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「ニセ科学批判」はワイルドカード入りだし、「ニセ科学(蔓延防止)対策」の1つの手段である

Posted on 4月 20th, 2009 in 倉庫 by apj

 週末あたりから、Judgementさんのところでいろいろ書きながら考えて、私なりに整理したことのまとめ。
Judgementさんの新エントリー「こんな説明ではいかが?」へのコメントも兼ねている。

 まず、科学を装うが科学でない、という「ニセ科学」の定義は今のままで大体良いだろう。これは以前に私も議論した(今はここに置いている)。

 しかし「ニセ科学批判」という用語は使い方に注意が必要なのだろう。私も旧blogで最初に「ニセ科学批判」という言葉を使った時は、先にどっかで誰かが「ニセ科学批判者」といった呼び方をしていたことに引きずられ、それでもこういう括りは無理だよなあ、と思いつつ使った記憶がある。きくちさんが言い出したのは「ニセ科学」だし、私が賛同して使うことにしたのも「ニセ科学」であって、「ニセ科学批判」「ニセ科学批判者」じゃなかった。

 その時は、単に、個別のニセ科学に対する議論を一括りにはできないから「ニセ科学批判」という単語で括ってもあまり意味が無いんじゃないかと考えていた。今でもこれは変わっていない。その後、あちこちで「ニセ科学批判」という言葉が使われて、「ニセ科学批判批判」という言葉が派生し、すっかり定着してしまった。私自身も、このようなキーワードを使っていろいろ書いたり議論したりして、定着に一役買ってしまった。ただ、これはまずかったのではないかと考えている。

 結局、やりたいこと(やらなくちゃいけないこと?)は「ニセ科学を批判すること」ではなくて「ニセ科学が世の中に蔓延するのを防ぐこと」である。つまり「ニセ科学蔓延防止対策」、短縮するなら「ニセ科学対策」。

 どうして特定の主張が広まることに対策が必要なのかを説明しようとすると、その主張のウソをウソだと指摘しなければならなくなるから、ニセ科学対策をする際には批判が伴うことがほとんど、ということになる。批判を伴うことがほぼ必然だから「ニセ科学批判」という呼び方が出てきたのだろう。

 では、ニセ科学が蔓延している状態とは何かというと、科学っぽい説明だけども実は根拠がない「マイナスイオン」「水からの伝言」「節電器」「血液型性格診断」等々の、個別の説に欺される人が増えて、実際に財産的被害や、もっと広い意味での権利侵害が発生している(あるいは、しつつある)という状態だろう。複数の種類のニセ科学言説が広く知られ、受け容れる人がそれなりの数居て被害が発生するという状態や、次々新手が出てきているといった状態も蔓延といえるだろう。

 ニセ科学が蔓延することに対して何らかのに対策をしようとした場合、
(1)個別の言説のどこがウソかを指摘して、みんなが読める状態にする。
   (blogでの個別の議論はこれに含まれる)
(2)景表法4条2項や特商法6条の2の運用ガイドラインに反している、つまり違法だという指摘をする(通報する、主務大臣申出なども含まれる)。全てのニセ科学に対して有効ではないが、財産的被害を発生させるものには使える。
(3)なぜ「ニセ科学」が蔓延するのかを考えて、個別にウソをウソと指摘する以外の対策がとれないかを考える。
といったことが考えられる。他にもあるかもしれない。
 一方、絶対とれない方法は
「ニセ科学言説が蔓延しないように世の中に出る前に事前チェックする」
ことである。国家権力をもってしても事前の検閲は禁止事項だからできない。つまり、ニセ科学蔓延対策をしようとすると、事が起きてから動くことになる。

 手軽にできるのが(1)であったので、(1)をやる人が増えた。その状態を観察して記録したのが「ニセ科学批判まとめ%作成中」(たかぎFさん)である。
 このタイトルの
「ニセ科学批判まとめ」
とは、
「マイナスイオン批判」「水伝批判」……「血液型性格診断批判」まとめ(新しいのが出てきたら「○○批判」を追加)、
という意味だろう。こんなもの、いちいち例示列挙していたらとんでもなく面倒くさい。いっそ「*批判まとめ」と正規表現(?)したくなるのだけど、「*」だと何にでもマッチするから「ニセ科学」と入れたのだろう。つまり、「ニセ科学批判」といったときの「ニセ科学」とは、ジャンルに制限をかけた一種のワイルドカードみたいなものである。だから、結局実体はなくて、個別の「マイナスイオン批判」「水伝批判」……「血液型性格診断批判」にマッチさせた後から話が始まる。何にマッチさせるかは、「ニセ科学」の定義とか判定基準に拠ることになる。
 ところが、「ニセ科学批判」という単語が一人歩きすると、それが限りなくワイルドカードに近いものだということが忘れ去られ、何か実体のあるものだと勘違いされてしまった挙げ句、「理解しなくてはいけないもの」と思われたり、「個別の議論だということにしておきたいのですね」などと突っ込まれたりする拗れが起きるようになってしまった。

ただ、私は「ニセ科学批判」は「ニセ科学批判を理解している人に分かりさえすればいい」事なのか?
 と考えた時、それではダメなんじゃないの、と思った。

 「ニセ科学批判を理解する」というのは、実体が無いものに対して無理矢理実体を拵え上げてメタな部分での話をすることになるので、分かる人にだけ分かる状態でも何も問題が無い。ニセ科学蔓延対策に役立つのは、「ニセ科学批判」に対する理解じゃなくて、「個別のニセ科学のどこがどうニセか→だからあなたは欺される」という説明であったり、「ニセ科学が蔓延する社会的背景は何か・どうすればその社会的背景を変えられるのか」(個別の事例を離れた原因と対策方法の探索)であって、「ニセ科学批判」という概念がみんなに理解されているかどうかなんてどうでもいい話である。というか、ワイルドカードを含んだ正規表現だけ取り出して理解を求めても意味がない。

 結局「ニセ科学批判」という括りが誤解の元なのではないか。批判する側の人に変な枠をはめ、議論や考察の対象としての「ニセ科学批判」があり得るという方向に、批判批判をしたい人をミスリーディングする結果になっている。

ここにはまず、一番最初の記事で述べた「批判する側が、都合よく批判したい対象だけを切り離せる線引きをしている」(ように見える)不公平感が(現状では)解消できていないという問題が有る。

 まず、誰が不公平感を抱くかで問題の種類が違ってくる。
 批判する側が不公平感を抱くのなら、そうじゃない批判をお前がやれ、で済む。あるいは、批判を公平にするために別ネタの批判をお前がやれ、ということになる。
 批判される側が不公平感を抱くのは仕方がない。先にニセ物を広めたお前が悪い、というだけの話である。ウソを指摘されたことに対する反感や不満から不公平だとだだをこねる場合も少なからずある。

 ニセ科学蔓延防止対策を、個人が手の届く範囲でやろうとすると、その第一歩は「自分が欺されないようにする」である。しかし、個人の注意力には限界があるし、得手不得手もあるし、個人の注意で足りているならそもそもニセ科学は蔓延しないだろう。そこで、次に「欺されそうなポイントをお互いに出し合って注意しましょう」ということになる。つまり、ご近所で「オレオレ詐欺が流行っているから注意しないといけないね」「隣町に泥棒が入ってまだ捕まってないから戸締まりに気を付けましょうね」「隣の市ではしつこい訪問販売対策を始めたからウチのところでも注意しなくては」といった情報を共有し合う延長上に、ニセ科学に対する注意喚起もある。
 こう考えると、「批判したい側が批判したい対象だけを切り離せる線引きをしている」というのは的外れであることがわかる。善意で声を掛け合っている状態なのだから、目に付いたものや気付いたもの=批判しやすいものが取り上げられるのは当たり前である。防犯のために町内で声かけ運動をしているときに、「すべての犯罪について等しく注意喚起しないのは不公平」と主張するのはナンセンスだろう。

 また、「ニセ科学への批判のやり方」についての規範は無い(多分)という事も問題の原因となる。
 いわば、罪名と、犯罪の構成要件は書かれても、量刑が書かれていないようなもの。
 むしろ、「動機」の多様さを認めるその懐の深さにおいては、その副作用で、「処刑方法」の多様さも容認せねばならない状況になっている。

 ウソをウソと指摘する方法がいくつもあるのは当たり前だろう。1つしかないとか、1つに絞らなければならないと考える方がおかしい。多様な動機とパターンで出てくるウソを相手にしていて、被害の発生も多様なのだから、切り口は沢山あった方が良い。
 客観的にウソを示す方法をとった場合は、科学的な知識が要る。その分敷居が高い。科学の知識が不十分でも、相手の矛盾に気付けばウソだとわかるから、矛盾を示していくというやり方だって有効である。内容を理解しないままでも、急に出てきた新しいものはみんながどうするか見てから飛びつこう、という用心深さを発揮するという方法で欺されることを避けられる。いろんなパターンの議論があって、その中から、各自、わかるものを選んで考える手掛かりにすればよい。

 そしてその対応についても、ついつい自らが慣れ親しんだ批判方法に流れてしまい、「批判に対する批判」という新たな状況に対応しきれていないのではないか?

 じゃなくて「ニセ科学批判」という単語そのものが、個別のものとマッチさせる前のただのワイルドカードだということを、批判する側も批判批判をする側も忘れてしまい、双方が実体のないものをあると勘違いしているから混乱しているのではないだろうか。
 もっとはっきり言えば、慣れ親しんだ批判方法というのは、「ある」ものを前提にしての批判(科学的根拠があるとか、実験で示されているとか)なのだけど、慣れ親しんでいない批判とは、うっかり生み出してしまった「実体のないない」もの(=「ニセ科学批判」)に対する批判に対応するということになる。だから、Judgementさんの問題のとらえ方自体が間違っているのだろうというのが私の意見である。

【追記】

 また、「ニセ科学批判」が、ニセ科学を批判する事を目的とするならば、「ニセ科学批判批判に対する対処」はその範疇に無いはずである。
 しかし、ニセ科学に対する態度と同様(もしくはそれ以上に)皆鋭敏に反応する。その有様が他者に与える印象の問題は先に述べたものと同様である。

 「ニセ科学批判」の実体がそもそも無いのだから、「ニセ科学批判批判」に対しては、「実体が無いものを批判している」とはっきり伝えないとまずい。印象以前に架空の議論でしかないので。おそらく便利だという理由で「ニセ科学批判」という括りを受け容れてしまったために、そうすることが難しくなっている。

【追記】
 「ニセ科学批判」という括り方に乗っかったのは批判側の戦術ミスだろう。実態のないものに対する「批判批判」を呼び込んでしまい、本筋であるはずのニセ科学蔓延対策には不必要な争いをすることになった。

【言及リンクのための追記】
疑似科学批判批判批判批判、を読んでいて思ったあまり関係のない感想へのコメントとしてトラックバックさせていただく。