批判」という行為は存在するか

 結論からいって存在しない。

 ニセ科学を問題にする場合は、あくまでも個別のニセ科学、たとえば「マイナスイオン」「ホメオパシー」「水からの伝言」「血液型性格診断」等々の、何がどうニセかを問題にしている。これらは、それぞれ個別具体的に問題とすべきことが異なっている。従って、これらのうちの1つまたは複数に批判的な言説をすべて「ニセ科学批判」として括ったとしても、そこから先に話が進まない。

 個別の人達がやっているのはどこまでいっても、「水伝批判」「マイナスイオン批判」に過ぎない。1つだけをやる人もいるし、複数やっている人もいる。もろもろの個別の批判に共通する部分を括りだすつもりで用いられたであろう用語が「ニセ科学批判」なので、「ニセ科学批判」を実行できる人なんかどこにもいない。実際にやっているのは「ニセ科学批判」の一部でしかなく「ニセ科学批判」に含まれる個別の批判のどれか、になる。

 メタな意味での「ニセ科学批判」の実施例も成功例も実は無い。個別事例の「○○批判」は、小さいけれども効果を上げているかもしれないが。

 例えて言うなら、「スポーツをすることについて語り合いましょう」というエントリーとか掲示板スレがあって、みんな話題に参加しているのだけど、抽象的な概念である「スポーツ」をしている人は誰もいない。参加者は、それぞれ、野球とかテニスとかサッカーとかジョギングとか、その他たくさんある個別の種目のうちの1つ以上を楽しんでいる人達だ、という状況。

 個別の種目について、各自の練習法法や上達のコツについて語り合っている状態を指して「スポーツをすることを話題にしている」と言えるし、「スポーツ」という概念も確かにあるんだけど、でも実際には個別の種目の話だよ、という感じ。

 「ニセ科学批判が流行ってるよ」というのは多分「最近○○市ではスポーツが盛んだよ」というのと質的には同じなんだろう。詳しく聞いてみると「少年野球のチームの数が倍になった」「テニススクールの練習生が増えて前はがら空きだった市営コートはいつも満杯だ」「早朝ジョギングをしている人が増えている」といったことが起きていることがわかったりする。ニセ科学批判だと、「この三ヶ月で○○(個別のニセ科学)を取り上げる週刊誌が相次いだ」「はてブで目立つエントリーの半分位がニセ科学(のどれか)の話題だ」などということになるのだろう。

「ニセ科学批判」という括りを積極的に必要としたのは誰か

 「ニセ科学」を問題にする側としては、「ニセ科学」の定義があればそれでだけで足りる。何をしているかを短い言葉で表現するためには「ニセ科学批判」という言葉は便利だが、実際に意味するところは、個別のあれやこれやのニセ科学を議論すること、という、やはり同語反復でしかない。

 「ニセ科学批判」という括りを積極的に必要としたのは、メタな「ニセ科学批判批判」の議論ををしようとした人達である。ニセ科学批判批判の対象は「ニセ科学批判」であるのだから、批判対象の範囲と内容をまずは明らかにしないと批判が成り立たない。

 しかし、ここ2年位の間、「ニセ科学批判批判」側は批判のターゲットとして「ニセ科学批判」という言葉を使いながら、意味のある定義もせず、その括りで何が明らかになるかということもきちんと詰めてこなかった。「ニセ科学批判批判」の議論がまとまらなかったり得るものが無かったりするのは、批判対象である「ニセ科学批判」に対してろくな定義も意味づけもできなかった批判批判側に責任がある。

 ろくに「ニセ科学批判」の定義もせずに議論するものだから、その議論に当てはまらない人達が毎回毎回「私は違う」と主張することになり、結果として、「ニセ科学批判批判」の議論から得られるものはほとんど無かった。つまり、議論の精度が悪すぎたということだろう。今後も「ニセ科学批判批判」を続けたいのなら、「ニセ科学批判」の定義や意味づけをきちんと行ってからにした方が良い。

なぜ「ニセ科学批判」という呼び方が出てきたのか

 「ニセ科学」を問題にする動機は人それぞれだとしても、問題にする以上は、何がどう問題かを言わなければならない。すると、ニセ科学言説の中に含まれているウソをウソだと指摘しなければならなくなるから、ニセ科学対策をする際には批判が伴うことがほとんど、ということになる。批判を伴うことがほぼ必然だから「ニセ科学批判」という呼び方が出てきたのだろう。

 「ニセ科学」をこの社会で問題にしようとした場合、例えば次のような方法がある。

  1. 個別の言説のどこがウソかを指摘して、みんなが読める状態にする。(blogでの個別の議論はこれに含まれる)
  2. 景表法4条2項や特商法6条の2の運用ガイドラインに反している、つまり違法だという指摘をする(通報する、主務大臣申出なども含まれる)。全てのニセ科学に対して有効ではないが、財産的被害を発生させるものには使える。
  3. なぜ「ニセ科学」が蔓延するのかを考えて、個別にウソをウソと指摘する以外の対策がとれないかを考える。
といったことが考えられる。他にもあるかもしれない。

 一方、絶対とれない方法は 「ニセ科学言説が蔓延しないように世の中に出る前に事前チェックする」 ことである。国家権力をもってしても事前の検閲は禁止事項だからできない。つまり、ニセ科学を問題にする場合は、事が起きてから動くことになる。

 個人で手軽にできるのが1.であったので、1.をやる人が増えたのだろう。

 たかぎFさんの「ニセ科学批判まとめ%作成中」はこの現状を観察して記録したものである。

「ニセ科学批判」を評価することの意味

 「ニセ科学批判」そのものに対して何らかの価値判断をする試みは多分失敗するだろう。現実に存在するものは、個別の「水伝批判」「マイナスイオン批判」といったものでしかない。そこから共通に括り出せるものを、さしあたり「ニセ科学批判」と呼びたかったらしいが、今のところその括り出しには失敗している。

 ニセ科学を問題とする人たちに共通する傾向として、合理的な考え方を重んじる、といったものはあるかもしれない。が、合理的な考え方を重んじるという姿勢は、別にニセ科学の問題に限った話ではない。「ニセ科学批判」という括りでこのような一般的な姿勢を問題にしようとしても、その姿勢はニセ科学云々の範囲にはおさまっていないのでうまくいかないだろう。

 「ニセ科学批判」にどういうネガティブイメージが貼られようが、個別の「水伝批判」「マイナスイオン批判」等々にはほとんど影響しない。逆に、「ニセ科学批判」にいかにポジティブイメージを持たせたとしても、個別の「水伝批判」「マイナスイオン批判」等々の中身がお粗末だったら、その批判は力を持たないし、逆に批判に晒されて終わる。個別の批判の価値や意義は、個別の事例をどう取り扱うかで決まるので、個別事例を離れた「ニセ科学批判」がイメージダウンしようが、あまり関係が無い。

生じている混乱

 たかぎFさんの「ニセ科学批判」は、個別の「○○批判」にマッチさせる前のワイルドカード入りの表現のようなものである。これを、批判する側も批判批判をする側も忘れてしまい、双方が実体のないものをあると勘違いしているから混乱しているのではないだろうか。

  「ニセ科学批判まとめ」
とは、
「マイナスイオン批判」「水伝批判」……「血液型性格診断批判」まとめ(新しいのが出てきたら「○○批判」を追加)、
という意味だろう。こんなもの、いちいち例示列挙していたらとんでもなく面倒くさい。いっそ「*批判まとめ」と正規表現(?)したくなるのだけど、「*」だと何にでもマッチするから「ニセ科学」と入れたのだろう。つまり、「ニセ科学批判」といったときの「ニセ科学」とは、ジャンルに制限をかけた一種のワイルドカードみたいなものである。だから、結局実体はなくて、個別の「マイナスイオン批判」「水伝批判」……「血液型性格診断批判」にマッチさせた後から話が始まる。何にマッチさせるかは、「ニセ科学」の定義とか判定基準に拠ることになる。
 ところが、「ニセ科学批判」という単語が一人歩きすると、それが限りなくワイルドカードに近いものだということが忘れ去られ、何か実体のあるものだと勘違いされてしまった挙げ句、「理解しなくてはいけないもの」と思われたり、「個別の議論だということにしておきたいのですね」などと突っ込まれたりする拗れが起きるようになってしまった。

 結局「ニセ科学批判」という括りが誤解の元になっている。批判する側の人に変な枠をはめ、議論や考察の対象としての「ニセ科学批判」があり得るという方向に、批判批判をしたい人をミスリーディングする結果になっている。

 「ある」ものを前提にしての批判(科学的根拠があるとか、実験で示されているとか)には馴染みがあっても、うっかり生み出してしまった「実体のない」もの(=「ニセ科学批判」)に対する批判に対応することには馴染みがないので、余計にうまくいかない。「ニセ科学批判」の実体がそもそも無いのだから、「ニセ科学批判批判」に対しては、「実体が無いものを批判している」とはっきり伝えないとまずい。印象以前に架空の議論でしかないので。おそらく便利だという理由で「ニセ科学批判」という括りを受け容れてしまったために、そうすることが難しくなっている。

 「ニセ科学批判」という括り方に乗っかったのは批判側の戦術ミスだろう。実態のないものに対する「批判批判」を呼び込んでしまい、本筋であるはずのニセ科学蔓延対策には不必要な論争をすることになった。

【注】ワイルドカード:コンピュータの用語で、検索する際にどんな文字(列)のパターンにもマッチする特殊な文字のことをいう。ここで用いた例では「ニセ科学」という文字列が、「水からの伝言」「マイナスイオン」等々の、個別の科学を装うが科学でないものがマッチするという意味で使っている。

「ニセ科学批判」には実体が無かった

 「ニセ科学」という言葉が知られるにつれて、メタな「ニセ科学批判批判」があちこちで出てきた。私もあちこちのblogで議論に参加した。このときの議論の共通点は「ニセ科学批判批判が対象にしているのは、誰の何に対する批判のどの部分かをまず示せ」というものであった。これをきちんと実行しなければ「ニセ科学批判批判」は何を言いたいのかわからない状態にとどまるし、実行した途端、メタな「ニセ科学批判批判」は個別の批判の問題点の指摘に変わってしまう。つまり、個別の「水伝批判批判」「マイナスイオン批判批判」等々でしかなくなる。

 ネットの議論を全部見たわけではないのだけど、「ニセ科学批判批判」側が、「ニセ科学批判」の有効な定義を出せたかというと、今に至るまで出せていないというのが私の理解である。「ニセ科学」に対して何らかの批判をすること、という、同語反復なら誰にでも言えるので、これを越えた内容を含んだ定義があるかどうかを問題にしている。

 では、「ニセ科学批判」側が「ニセ科学批判」を定義できたかというと、それも無かったというのが私の理解である。「ニセ科学批判」側も、「ニセ科学」を批判すること、という同語反復以上のものを出せていない。実体があるのは、あくまでも、ニセ科学の定義にあてはまる個別の事例であり、それぞれに対する個別の議論であって、「ニセ科学批判」ではない。

 一方、「ニセ科学」は違う。これまで批判の対象となってきた非合理である「擬似科学」「病的科学」「オカルト」「非科学」「陰謀論」等々と、重なる部分があるにしても、これらとは区別された新しい括り方である。「擬似科学」が比較的近いが、「擬似科学」には、「積極的に科学を装う(それも多くは他人を欺す目的で)」という意味合いが十分に含まれていない上に、科学哲学の論争がくっついている。「ニセ科学」はもう少し実用的な定義になっているし、科学非科学の線引き問題とは直接関係がない。

 新しい言葉で何かを表すことに意味があるのは、その言葉で表されたものが従来にないものを含んでいるとか、その言葉で表すことでものごとの整理がついて理解しやすくなったりする場合である。「ニセ科学」は、これまでに批判されてきた非合理のカテゴリーを新たに定めるという意味がある。

 しかし、「ニセ科学批判」には、今に至るまで新しい意味が見いだせていない。具体性を欠いた「ニセ科学批判批判」があちこちで行われ、その議論の結果何かの理解が深まるということも無かった。結局、

  1. 「ニセ科学批判批判」を自称する人達は、「ニセ科学批判」について、同語反復以上の定義ができていない。
  2. 「ニセ科学」を問題だと思う人達も、「ニセ科学批判」について、同語反復以上の定義ができていない。
  3. 「ニセ科学批判」という言葉で括ることで、何か新しいものが出てきたわけでも、何かの理解が進んだわけでもない。
  4. 「ニセ科学批判批判」に対しては、毎回毎回「とりあげているニセ科学批判とは、誰の何に対する批判のことなのか」という確認が必要だった。
  5. 「ニセ科学批判」について何か問題提起をするのならば、「ニセ科学批判」が同語反復でしかない以上、もともとのニセ科学の定義に関する議論として展開されるべきである。批判の態度やロジックに問題がある、というのは、個別の論者に対する批判にしかならない。しかし、「ニセ科学批判」という括りをしたことで、本来、定義の議論等として建設的にな内容になるはずの問題提起まで、批判vs.批判批判のパターンに引き込まれてしまっている。

ということになる。

 これだけ揃うと、「ニセ科学批判」には最初から実体がなかった(実体があるのはニセ科学の定義にあてはまる個別の事例とそれに対する議論のみであった)、と考えた方が妥当だという結論になる。

「ニセ科学批判の自己目的化」は起きたのか?

 甲虫ブログ等で危惧されていた「ニセ科学批判の自己目的化」は、これまでのところ起きていない(「ニセ科学批判」という言葉が出てきた経緯や、この言葉の使われ方の変遷などを参照)。

 甲虫ブログで言及されている「悲しいお知らせ。」では、

いじめは、全人的関わり合いを強制される聖域化された閉鎖集団内で、その場のノリ(みんなの気持ち)が規範の順拠点とされ、利益につながる場合に機能する。
 聖域化された閉鎖集団であるため、「人を殴ったら逮捕される」という市民社会の常識は通用せずに、集団内部の論理が市民社会の論理に優先される。
 集団内部では対人距離の調整(嫌な人と離れる)が許されず濃密な関わり合いを強制させられ、その「われわれ」が「いま・ここ」でのノリによって集団内部の秩序を作る。

というとらえ方をしている。ネットでのニセ科学の議論が「いま・ここ」でのノリで形成されるというのが甲虫ブログの指摘だった。

 しかし、誰でも閲覧でき誰でも参加できるネットの議論はもともと市民社会の論理で規律するしかない代物であった。さらに、「いま・ここ」でのノリを優先させることがニセ科学が蔓延する原因の一つになっていた。例えば、血液型性格診断の話題で盛り上がっているところに水を差したり、水からの伝言でみんなが感動しているときに「それはインチキだし不道徳だ」などと言うと、その場での風当たりは確実に強くなる。つまり、現実に起きていたことは、危惧されていたのとは全く逆の事態だった。

 私が見るところ、自己目的化したのは「ニセ科学批判批判」の方である。そもそも、現実に対する認識が全く逆であったところから出発し、それ自身では実体を伴わない「ニセ科学批判」を批判するという行為は、幻を攻撃しているに過ぎず、自己目的化でもしない限り存続のしようが無かったのだろう。

いわゆる「ニセ科学批判批判」「批判の仕方批判」は、ニセ科学に対するクレームの対抗言論にはなれない

 「ニセ科学に対してクレームをつけること」への対抗言論は、「ニセ科学を正しいと主張すること」あるいは「ニセ科学の存在にもなんらかの正当性があると主張すること」であって、いわゆる「ニセ科学批判批判」「批判の仕方批判」といったものではない。このようなものは、「ニセ科学に対するクレーム」に対して、対抗言論としての地位を獲得することはない。このことを理解せず、「批判批判」で、ニセ科学に対するクレームに対して何らかの影響を及ぼそうとしても、最初から無理がある。なぜなら、ニセ科学は、現実の被害を発生させるし、ニセ科学へのクレームは発生した現実の被害に対抗する役割を持つのに対し、「批判批判」が相手にすべき現実の被害が同程度には存在しないからである。現実に対応しなければならない問題を欠いたままの論が力を持つことなどない。

 いわゆる「ニセ科学批判批判」「批判の仕方批判」が、ニセ科学に対するクレームの論と同程度の強さを持つとしたら、例えば、「ニセ科学に対するクレームによってニセ科学が発生させる被害と同程度の被害を発生させる」ということが現実に起きた時だろう。この場合には、これらの論は「新たな別種の被害発生をくいとめる」という現実に基づいて展開されることになる。批判の仕方批判のようなものに強さを付与したいのであれば、「批判の仕方が良くなかった事によって生じた被害を具体的に指摘し、それが、ニセ科学のもたらす被害と比較可能なものであることを示す」ところから始めるべきで、そこを欠いていたら、どれだけ言葉を並べたって脆弱なものにしかならない。

 そもそも対抗言論でもなく、拠って立つ現実にも乏しい論でしかない「批判批判」を、「対抗言論」であると錯覚して、無理に強さを持たせようとすれば、その論は、良くて「強弁」か「詭弁」、やり過ぎれば「トンデモ」にしかならない。

 一番の問題は、「批判批判」をしていると自称する人達が、このことを自覚していないように見えることである。

「ニセ科学批判」とオープンソースの活動との類似

 このエントリーのSeagul-Xさんのコメントより。

アルカイダ以外にも似ているもの (by Seagul-X)
たぶん、もうどこかで誰かが云ってることだとは思うんですが、ニセ科学批判とか悪徳商法批判ってオープンソースの活動と似てますよね。
みんながやりたいことをやる。他人の方法(コード)が参考になれば使うし、自分なりに改良を施したりする。それがまたフィードバックされる。
時には意見が違って分岐したり、また合流して一緒にやることもある。大筋では一致していても、細かい方法(実装)では意見が違うこともある。仲間うちで喧嘩してやめちゃうひともいれば、その穴を埋めるひともあらわれてくる。

…とかって考えると、ニセ科学批判批判がぐだぐだなのもよくわかる気が。
詳細なバグレポートとか、インシデントとか、代わりの実装とかを持ってきてくれたら(もちろん検討して、役立つものなら)有難く使わせてもらうんですが、「なんかよくわからんけど落ちた。バグだ!」とか「このコード、オレは使ってないけどおかしいに違いない。直せ。」とか、そんなこと云われてもねぇ。
at 2009/09/19 00:18:10