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くだらん、現場に降りてこい

Posted on 4月 17th, 2009 in 倉庫 by apj

 「イノセント」への言及。
poohさんのところの「スタンス」のコメント欄経由。

「ニセ科学批判」は科学の世界の一部に居続けるつもりなのか、
それとも言論の世界に足を踏み込みたいのか?

 このレイヤーで話をしている限り、話がかみ合うことは無いだろう。「ニセ科学批判」は「現実の社会で行われる品質管理」だ。言論は手段に過ぎない。

現実的には、「ニセ科学批判」は既に足を踏み入れている。
問題は、それを自覚しているのか、それともうっかり内輪のラインを踏み外してしまっただけなのか、という事。

 うっかりも何も、私は裁判所で争うことになったし、左巻さんだって「訴えてやる」の脅しなんかしょっちゅうだったはず。科学の側からニセを否定する論文を書いた途端、名前を騙って実験機材を注文されるという、業務妨害を喰らった人だって知っている。

 その上で、方々のニセ科学批判側のblogに「謝罪表明」と称してTBを送り、この顛末の周知に励みます。
 これが、ニセ科学批判に対するどういう印象を生むかは想像が付くでしょう。

 きっと、ニセ科学批判側は慌てて、もう一度議論のテーブルにつくよう説得を始めるでしょうし、あるいは、そのあてつけがましい行為に対し遺憾の意を表明し始めるでしょう。

 それに引っ掛かる人はその程度の読解力だということだろう。「言論の世界」で生きるなら、無意味な謝罪をすると、謝罪した側のダメージの方が大きい。なお、私は以前、finalventさんと議論したとき、finalventさんの謝罪発言を明文で却下したことがある。この手のやり方に対しては「理解を深めるための議論に謝罪は不要であり、謝罪することは論者として不誠実」と、はっきり却下すれば済む。

 でも、言論の世界なら「言論の自由の侵害、言論統制」はかなり強力なネガティブカードです。
 それを押し付けられ、上手く対処できなければ「負け」。
 『ニセ科学批判』は“独裁的な恐るべき思想形態”のレッテルを貼られ、捨てられるハメになります。

 詐欺に引っ掛かって経済的に損害を被ることを防ぐ、という実用部分があるので、思想形態云々という議論は意味を持たない。現実に発生する損害を議論でごまかすのは無理なのでね。

【追記】
 言論統制や言論の自由の侵害など、そのへんのblogに書いているだけじゃ不可能なのは誰が考えてもわかること。そういう言いがかりを付ける人は、法的センスの無さを笑われて終わるので問題無い。

【追記その2】
 「ニセ科学批判」そのものにレッテルを貼る試みは多分失敗するだろう。現実に存在するものは、個別の「水伝批判」「マイナスイオン批判」といったものでしかない。そこから共通に括り出せるものを、さしあたり「ニセ科学批判」と呼んでいる。だから、「ニセ科学批判」にどういうネガティブイメージが貼られようが、個別の「水伝批判」「マイナスイオン批判」等々にはほとんど影響しない。逆に、「ニセ科学批判」にいかにポジティブイメージがあろうが、個別の「水伝批判」「マイナスイオン批判」等々の中身がお粗末だったら、その批判は力を持たないし、逆に批判に晒されて終わる。個別の議論に踏み込めば、「思想形態」などという抽象的な部分での評価は役立たない。

 でも、『ニセ科学批判』の皆さんが踏み入れようとしている世界は、そういうところなんです。
 ついでに言えば、ネガティブカードやポジティブカードの価値ははっきりは決まっていません。
 その価値もまた、いわば「舌先三寸」で変動するのです。

 「ニセ科学批判」という、個別の事例を離れた抽象的な、あるいはメタな部分のみで議論するという範囲に限れば、舌先三寸の世界になるかもしれない。が、個別の批判の価値や意義は、個別の事例をどう取り扱うかで決まるので、個別事例を離れた「ニセ科学批判」がイメージダウンしようが、あまり関係が無い。

おそらくは、菊池先生や天羽先生は、そういうドロドロした世界である事を熟知した上で足を踏み入れていると私は感じています(特に天羽先生は、この世で一番ドロドロした所にまで攻め込んでいる)。
 また、教育者ですから、「合理的に判断する事」と、「合理的な判断に価値が有る事を教える事」が全く違うのも分かっているでしょう。

 しかるに、どうでしょう?
 他の皆さんは、そんな自覚があるでしょうか?

 踏み込みの度合いに応じてそれぞれの人が覚悟を持っていればいいだけのこと。私はたまたま、社会できっちり争うところまでやっているけど、そうすることを、ニセ科学に批判的な意見を持つ人全員に求めるつもりはまったくない。また、若い人相手に話をするときは、「批判側に居ると提訴されて時間と金をかけなければならないリスクがあるから、経済的に耐えられるようになるまでは、やばいところまでは踏み込むな」と言っている。

 社会に何か「良くないこと」があったとして、良くないことを正面から解決しようとして紛争覚悟で行くのも1つの手だけど、「見て見ぬふりをしない」「小さい声でも、それは良くない、と言う」大勢の人達の存在は結構大事なのだ。そういう人達が大勢いれば、だんだん「良くないこと」をしづらくなる。そして、その方が、問題解決のコストは多分安い。

 進むも地獄、退くも地獄、こんな世界に足を踏み入れてた事、認識していましたか?

 勝手に問題設定をするな。
 見て見ぬ振りはしたくない、とか、小声しか出せない・出す勇気が無いけど抗議をしたい、という人に対して、行為と釣り合わない覚悟を求めても意味がない。

 「こんなスレまくった話、聞きたくもない」って思った人。
 そんなあなたは多分イノセントな人です。

 「そうだよね、そんな人いて実際困ってる」って思った人。
 そんなあなたも多分イノセントな人です。
 そういう人に限って、自分が見えてないものです。

 私にはJudgementさんの主張の方が、現実の社会を踏まえていないイノセントな発言に見えるのだけど。

【追記】
 最初の方に、言論は手段に過ぎない、と書いたけど、実際、言論だけで済むならその方が圧倒的に安上がりである。
 言論だけじゃ済まなかった神戸の裁判の例だとこんな感じ。実際に磁気活水器を購入し(19万8000円、師匠と折半)、通した水とそうでない水の表面張力や赤外吸収やラマン散乱を測定した(それぞれの測定器、数百万円から1千万円以上の値段)。実験のために、専門にやっている研究者やら院生やらが半日以上費やした。これ、裁判のうちで言論だけじゃなかった部分(作文した書証のやりとりを越えた部分)ね。これだけでもblogの維持費なんかより遙かにコストがかかっている。
 実験抜きで訴訟手続きを進めるのは、言論の世界っちゃー言論の世界だけど、blogであれこれ書いているだけよりは、圧倒的にコストもリスクも大きい。
 まあ、言論の世界だけを取り出して議論しようとするからおかしな話になるのだろう。ニセ科学に対する対抗策は、言論だけで閉じてはいない。言論で足りなきゃ手間とコストをかけて実証することになるのだけど、職業でやってる人以外はそこまではなかなかできないから(職業でやってたって不必要なリソースは投入したくないし)、言論で済む分は言論で済ませる方がいい。

【追記その3】
 TAKESANさんのところにもコメントしたのだけど、スポーツに例えると分かりやすいかも知れない。
 「スポーツをすることについて語り合いましょう」というエントリーとか掲示板スレがあって、みんな話題に参加しているのだけど、抽象的な概念である「スポーツ」をしている人は誰もいない。参加者は、それぞれ、野球とかテニスとかサッカーとかジョギングとか、その他たくさんある個別の種目のうちの1つ以上を楽しんでいる人達だ、という状況。
 個別の種目について、各自の練習法法や上達のコツについて語り合っている状態を指して「スポーツをすることを話題にしている」と言えるし、「スポーツ」という概念も確かにあるんだけど、でも実際には個別の種目の話だよ、という感じ。
 「ニセ科学批判が流行ってるよ」というのは多分「最近○○市ではスポーツが盛んだよ」というのと質的には同じなんだろう。詳しく聞いてみると「少年野球のチームの数が倍になった」「テニススクールの練習生が増えて前はがら空きだった市営コートはいつも満杯だ」「早朝ジョギングをしている人が増えている」といったことが起きていることがわかったりする。ニセ科学批判だと、「この三ヶ月で○○(個別のニセ科学)を取り上げる週刊誌が相次いだ」「はてブで目立つエントリーの半分位がニセ科学(のどれか)の話題だ」などということになるんだろう。

連休かぁ……

Posted on 4月 16th, 2009 in 倉庫 by apj

 Yahoo経由J-CASTニュースの記事より。

「3月末から調整していた在庫調整に伴う一時帰休がとうとう決まって、GWが16連休になりました。こんなにGWあってもなぁ、早めに何しようか考えておかねば…」

 09年のゴールデンウィークは、暦の関係で、4月29日水曜日の前後計4日間と5月の平日2日間を休めば、なんと16連休にもなる。特に、今回は、連休を長く取る企業が多いというのだ。それはもちろん、世界的な大不況で仕事が激減し、各企業が、人件費削減などのために仕方なく休みにしているからだ。

 景気の変動の影響を受けにくい職場なので、逆に、景気が悪くなったからといって16連休にはならない。特に最近は、半期15回を必ずやれという文科省のお達しが厳しいため、ちょっと休みを入れると連休だから、などという理由での休講は不可。カレンダー通りに出勤することになる。
 なお、連休中は連続実験の予定。分光器もだいぶ良くなってきたし、もし16連休ももらえたら、1報分のデータが出るよ、多分……。

サーバが重いのが回復しないので……

Posted on 4月 15th, 2009 in 倉庫 by apj

 あと2ヶ月くらいで契約更新の時期なんだけど、サーバーが重いのが改善しないから、プランを変えようか、それとも思い切って専用サーバを借りるか思案中。
 さくらインターネットの場合、プランを変えるとなるとMySQLのテーブル周りの移行が面倒そうだし……。値段が多少上がっても共用サーバだと常駐プログラムは不可だし。それならいっそ専用サーバにして好きに触れる方がいいのかとも……。どうしたものか。

再び感想文コピペネタ

Posted on 4月 14th, 2009 in 倉庫 by apj

 msn産経ニュースの記事より。

【すくむ社会第1部】子供にも広がるコピペ症候群~『考える』の空洞化(2)
2009.4.10 18:56

 学生が書くリポートからインターネット上の文書をコピーしただけの「コピペ」を根絶しようとする動きが広がっている。背景にあるのは「考える」営みを奪うコピペが、知の衰退を招きかねないという危惧だ。
 金沢工業大学大学院知的財産科学研究センター長の杉光一成教授(42)が民間と開発中の「コピペ発見ソフト」はまだ試作段階だが、調べたい文書のなかにネットからのコピペが何%含まれるかを一瞬のうちに判断してくれる。コピペした部分を多少変えても追跡可能な優れものだ。
 きっかけは2年前、学生が提出した課題リポートで読み覚えのある文章に出くわしたこと。別の学生のリポートの一部と一字一句同じで、ネットで検索すると、彼らのリポートの“元ネタ”とおぼしきページがすぐに見つかった。
 杉光教授は、他人の論文を引用しても明示さえすれば問題ないと思っていたが、教員を欺く行為は見過ごせなかった。それにもまして気分を陰鬱(いんうつ)にさせたのは不正を問いただしたときの学生の態度だった。
 「返ってきた答えは『引用表示を忘れました』。文章の構成からして明らかなうそ。悪いことをした自覚がまったくなかった」
 なぜ、あっけらかんとしているのか、杉光教授は考えた。「情報は図書館へ行き、一生懸命本を読んで仕入れるものだったのが、今の学生は、物心ついたころからネットがあった。蛇口をひねればじゃぶじゃぶ出てくる水のような情報なら、ありがたみを感じられない。だから使って何が悪いのか、ということになる」
■◇■
 コピペ発見ソフトがニュースで取り上げられると、その反響は予想以上だった。杉光教授のもとにはコピペに悩む東大、京大、東北大などの教員から問い合わせがあったばかりか、思わぬところから引き合いがきた。中央官庁や地方自治体の監査部門だ。
  海外の道路事情をめぐって、国土交通省所管の公益法人「国際建設技術協会」が平成19年、コピペで作った3冊の報告書に道路特定財源から約9200万円が充てられていたことが国会でも取り上げられ、各地の地方議会でも議員の海外視察報告書が他人のホームページなどのコピペで作られていたことが次々と発覚。行政の現場にも不正が広がっていたためだ。
 自ら考え文章を書き上げることを放棄し、安直にネットに頼る“コピペ症候群”が社会に蔓延(まんえん)している実態。それは子供たちも例外ではない。
■◇■
 「あなたは私の救世主です!」「全国の子供たちを宿題から救ってください」
 全国の児童から大量に送られる感謝のメール。16年8月の開設以来、289万アクセスを記録する人気サイト「自由に使える読書感想文」=写真=に寄せられたものだ。「読書感想文」でネット検索すると“本家”の「青少年読書感想文全国コンクール」よりも上位に表示される。
 これは、夏目漱石の「こころ」や芥川龍之介の「羅生門」など17冊の読書感想文を公開、学校提出用に限り丸写しを公然と認めるいわばコピペ推奨サイトだ。
 サイト管理人でフリーライター、恩田ひさとしさん(44)は読書嫌いになった子供のころの教育に対する反発から4年前にサイトを立ち上げた。「書き方も分からない子供に、教員が指導もせずに『書け』と言うのは無責任だから」と開設した理由を説明する。
 それに対し、大人からは辛辣(しんらつ)な批判が続々と届く。「日本の子供たちを抜け殻にしてしまう」「自分で本も読めないガキを作るな!」。
 そもそも読書感想文は、子供たちが本に接することで思考をはぐくむきっかけにしてもらうのが狙いだが、読書の実態をみると憂慮すべき点が浮かび上がる。
  読書の振興を図る全国学校図書館協議会などの調査では、一見すると子供の読書量は増えている。昨年5月の1カ月の読破冊数は、小学4~6年生で11・4冊、中学生が3・9冊と、ともに昭和30年に調査を始めて以来、最高となった。
 だが、問題はその中身だ。同じ調査で中3女子に読まれている上位11冊のうち、実に9冊が恋愛などを扱った「ケータイ小説」。こうした作品は従来の文学作品に比べて表現が簡素との指摘もある。
 同協議会の森田盛行理事長(59)は、現場の教師から「いくら指導してもケータイ小説から脱皮できない」との悩みをよく耳にするだけに、深刻に受け止めている。「考えるには読書はぴったりだが、歯応えのあるものを避けてやすきに流れる風潮が、子供を含めた社会全体に広がっているようにみえる」

 どうも、共通するのが「コピペ」という現象だけであって、種類の違う問題が一緒くたにされているように見える。

 まず、引用元を示さないパクリを社会に出てからやったのが発覚したら、社会からは排除されることもあるので(記事中の監査部門のチェックに引っ掛かるケースなど)、危険だという認識をさせる教育が必要である。昔と情報の与えられ方の質と量が激変していることも確かだから、昔と同じ苦労をせよと言っても、ピンと来ないだろう。「明示して引用する」を徹底させるしかない。

 後半の読書感想文の部分はは手段と目的が入れ替わっている。「そもそも読書感想文は、子供たちが本に接することで思考をはぐくむきっかけにしてもらうのが狙いだが、読書の実態をみると憂慮すべき点が浮かび上がる。」とあるが、感想文を書かなければならないとなると読むのが逆におっくうになるのではないだろうか。また、読むという活動と書くという活動は全く別なので、本当に読書好きなら、感想文を書く労力を次の1冊を読むために使いたいと思うのではないか。私は、本好きの感想文嫌いだったことを白状しておく。
 小説を読んで共感を覚えるかどうかは、想像力が及ぶ範囲の話かどうかにもよるはずである。今、明治時代の文豪の小説を出されて読んでしっくり来る中学生がそんなに多かったとしたら、その方が不思議だ。ケータイ小説の次はキャラクター小説を読むようになり、続いては売れ筋の新刊文芸書を読む、というのでもかまわないはずだ。途中から夏目漱石や芥川竜之介を読まそうとするから、無理が生じているのではないか。
 第一、そんなに本を読んで何かを考えさせたいのなら、小説じゃなくて哲学書でも読ませればいい。なぜそこで文学限定なのか。数学じゃダメなのか。科学じゃダメなのか。社会科学じゃダメなのか。教える側の視野が狭いことが、意識されないままに当然の前提とされているようで、記事を読んでいて引っ掛かった。

 関連の話題として作文の思い出を。
 そういえば、読書感想文は大嫌いで、夏休みの最後の日あたりに涙目で書くことになってたし、ただ単に読書量が多いからという理由でクラス代表で私に感想文書きを振った担任には殺意を覚えた。当然ろくなものは書けなかった。遠足に行ったという作文(ジャンルとしてはルポルタージュ?)は書きやすかったし、先生からもそれなりに良い点がもらえた。一番、ノリにノって書いたのは、「この物語の続きを書け」というのが宿題に出たときだった。何か、無人島に何人かで取り残されたというシチュエーションの小説が教科書に出ていて、続きを作れと言われたので、架空冒険&探検記を原稿用紙何十枚か一気に書いた記憶が。その時はもうそればっかり考えていた。いずれも小学生の時の話だけど。
 ということで、読書量と感想文の得手不得手はあんまり関係がないし、読書感想文とそれ以外の作文の得手不得手にもあんまり関係がないと思うのだけど、どうだろう。

今年の山形の桜

Posted on 4月 13th, 2009 in 倉庫 by apj

 昨日の日曜日頃が、キャンパス内の桜満開だった。山形市内の平地のあたりだと、多分どこも見頃だろう。

 先週末から急に暖かくなって、石油ファンヒーターを入れなくても過ごせるようになった。

 そういえば、山形に来た頃、春の物理学会(福岡)で桜を見て、戻ってきた直後に札幌に出張したら雪に見舞われた。その後戻ってきたら山形の桜が見頃だった。日本列島のあっちとこっちは随分季節が違うと短期間のうちに実感したのだった。

人生を変えた本

Posted on 4月 11th, 2009 in 倉庫 by apj

 kikulogにコメントしていて思い出したのでこちらで。

 山本義隆の駿台文庫の本が、結局、私にとって人生を直接変えた本だったなぁ、と今更ながらに思ったので。
 今入手できるのは「新・物理入門」。
私が受験生をしていた二十数年前は、上下巻に別れていた。
 内容は進んだ高校物理なのだが、書き方は完全に大学の物理の教科書に則っている。微積分をしっかり使うかわりに、見通しが非常に良い。微積分の知識を要求されるので、「微分積分学精説 改訂版」岩切 晴二 (培風館)を取り寄せて、この練習問題も自分で解きながら、山本氏の駿台文庫を読んだ。

 私は、高校の物理の教科書を読んでもイメージが掴めず、理解できなかった。いろいろ問題集をやったけど、どれもものにならなかった。とりあえず理系クラスを希望して振り分けられた直後、高校3年生最初の共通一次模擬試験の物理の点数は何と赤点だった。さすがに、こりゃダメかもしれんと思った。たまたま、東大文Iに通った従姉妹が遊びに来て、受験勉強するなら駿台文庫がいいと教えてくれたので、一緒に本屋に出かけた。英語の参考書など薦められたものを買い、物理もあったので中を見たら、これまでに見たどの参考書とも違っていたので、即買いした。その後、自分で式を全部追い掛けて計算し、やっと物理で何をやっているかが理解でき、大学入試問題がまともに解けるようになった。そのうち物足りなくなって、「物理概論 (上)(下)」小出昭一郎(裳華棒)を、市立図書館で借りて、期間延長しながら手元に置いて読んだ。模擬試験の赤点から1年後には理学部物理学科に進学していた。

 山本義隆の本に出会わなかったら、私は、高校物理を理解しないまま終わり、物理学科にも入れなかっただろう。かなり後まで、第二志望を法学部と書いて進路指導の先生にツッコミをもらっていたりしたので、多分、文系に進路変更しただろうと思う。
 山本氏の書き方(大学の物理と共通の方法)でないと、私は物理を理解できなかったのだ。

 最新版は、現職に就いてから、物理をやっていない学生に教えるときの参考資料にするために、演習書と一緒に購入した。高校数学と高校物理の検定教科書と並べて、オフィスに置いてある。
 高校の物理の教科書なんか読まず、最初から山本義隆の本で勉強すれば手間が省けたのに、という意見は、高校3年生の時から変わっていない。

普通に読んでみた

Posted on 4月 10th, 2009 in 倉庫 by apj

 TAKESANのところのエントリー「不明確」経由。
mzsmsの雑記にいくつか言及しておく。
擬似科学批判・批判」について。

僕は、ウェブで見かける疑似科学批判に、不満を持つことが多い。一言でいえば、「科学」というレッテルの帰属を争うだけでは、たんなるセクショナリズムに過ぎない、という不満だ。

 不満を持つのは自由だが、「セクショナリズム」に止まったとして、どういう不具合があるのかがはっきりしない。

あえて乱暴な言い方をすれば、彼らは、知識と非知識、事実と非事実、命題と非命題を区別する基準として、検証主義を唱えたのだ。だから、彼らにとっては「非科学的な知識」や「非科学的な事実」や「非科学的な命題」というのは一切存在せず、「科学的な知識」「科学的な事実」「科学的な命題」というのは過剰修飾である。

 現実の科学は自然現象の近似である。何かの主義と結びつくようなものではない。科学に過剰な期待をしているのではないか。また、科学で何とかなる範囲は限られているので、その何とかなる範囲の知識を総称して「科学的な知識」と呼んで他と区別することには意味がある。

彼らの志の高さを、いまの一般的な疑似科学批判はどれだけ受け継いでいるだろうか。それを受け継がないのに、検証主義を持ち出すのは欺瞞的ではないか。検証主義が、知識・事実・命題の基準なのではなく、たんなる「科学の作法」に過ぎないのであれば、それは伝統芸能や伝統的な職人技の擁護と、どこが違うのだ。

 芸能や職人技との違いがあるとしたら、共有可能だという部分においてだろう。科学の成果も方法論も、特定個人の能力と一体となったものではない。
 伝統芸能や職人芸に特許が認められないことにした理由と共通のものがあるのではないか。

擬似科学批判・批判の補足」について。

そうではなく、「彼らは、自ら『非科学的』だといっているが、実際には科学を装っている」というのでしょうか? それは言いがかりなのではないでしょうか。どうして彼ら自身がはっきりと否定していることを、彼らはそれを装っている、などといえるのでしょう。ビーカーや顕微鏡や温度計は科学の道具なので、科学者以外は手を触れてはいけない、それに手を触れることは科学者を装うことだ、とでもいうのでしょうか。それとも、およそ科学を装わないかぎり、大衆が何かを信じることなどありえない、よって大衆が信じている以上それは科学を装っているのだ、とでもいうのでしょうか。あるいは、理由はないが、彼らは疑似科学批判側が満足するまで、「科学とは言っていない」「科学とは言っていない」とオウムのように連呼する義務があるとでもいうのでしょうか。

 顕微鏡を使う、でも、何やらスイッチのたくさんある測定器らしきもので測ると数値が出てくる、でも何でもかまわないが、「通常人が科学であると誤認する」ものを「科学を装う」と呼ぶことにしている。やっている人達が「非科学的」だと言っても「ポエム」だと自称しても、そんなことは関係がない。どの程度まで手の込んだことをやれば、装ったことになるかは、受け手の知識や経験にも依存するし、もちろん、プロの科学者と高校理科も忘れてしまった多くの人とでは異なる。基準はあくまでも「通常人」である。
 また、大衆が何かを信じる、というとらえ方は範囲が広すぎる。大衆が科学でないものを科学と誤認する、くらいに絞らないと議論が成り立たない。

 もし、ここで疑似科学批判が、たんに「科学的事実」「事実の科学的な真偽」ではなく、端的に「事実」「事実の真偽」を問題にしていれば、こういったことには陥らないでしょう。つまり、「彼らは科学的には間違っている」というのではなく、端的に「彼らは間違っている」というのであれば、こういうことにはならないでしょう。

 「事実」の意味は状況により異なる。
 科学的事実であれば、科学の手続に従って実験的に確認されたもの、ということになるが、民事訴訟の場であれば裁判官が認定したものが「事実」になる。だから、端的に「事実」と言ったのでは範囲が広くなりすぎてしまう。かといって「事実」という一般的なものに対して科学的であれという縛りを入れると、他の議論をするときにうまくいかなくなる。リップサービスで「事実」という言葉の使い方にこだわっているのではなく、現実に「事実」の意味する内容にブレがあるから、混乱を避けるために「科学」で扱える範囲に限定しているに過ぎない。

疑似科学批判・批判の補足(2)・ブクマコメントに」について。

k-takahashi> ニセ科学, 科学 『宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判をいちど読んでみたいなぁ』 それがあったとしたら、むしろニセ(疑似)科学。自然科学が相手にするのは「自然」。自然だけで、むちゃくちゃに強大で強力なのですよ。

なぜ、自然を探求対象とすることが自然科学の特権なのでしょう? 宗教が、自然のあり方を語ってはいけないのはなぜでしょうか?

 誤読あるいは言い過ぎ。k-takahashi氏のコメントは、科学が自然を相手にしているという言明に過ぎず、他の何かが自然を相手にすることがあるかどうかについては何も言っていない。

実際には、多くの疑似科学批判は、探求対象としての自然が科学の占有物だとまで主張するとこまでいっていないように思います。もし、そう考えているのであれば、自然についての議論において「科学的に正しい」とか「科学的な方法」とかいう過剰修飾を行う必要はないはずです。もし、自然を探求対象とすることが自然科学の特権であるならば、自然についての議論において「科学的に正しい」のならばそれは端的に正しいのであり、「科学的な方法」は唯一の探求方法であるからです。「正しい」の代わりに「反証されるまで正しいとみなす」といった言い回しでも構いませんが、探求対象としての自然が科学の占有物ならば、いずれにせよ「科学的」というのは過剰修飾です。

 自然を相手にするのに、科学的な方法でも、宗教的な方法でも、芸術的な方法でも、まあ、どんな方法でもアプローチすることは可能である。ただ、科学的な方法で自然を相手にしたとき得られるものと、それ以外の方法で自然を相手にしたとき得られるものが、それぞれ異なっている。このため、違うアプローチで得られたものを混同してはいけないし、それぞれ適切な使い方がある。

しかし、科学的に効果のある医療を提示するのは、疑似科学批判ではなく科学の役割であって、かつその提示が信頼できる理由は、科学がなぜ信頼できるかというですから、それは少なくとも「実証」「検証」「反証」というのものの価値の説明を度外視した疑似科学批判が単独でできることではないと思います。

 擬似科学批判が単独でできるのは、科学的に効果のない医療を選ぼうとしている人に対して、それは効果がないということを知らせるだけであって、それ以上のことはできない。だから、この部分には同意する。
 それでも、実用上は役に立っている。既に科学的に効果のある医療があるのに、そうでないものを科学的に効果があると誤認することを防げるからである。

 誰かが勝手に科学でないものを科学だなどと主張するから、批判などという余計な作業をするはめになる。だからといって放置した結果、ニセものの方が社会の方で主流になってたりすると、ホンモノを持ってきても使ってもらえなかったりするから、困るんだよねまったく。ニセ科学を広める人達に対して言いたいことは、「要らんことすんなボケ」という身も蓋もないものでしかないから、そりゃ志も低く見えるわなぁ……。

疑似科学批判・批判の補足(3)」について。

科学を支持し、疑似科学を批判する側には、たんに方法論、「科学の作法」以上の科学へのコミットメントがあるはずです。それは、科学こそが自然を探求するおそらく唯一の信頼できる方法であって、さらに何か信頼できる方法がでてくればそれを取り込むという信頼や自負があるからでしょう。私は、疑似科学の批判者が、そのコミットメントを自覚していないなどとも言っていません。

 実のところ、科学のやり方は、人間にとってそんなに自然なものでも楽に実行できるものでもないと私は考えている。人は、放っておけば簡単に、合理的でないものの方を受けいれてしまう。多分、痛い経験によって科学の方法を思いついて積み重ねてきた、という方が現実に近い。だから、擬似科学を批判することで何かが得られるとしたら「人は不合理を簡単に受け入れる」ということを何度でも再確認することで、意識的な訓練のきっかけとする、といった意味があるだろう。勿論、合理的でないものを受け容れたことで現実の損害が発生する場合は、損害を防ぐという具体的な効果がある。

疑似科学批判・批判のまとめっぽい何か」について。

少なくとも前段、疑似科学批判がやっていることは「科学」というレッテルの帰属争いであるというのは、多くの疑似科学批判者が意識的に選んだことではないの?これが問題になるようには思えない。後段は、私の揶揄的な評価だけど、少なくとも後に続く論理実証主義をふまえた上で、これをセクショナリズムだと評するのが、そんなに奇妙なものとは思えない。

 セクショナリズムの定義がうまく伝わらなくて誤解されたのだろう。レッテルの帰属だというのは、まあそんなものか。私は以前、ニセ科学批判とは、先に科学でないものに科学というレッテルが貼ってあるのを剥がす行為だと書いたわけで。もろにレッテル回収作業だわな。

科学、哲学、その他の文化領域のほとんどについて思想的に改造しようとした論理実証主義と同じような壮大な意図を、多くの疑似科学批判が持っているのだとしたら、そちらのほうがびっくりする。

 科学が出てきたのって、「思いつきで行動して痛い目を見たく無い」というあたりからだと思うので、思想的な志はあんまり関係ないのでは。その後、もっとマニアックなことになって、統一理論を作ろうだの、宇宙を全部記述しようだのという方向までいっちゃったし、それはそれで楽しいのだけど。

最大限に何かを読み取るとしたら、「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒する」というのがありえる立場だと僕は考えている、ということだろう。

 無理だろう。科学は真理じゃなくて「自然の近似」なので。対象を自然に限定し、実験で再現したり予測を立てたりできる場合には、既にそれなりの精度を確保しているから相当に強力だけど、強力だというのと真理だというのとは違う。それに、科学が対象としていないものには科学のやり方は使えない。

「実証されなければ確かな事実ではない」という代わりに「『科学的方法』によって実証されなければ『科学的事実』ではない」というとき、そういう連中が子どもを虐待する口実を作り出す空気、さも「科学的事実」とは別の「宗教的事実」なるものがあって、それは「科学的方法」ではない「宗教的方法」によって探求できるのだという主張を許す空気を温存させることになる。僕は、その空気が大嫌いだ。

 好き嫌いの問題についてとやかく言っても仕方がないとは思うけど、「宗教的事実」をどうにかしたいのなら、宗教的な考え方の範囲でどうにかすべきだろう。宗教をどう定義するかが曖昧だけど、少なくとも、人間にとっての価値判断を与える思想体系に科学を安易にくっつけるとろくなことにはならない。
 科学は観測事実によって理論の枠組みを変えてきた。だからこそ強力であるけど、何にでもこの方法を用いることにしたら、困ったことだって起きる。科学に倣って枠組みを作るのなら、例えば殺人事件が増えたから殺人を容認する思想的体系を作ろう、という主張を受け容れることになる。こんな主張は、倫理的にも道徳的にも普通は受け容れられないのではないか。逆に、もし、科学が、地球上の人口は1つの生物種のサイズと数からいって多すぎるという結論を出したら、一体どうするのだろう。地球環境のためにランダムに選んだ人を殺して間引きましょう、というのは、星新一のショートショートの世界だけで十分だと思うけど。

しかし、「『科学的方法』によって…」という代わりに「実証されなければ…」というだけで、そのような空気の温存をいくらかは防げるというのに、「科学的」という修飾詞を好む明確なメリット、とくに科学者が率先してそうするメリットというものが僕にはあまり思いつかない。

 「科学的」と修飾することで、副作用を防いでいるのではないかな。「実証」の意味が分野によって違う以上、「実証は全て科学的であれ」と縛ると身動きがとれなくなるだけだろうし。

 もともと科学は適用範囲を限ることで精度を上げて強力さを確保しているのだから、みだりに適用範囲を広げたら、逆に収拾がつかなくなるし傍迷惑な結果になるだけだろう。

読者に出会えてちょっと嬉しい

Posted on 4月 9th, 2009 in 倉庫 by apj

 本日は新入生ガイダンスの日。全体のガイダンス終了後に、各教員が3人の新入生のアドバイザーとして、時間割の作り方などの相談に乗る。
 例によって、お茶とお菓子を用意し、話をしつつ時間割作りを手伝っていた。新入生の一人が、高校の時に使っていた化学の資料集の、私が書いた記事を読んでくれていたことがわかった。第一学習社の「スクエア最新図説化学」に、「ニセ科学にだまされない」というタイトルで書いたもので、マイナスイオンや血液さらさらの批判を書いていた。読んで楽しんでくれたらしかったので、ちょっとうれしい。

何でもハラスメント

Posted on 4月 8th, 2009 in 倉庫 by apj

 2月のとある日、扉に貼られていたビラ。キャンパス内くまなく教員居室の扉に貼り付けられたらしい。

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 私が着任する前に、「学寮問題」というのがあったらしい。その後始末が今も続いていて、今度は追い出された側がキャンパスハラスメントの手続きを使うことにしたらしい。
 最初にビラを見た時は、部屋の扉に貼り付けられていたので、一瞬、別件でハラスメント手続きを使って私と争うつもりの人が新たに出てきたのかと思って、やる気ならこの際だから受けて立つぞと気合いを入れて、よく読むと違っていた。私とは直接関係の無い話だった。

 以前、大学が学生に配っているカードには、ハラスメントとは「本人が意識しなくても、相手が「望まない言動」と受け取ることです」などと書いた上に、見過ごさない、などと標語を書いたポスターを学内に貼っていた。

 私は昨年、学生に対するキャンパスハラスメントの加害者として学科から告発された。それが、下に書いたように、著しく作為的な調査であったため、中心となった教員2名による私に対するハラスメントであるとして、私から申し出を行った。こちらの学内調査は終わったが、再発防止策がとられたわけでもなく、当事者で解決せよという結論で終わってしまったため、問題は今も解決していない。
 簡単に状況を説明しておくと、実際には学生が加害者で私が被害者の脅迫事件であったのに、学科教員がよってたかって「学科の調査」とやらをするとあら不思議、起きていた脅迫事件は無かったことになり、加害者と被害者は逆になり、無かったハラスメントがあったことになって、その報告書が提出されてしまった(報告書の提出は学生からの申し出よりも先に行われた)。これをやった人達は、「学生が望まない言動だからハラスメント」「見過ごさない」のだから遠慮無く告発してもいい、と思っているのかもしれない。しかし、事実とあまりにもかけ離れた内容の告発というのは、世間では「でっち上げ」呼ぶのが普通であり、職場で集団で個人を陥れるというのは、立派に職場イジメ事件だし、損害賠償モノだと思う。

 それはともかく、主観のみでハラスメントだと主張し放題になることを認めるようなパンフレットやポスターを配っていたら、そりゃ他人を攻撃するネタに使われまくる結果になるのは目に見えている。告発する側がどうにでも拡大解釈していいということだし、被害妄想の人間ならば相手構わずハラスメントの加害者に仕立て上げるに違いない。
 とどめに、全く種類の違う問題であるはずの学寮問題までハラスメントとして申し出がなされるに至った。これを処理しなければならない大学の偉い人はご苦労様だと思うと同時に、際限のない拡大解釈に基づく主張を誘発するような啓蒙活動をしたのは当の大学なのだから、ある意味自業自得と思わないでもない。上の方は学寮問題が面倒臭いことになったと思っているに違いないが、私だって、拡大解釈可能な文言をタテにとった嫌がらせで迷惑したし、今後の状況次第では、上も巻き込んでの提訴だってあり得る。

 なお、今年から、全員に配られるパンフレットの書き方が「あなたが意識しなくても、相手が「ハラスメント」と受け取ることがあります。」という穏当な表現に変わった。適切な変更であると思う。

日本トリムの宣伝が相変わらずな件

Posted on 4月 7th, 2009 in 倉庫 by apj

 次のようなメールをいただいた。

わたくしの勤務する会社にて、
お昼休みに日本トリムが営業にきました。

「水と健康を考える」というタイトルのお話でした。
お話で活性水素という言葉は使われていませんでしたが
「社内研修用資料」と書かれたチラシには

>水素と活性水素を含んだ「電解還元水を飲み続けましょう」

と書かれていました。

また、お茶を使ったデモンストレーションがありましたが、
pHの効果であるという説明はなく
「吸収力が良いからだ」という説明でした。

しばらく貴Webを見ない間に、天羽さんと日本トリムの
間で面談があったようですが、きっと販売方法について
改めるような事は期待できないのでしょうかね。

配られた資料はとってありますし、録音も残しています。

 インチキ宣伝を止めてまっとうに販売しようとしていた須長副社長が別会社に出てしまわれたので、もう改善の見込みは薄いということだろうか。私が見せて貰ったパンフレットや資料には、そのような説明が出てくる余地は無かったのだが、須長氏が居なくなって元に戻ったのだろうか。私としては須長氏に頑張ってほしかったし、宣伝がまともになるなら応援する気持ちもあったのだが。

 繰り返しになるが「活性水素」なる物質を仮定しなければならないような新規な現象が起きているという証拠はない。また、還元水は試験管内で一定の抗酸化作用を示すが、活性酸素と直接反応して消去するような物質の存在は期待できない(平岡さんの論文)。
 お茶の色が変わるのはpHの違いで説明できる。吸収は関係無い。

 トリムの状況を見ていると、最初に怪しい宣伝で販路を広げるようなことをしてしまうと、後からの修正が容易ではないということがわかる。まともな宣伝で商売をしたければ、最初から怪しい宣伝はせず、そういう宣伝に安易に流れない販売員や営業の人で販売組織を構成しないといけないということなのだろう。