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文章とジェンダー

Posted on 7月 16th, 2005 in 倉庫 by apj

 昨日、中西氏にあって自己紹介したら、中西氏は私の文章を読んだことがあると言っていた。読んだのは、お茶の水のサイトのものだったというから、多分水商売ウォッチングか水関係のどれかだろう。あと、このブログの「二十歳の民事訴訟」を!」は見たということだった。私の文章を読んでの感想は「書いたのは男性だと思っていたら、女性が作者だとわかって、へぇ、と思った」というものだった。
 私の文章を読んだ人に、「作者は男性だと思っていた」と言われたのはこれで2回目である。自分の書く文章について、性別を意識したことは無かったが、世の中には、「男性が書いた文章」「女性が書いた文章」という分類基準が暗黙のうちにあるのだろうか。ラブレターとか随筆とか、読めばたちどころに性別がわかったり生活の状況が書かれていたりするものについては、考えるまでもないだろう。ただ、一般的な評論文の場合の男女差というのは一体何だろう?
 もし、ある人が「こういう文章は男性が書くものだ」と思うに至った場合、原因は、そう思わせる背景が読む側に存在するか、あるいは実際に文章そのものに性別による違いが出ているか、もしくはその両方ということなのだろう。何を話題としてとりあげ、どう論じるかということは、多分に個人差が出るものであり、多数をあつめれば性差による分布の違いが仮にあったとしても、個人差の方が大きく、本来そうはっきりと性別がわかるような種類のものではないと思う。平安にさかのぼれば、それこそ、女性の振りをして日記を書いた奴だって居たわけだし。
 文章から性別を判断するということを、知らず知らずにやってしまうような、あるいはできてしまうような背景があるということが、まさにジェンダーということではないのだろうか。無意識のうちに性差を仮定したり、あるいは「こんな文章を書くのがよいor当たり前」という圧力をかけてしまっているかもしれないわけで、本当に意識しなければならないジェンダーフリーというのは、性教育云々の話でも現実の性差別の話でもなく、男女の役割分担とも無関係に、文化に対する縛りとして効いてしまっている部分ではないかと思う。 こういうジェンダーについては、ジェンダーフリーを目指した方が、より多様な評論文や、ひょっとしたら小説なんかも出てきて、文化的に豊かになる方向に向かうのではないだろうか。

 ちなみに、科学論文については性差を感じたことは全くない。内容がどうかということだけが問題だから、そもそも判断基準に入ってこない。