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ニセ学位

Posted on 12月 30th, 2006 in 倉庫 by apj

Sankei Webの記事より。

非認定大学の博士号 吉村作治学長も取得

 早稲田大学元教授で「エジプト博士」として知られる吉村作治・サイバー大学学長(63)が、米国の非認定大学「パシフィック・ウエスタン大学(PWU)ハワイ」の博士号を取得していたことが29日、分かった。同大学は、米国で「学位の乱発」と問題化した「ディプロマ・ミル」(DM)の一種とされ、吉村氏は「うかつだった」と話している。ほかの未認定大学で博士号を取得した英語教育の著名専門家も反省の意を示しており、教育界に「学位商法」の波紋が広がっている。(池田証志)

 吉村氏は平成6年、週刊誌の広告を見てPWUハワイ東京事務局を訪問。「ハワイ州の認定を得ている」と説明され、ハワイにある校舎の写真を見せられた。30万円を支払い、英文の論文を提出。7年に博士号を授与されたが、肩書に使ったことはないという。

 取材に対し「助教授歴7年のとき、同僚から博士号がないと教授になれないといわれた。早大で博士論文を書いていたが、自分の力が世界で通用するか試したかった。DMとは知らなかった」などと話した。

 吉村氏は昭和61年に早大文学部の非常勤講師、62年に人間科学部の助教授に就任。同学部教授になったのは平成10年で、11年に早大理工学部で博士号を取得している。

 ブログ「学歴汚染」でDM問題を追跡している静岡県立大の小島茂教授によると、PWUハワイは今年5月、最低25人の学生が州内にいない▽ハワイに事務所がない-などとして、ハワイ州法違反(学位不法授与)で裁判所から罰金や閉校などを命じられた。米国大の学位の質を保証する認定団体の認定を受けておらず、DM規制が厳しいオレゴン州に「DMの可能性が高い」とされたという。

 PWUハワイは「アメリカン・パックウエスト国際大学」と名称を変更。ホームページで「法的問題を解決するため努力している」として入学受付を停止している。PWU元教授は「2年前に経営陣が交代、オンライン化を進めている」と説明している。

 吉村氏は「学位は本来、入学金や授業料などの金で買うもの。心の栄養であり、お金だけでは買えないものでもある」とした上で「うかつだった。DMはよくないし、それを悪用するのもよくない。皆さんにも気を付けてほしい」と訴えた。

 一方、「英語を子どもに教えるな」(中央公論新社)などの著書やテレビの英語番組の監修で知られるNPO法人「東京コミュニティスクール」の市川力校長は15年、DMとされる「ハミルトン大学」の博士号を取得し、肩書に使っていた。

 市川校長は、約80万円を払い、米国で学習塾を運営した経験を単位化、数十ページの論文を提出したが、「DMとは知らなかった。経験で学位が取れるならと思った」という。c

 米国議会の調査部門「米会計検査院」が16年にまとめた報告書で、PWUとハミルトン大など7校はDMと位置づけられ、米メディアにも取り上げられている。

 PWUカリフォルニアは「DMとされたのは前の経営者のプログラム。WUハワイとは別組織」などとDMへの関与を否定。ハミルトン大は事実上活動を停止しているもよう。29日までに取材への返答がなかった。

 ■ディプロマ・ミル(学位工場) 実際に就学しなくても博士号など学位を販売する機関・団体のこと。代金を振り込むだけで学位証明書を発行する業者もある。学位取得までの期間が短かったり、通学が不必要だったりするところも。海外に数百はあるとされ、詐欺に利用されかねないとして米国で社会問題化している。

(2006/12/30 02:29)

 この話の論点はいくつかあると思うのだが、
・人生経験では学位を取れないという基本的な常識の欠如
・DM問題は随分昔から知られており、日本でも「特許大学」などがあったにも関わらず、DMの学位を学位を認めて教授に昇進させた早稲田大学の見識の無さ。(仮に業績等が十分にあっても、DMの広告塔になるような行為をする人物は教授として不適だろう)
・さらにそういう人物を学長にしたサイバー大学を認可した件
・論文博士の制度は基本的には日本だけでは?(だから廃止するという話が出てきたのでは)だとすると、怪しい制度だと知った上で利用したことになるわけで……

 日本の論文博士の制度は、既に学術雑誌に投稿論文がいくつかあることが前提で、査読を受けて学術雑誌に出た内容を改めて1つの博士論文にまとめて審査を受けることになっている。
 DMを横行させないためには、やはり、公職(私立の教育研究期間含む)に応募するときや昇任するときの履歴書に書いてはいけない(書いたら採用、任用を取り消すといった罰則あり)の制度を作るしかないだろう。

 ただ、それよりも何よりも、吉村氏の「学位は本来、入学金や授業料などの金で買うもの。心の栄養であり、お金だけでは買えないものでもある」という発言が真実ならば、こちらの方が大学人としてよっぽど問題ではないか。確かに、入学金や授業料を払わないと大学に居続けられない。前半が真実だとした場合、金で学位が買える(つまり研究の中身はどうでもいい)と言ってるわけで、そういう認識の人物が学位審査をする側に居られては困る。
 後半の「心の栄養」も、研究者としてはどうかと。理系の場合は心の栄養なんかじゃなく、学位を持っていることは、大学や研究期間で仕事をするための単なる資格と位置づけられている。文系の場合は、教授になる頃に学位を取る人も昔は多かったらしい(教授になっても持ってない人もいた)が、それでも「心の栄養」ではなくその道何十年かこつこつと成果を積み重ねたことを認めるという意味合いだろう。