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文系の人と語る楽しみ

Posted on 1月 24th, 2008 in 倉庫 by apj

 最近、黒猫亭日常さんのところにおじゃまして、いろいろコメントを書いている。黒猫亭さんの文章を読むのが楽しみだったりする。
 blog主の黒猫亭さんは文系の人である。最初に黒猫亭さんの文章を見たとき、この展開の文章はどう頑張っても私には書けないと思った。言葉が人に向かう時の厚みをもった紡ぎ方は、やはり文系の人の物である。理系では、言葉の半分が数式や記号だったりするし、余計な言葉をそぎ落として自然を記述することに向かう。私はそういう訓練をされてきたから、私の使う言葉もそうなっている。
 言葉を尽くし、言葉を積み上げて人に向かうというのは、理系の訓練からは出てこない。理系はそんなふうに訓練されていない。しかし、人を考え理解する方法としては言葉をきちんと使うというのは非常に強力であるし、積み重ねもあるのだと思う。
 自然科学の修得には訓練の積み重ねが必要だが、言葉を使うという文系の分野にも訓練と積み重ねがある。人間には両方が必要だと思う。特定の個人が片方のやり方しか習得できなかったとしても。
 もちろん、言葉を積み上げたって自然科学に対しては無力だし、科学の方法で人を理解しようとしたって生理学的な理解以上のものは何も出てこないだろうから、使う方法と対象を間違えては意味がない。これはまあ、言うまでもないことである。

 理系文系論争というのは大抵不幸な方向、つまり互いにこき下ろすという方向に行ってしまうことが多いのだが、理系だから数学や実験器具を駆使して自然を相手にできる、文系だから言葉を尽くして人にきちんと向き合える、などと、互いに何がアドバンテージかを主張した方が、実りがあるのではないか。

TeX用ツール

Posted on 1月 22nd, 2008 in 倉庫 by apj

 4年生の卒論書き用の環境に、Mac pTeXとmiエディターとTeX tools for miを入れて設定していたのだが、MacのOSのバージョンがちょっと古かったためか、最新版のTex tools for miを動かすと、設定画面が出なかったり、最初の1回は動いたのに2回目から全く動かなかったり、プリファレンスファイルがうまくできていなくて毎回ツールの場所を訊いてきたりと、不穏な動きをした。とりあえず、TeX tools for miの最新版は捨てて、ちょっと前の私が普段使っているものをコピーして入れたら問題なく起動。AppleScriptまわりのツールでも、動くバージョンは確保しながら、動作確認しつつ最新版に変えた方が安全らしい。
 一応、teTeXとTeX shopという環境でも動かせるようにはしているのだけど。

手札を良い状態に保つ

Posted on 1月 21st, 2008 in 倉庫 by apj

 「裁判」カテゴリーにするかニセ科学の話題にするかで迷ったのだが、前日のエントリーとの関連もあるのでニセ科学の方に書いておく。
 向こうの掲示板で「正義は勝つのだ!」という、応援投稿がなされた。気持ちはありがたく受け取るが、実のところ、これは民事訴訟にはとことんそぐわないフレーズである。
 民事訴訟の目的は正義の実現ではなく、私的紛争の解決である。その途中経過として真実が明らかになったり、結果として正しい方が勝つこともあるが、それは、たまたま「正しい方」が「真実を立証する活動をした」ことが認められたからに過ぎない。裁判所は積極的に真実を明らかにすることはない。真実を明らかにするのは、争う当事者の責任である。主張がいくら正しくても、立証が不十分なら敗訴する。そして、一旦判決が確定すると、それは、社会において「正しいもの」とされるという約束になっている。
 教科書が何と書こうが評論家が何と言おうが、権利が自動的に保証されるわけではない。侵害者相手に不断の闘争をする以外に、権利を実現する方法はない。また、権利が法的闘争によって作られるという面もある。権利のために紛争を行うことは、自分自身に対する義務であると同時に、社会に対する義務でもある。

 とはいえ、現実の訴訟は社会のリソースの一部を使うことになるし、当事者のリソースも食われることになる。何でもかんでも訴えればいいというものでもない。

 さて、黒猫亭さんのところのコメントについて、少し補足を書いておく。

潜在的に訴訟に発展する可能性を常に有しているわけですが、勿論、実際の訴訟は無駄な公費を遣わない為に訴訟が成立しないような強引な提訴を門前払いするわけだし、無理矢理提訴してもまず負けることはないから「訴えられる」ということを過剰に恐れる必要はない。

 後半についてはほぼその通りなのだけど、前半については違う。法的救済の門戸を閉ざさないため、提訴するための敷居は相当低いし、門前払いされることは現実には滅多にない。

 前日のエントリで、ニセ科学批判のためのガイドラインを書いたが、それなりに機能しているとしたら、おそらく、ガイドライン通りにやると正当な論評の範囲に収まるから、という理由だけではない。宣伝中のニセ科学に対する批判が的確であった場合は、批判された当該表示について、業者自身も根拠となる資料を持っていないはずである。すると、仮に訴えたとして、裁判所で合理的根拠を示せなかった場合、敗訴だけでは済まず、不実証広告だとか優良誤認表示であるということを広く知らしめる結果になる。
 まあ、普通に見て科学として全く間違っていれば、合理的な証拠を集める実験やら調査やらを考えるコト自体が不可能なので、証拠は持ってないだろうという見当は付くことが多い。

 裁判だって、手札が悪いと多少技術が良くたってどうにもならない(ってか麻雀に似てるそうな。by絵里タン)。相手の手札が悪く、自分の手札が良い状態を維持することが、提訴を防ぐことにつながるのではないか。それでも、嫌がらせや八つ当たりの提訴を防ぐことができないので、この部分についてまで訴訟を怖がる必要はない。

 なお、年末から訴訟が増えているのは、やむを得ずそうなったに過ぎない。特に名誉毀損関係については、私はむしろ訴えない方である。提訴で言論と表現を萎縮させるよりは、ネット上の対抗言論で名誉の回復を図る方が健全だと思うからである。実際、吉岡氏が「水は変わる」を出た時から、それが私に対する名誉毀損文書であることを認識していながら、2年も何もしなかった。吉岡氏がお茶の水大を訴えたりしなければ、私も吉岡氏を名誉毀損で提訴することはしないつもりだった。また、削除要求に対する提訴にしても、吉岡氏がお茶の水大でなく私を訴えていたならば、特にする必要が無かったものである(∵訴えられるのをのんびり待っていればそれでよいし、訴えてくるとは限らないから)。

予防的に書くが、訴訟を嫌がらないこと

Posted on 1月 20th, 2008 in 倉庫 by apj

 黒猫亭さんのところで「反科学の情熱」という、ニセ科学批判批判を鋭く読み解くエントリーがあがった。ただ、書かれた時に、「私が既に告発を何回かされている」と勘違いしておられたようで、そのことについてコメントしたところ、違っている部分が速やかに削除となった。このため、元の黒猫亭さんの議論の流れが途中で一つ抜けることになってしまい、

社会闘争の次元に降りていくプロセスの理解において一過程見落としていたということですので、そちらのご考察を踏まえて、もう少し踏み込んで考えてみたいと思います。

とコメントされた。このことについて少し書いておく。

 これまでのところ、私はまだ刑事・民事ともに訴えられたことはない。ただ、「訴えてやる」と言われたことはある。製品の宣伝に使われている間違った科学を批判しただけでも、短絡的に「商売の邪魔をした」→「訴えてやる」と考える人は、まあ一定割合でいる。そういう人は、視野も考え方も短絡的であるからこそ、扱っている商品を間違った科学で飾り立てて平気で販売しているのだから、整合性はとれている。さらに、「訴えるぞ」と脅すと言うことをきくという人もそれなりに居るために、脅しが効果を発揮するということを既に学んでいたりする。ともかく、そういう短絡的なものの見方しかしない人のうち、本当に勘違いした人が訴えてくることも、まあ予想できる。
 私が批判した相手が意見を変えるだろうということは、特に期待していない。怪しい宣伝というのは、ネット上では複製による増殖をしているように見える。無知でか悪意でか、同業他社の宣伝を適当に持ってきて使っている人が相当居るということだろう。事業者として正しい情報を出そうなどということは最初から考えていないという態度が透けて見えている。こんな相手が、批判された位で態度を変えるはずがない。
 ただ、これからニセ科学言説が含まれた宣伝を見る人達、うさんくさいと思いながらも商品について検討している人達にとっては、科学的に正しい情報がわかれば、役立つこともあるかもしれない。
 怪しい宣伝を放置しておいたとしても、ただちにそれが科学として受け入れられることはないだろうが、その内容が本当かも知れない・調べるに値する何かがあるかもしれない、と思い始める人が出てくる。消費者がそう考えた場合は何らかの消費者被害につながっていくが、役人がそう思ってしまったら研究者の業界に直接影響する。どう見てもニセ科学なテーマがまともなテーマであると誤解されて補助金が出るいうことがあり得る。研究費のパイは有限だから、まっとうな科学とニセ科学が研究費のパイを奪い合う関係になりかねない。実際に、浄水器では全く意味のない遠赤外線効果に賞を出してお墨付きを与えた科技庁の例もあるし、全国各地で被害が発生して集団提訴となった節電器を推奨するコメントを出しているのは環境省である。こんな状況だから、批判する側だって、「訴えてやる」と言われた位で批判をやめる気は全くない。つまり、訴訟を無条件に嫌がったりしていたのでは、批判ができないことになる。

 利害が対立したときは、最終的には訴訟で決着をつけるしかない。他人の権利を侵害するものが全てダメかというとそんなことは無くて、正当な行為であれば不法行為責任を問われることはない。デマを流して店の売り上げを下落させれば不法行為とされるだろうが、近くに同種の店を開業して正当に競争した結果であるなら不法行為とされることはない。
 すると、科学的真実を述べて批判する時には、「訴訟になったとき、どこまでの表現ならば正当という判断になるのか」を常に考えることになる。下手な書き方や主張の仕方をして、科学的真実を述べている部分が不法行為認定されてしまったりすると、その後また別に裁判をやって判断をひっくり返すまでは、批判そのものが相当やりにくくなることが予想できる。
 ガイドラインとして、
・製品そのものに対する批判は試験をしてからでないとやってはいけない。
・公開された製品宣伝の内容については、誰が批判をしてもかまわない。∵一旦公表された表現内容については誰がどう批判しても自由である。
・批判の内容が、現行の科学に照らして妥当でなければならない。
・意見、論評の範囲を逸脱してはいけない。
といったことを基準としている。後は、個別具体的に表現内容を詰めながら、ぎりぎりの線を狙うのか安全側に振るのかというさじ加減をすることになる。紛争を発生させるよりも予防した方が、コストは安くて済む。
 当然、他人の権利を不当に侵害してはいけないので、誤爆してはいけないし、間違った内容を書いてはいけない。また、明らかな間違いについては速やかに訂正しないと、現実に提訴されて負けるリスクを背負うことになる。

 これまでのところ、訴えてやるという脅しはあったが、私に対する直接の提訴はまだない。お茶の水大が訴えられている件は、他にたくさん書いてある科学に関する議論の部分ではなく、原告の商売がマルチ商法である旨指摘した部分で起きている(それはそれで、弁護士は普通はこんなもので提訴はしないと言い、裁判官はどこが名誉毀損か説明が要る、つまり読んだだけではわからないと言っている始末だが)。この状況を見ると、一応、上記の基準は、訴訟に対しては予防的に働いているようである。
 裁判所で勝てる範囲で書くということは、すなわち、普通の弁護士であれば提訴するのが難しい内容であることを意味する。むやみに訴訟を呼び込む内容を書いてしまうと、裁判に時間と費用がかかってしまって損である。ただ、訴えてやるという脅しはいつでもあるし、実際に訴える人も居るので、訴訟を嫌がるべきではない。

 ニセ科学批判をする側にとっての役立つニセ科学批判批判とは、上記のガイドラインの精度を高めるような内容のことである。言説に対してニセ科学というカテゴリーを立てることがケシカランといった種類の議論は全く役立たない。表現の内容が正当かどうかは、現在の科学水準に照らしてどうかで判断されるし、意見・論評の範囲かどうかとなると、今度は科学ではなく判例を調べないとわからない。

 これが、社会闘争へのプロセスとして黒猫亭さんが考えていた部分を埋めることに役立つかどうかはよくわからない。ただ、これまでこんなことを考えながらやってきたということを書いてみた。なお、こういったことを「社会闘争」と呼ぶのは私が持ち合わせていなかった言葉の使い方というかセンスで、私は単に「紛争」とだけ認識している。

ノルマンディ上陸作戦のロケ(但し兵士役はたった3人)

Posted on 1月 19th, 2008 in 倉庫 by apj

 某MLで教えてもらった、表題の通りの映像のメイキングビデオ。
http://jp.youtube.com/watch?v=WRS9cpOMYv0
いや~すごいわ[:うっしっし:]

さすがに呆れ果てた

Posted on 1月 16th, 2008 in 倉庫 by apj

 昨日のエントリを書いたら、Seagul-Xさんが、コメント欄にて、Kumicitさんの「忘却からの帰還」というblogの「乗り遅れな気もするけど、merca論宅氏について考えてみた」というエントリを紹介してくださった。それを読んで相当脱力した上にぶち切れ寸前になったので、とりあえずここに書くが、これまでの議論の流れを知らない方にとっては何のことかわからない上に、ひょっとしたら気分を害するかもしれないことを、予めおことわりしておく。

 論宅さんのblogの一連の議論について、私はこれまでずっと、論宅さんが「脳内ニセ科学批判者」に対する批判を行っているのだと思っていた。しかしKumicitさんによるとそれは違っていて、本当の論敵はTheorySurgery氏であるという(The Black Crowes)。検討の経緯については上記blogを見ていただくとして、どうやら

あくまでも”疑似科学批判”一般ではなく、「特定の”疑似科学批判論者”たるTheorySurgery氏による”社会科学は疑似科学”という主張」がターゲット。従って、「社会学の方が、自然科学よりも科学的でありうる」ことを主張しているようだ。おそらく、”merca論宅”氏の念頭には、いわゆる”ニセ科学批判”などなかったと思われる。

ということのようである。

(以下、TAKESANさんのところに書いたコメントと重複します)

 そういえば、社会”科学”を擬似科学として批判するとか、”科学的”社会主義の擬似科学性を批判するという話は、ちらっときいたことがある。今につながるニセ科学言説へのツッコミを入れ始めた頃に「そんなものを批判するなら、なぜもっと重大な問題である”科学”を名乗る人文系の学説を批判しないのか」といった意味のことを言われたことを思い出した。あれは確かfjでだったか……。

 この手のツッコミについては、「優先順位問題」ということで既にカタがついている。優先順位の議論を始めたら最後、結局何もできなくなるのは明らなので、各自ができることをするしかない。ある特定の問題が重要だと思うなら、他人に要求したりせず、そう思う人が自分でやれ、ということである。要するに「言い出しっぺの法則」を適用しろということである。

 従来の擬似科学批判なら科学哲学のメタな議論やら、人文・社会学系の一部との論争が「決戦場」になっていたのかもしれない。ところが私は、主戦場というか決戦場としては、批判を始めた時から裁判所を想定していた。批判の内容が、社会科学云々ではなく、対悪徳商法と親和性が高かったからである。
 科学的真実を述べたものに対する提訴は非常にやりにくいことも確かだが、可能性はゼロではない。批判した結果として嫌がらせの提訴をされる可能性があることは最初から予想の範囲内であった。ただ、科学に関する表現について提訴された場合に、裁判所で勝たないとまずいだろうと考えていた。いずれにしても、非専門家に対して、科学の詐称について指摘した結果、誰かの利害に差し障れば、それは訴訟への道に続いていかざるを得ない。

 紛争になった場合には、メタな議論をいくらしたって裁判官を納得させるのは無理だから、論宅さんがやってるような議論というのは、私にとっては、はっきりいってどうでもいい代物である。口頭弁論で使えないから。それでも「科学を絶対視云々」という誤解を、世の中のうっかりさんに対して広める効果だけはしっかりあって、それは発生しがちな誤解であり、私がこの先誰かを説得する時に余分な一手間を発生させる方向に効くので、多少は対策せざるを得ない。

 今回は、それが単なる私怨によるものだという指摘があったわけで、論宅さんは「ニセ科学批判批判」を掲げつつ、実は私怨で、議論の大風呂敷を広げまくって、全く関係のない他人の活動の足まで引っ張っていたのかと、呆れると同時にキレかけた。

 「科学を絶対視」しているわけではない、科学は方法論だし得られた成果は自然の近似に過ぎない、揺るがない部分があるとしたらそれは自然観察の積み重ねによって支えられているからだ、ということを、どれだけ手間暇かけて専門家でない皆さんに説明してきたか、論宅さんは分かっているのかと小一時間(以下略)。

 論敵が実在しているなら、メタな議論などせず、名指しで堂々と批判しろ。当事者同士でトラバの打ち合いでもコメント合戦でも存分にやってろ。それができないなら最初から批判なんかするな。誰と誰の間の、何に関する批判なのかが読んで一目でわかるなら、私も、私がスルーするべき議論かどうかを直ちに判断できる。社会科学と自然科学のどっちが科学的かなどという種類の議論には、私は最初から関わるつもりもないし関わりたいとも思わない。ド下手くそなやり方で議論を敷衍して、こっちがやってる説得やら説明の活動にまで勝手に引っ掛かかって来るな。
 最初は、論宅さんは社会学の議論を試みているのだと思ったから真面目にコメントを残したりもしたのだが、私怨で他人の手間を増やすだけの傍迷惑な議論を平気でする人物という評価をするしかない。

 風呂敷を広げたんならさっさと畳んでくれ。邪魔だから。

【追記】
 つまり、論宅さんの行った批判は、「ニセ科学批判批判」ではなく、一般的な「ニセ科学批判批判」を装った、特定の「社会科学の擬似科学性を指摘する言説への批判」であったということになる。これを一言で言うとしたら「ニセ”ニセ科学批判批判”」とでも呼ぶしかないが、単語を見ただけではもはや何がなんだかわからない。
 無理目な議論だとは思うが、とりあえず定義してみる。半分シャレだが。
●「ニセ”ニセ科学批判批判”」
 ニセ科学(仮定義あり)に対する批判に対する批判という外見を装っているが、実はニセ科学に対する批判ではない別のナニモノカに対する批判や異議申し立てであったり、他人がうかがい知ることのできない個人的な理由や欲求を満たす目的を隠して議論をしているもの。
 定義からいって、他人からうかがい知ることのできない理由や目的というのは、議論を見ただけでは直ちにわからないものなのだから、他人の議論を最初から「ニセ”ニセ科学批判批判”」と決めつけることは、ポパーの言うところの反証不可能な主張となってしまうためお薦めできない。別に調べた証拠によって、欲求や目的の存在が明らかであるならば「ニセ”ニセ科学批判批判”」と判断してもよい。

「説」がどこにも見当たらない

Posted on 1月 15th, 2008 in 倉庫 by apj

 TAKESANのところの「論宅さんへ質問」というエントリーを見ていて笑ってしまった。

辛辣な批判ばかりで相手の説を自説に取り入れていないところが問題ですが、それは仕方ないことだと思います。批判の仕方も開かれていないということですね。(2008-01-14 15:46)

 以前に論宅さんのblogのコメント欄におじゃまして、具体的なことを述べて欲しい、その議論が何に基づいているのか具体例を出してほしいと言っても何も出て来なかった。それで、あきらめて最近はろくに見に行っていなかった。
 NATROMさんのところでも改めて指摘されている通り、以前、『「(科学を絶対視する)疑似科学批判をする論客たち」という言葉で誰を指しているのか、実名を挙げて頂けませんか』と言われて誰の名前を挙げることもできなかったのに、論宅さんは未だに「科学が絶対的な真理と思っているニセ科学批判者」の存在を仮定して議論を続けている。そんなありもしないものに基づいていくら議論を重ねたって結局は空想の産物でしかない。空想の産物を味わうのなら、良くできた小説として楽しく読みたいところなのだが……。
 ところで、個別のニセ科学について間違いを指摘する立場から見た「相手の説」というのは、科学の詐称そのものになるから、そんなものを取り入れたのではミイラ取りがミイラというかニセ科学の仲間入りをするだけである。
 「相手の説」=「論宅さんの説」ならば、この場合、「相手」と「説」の両方が間違っている。
 まず、「相手」について。私は最初、論宅さんのblogにおじゃました時、論宅さんを相手だと思って議論を始めたのだが、論宅さんは私の相手は全くせず、そのかわりに「ニセ科学批判者」という想像上の産物の相手ばかりしていた。そんなことをしておいて、今頃になって「相手の説を自説に取り入れない」などと言われても、「それ、相手が違いますから」としか言いようがない。
 次に「説」について。現実には存在しないものについて書かれた論説文をいくら重ねたって「説」になるわけではない。それは、論説文の体裁をとった創作に過ぎない。実際、読んでみてもこれが論宅さんの説だといえそうなものが全く見当たらない。これでは、「説を取り入れろ」などと言う方が無茶である。そもそも存在しないものをどうやって取り入れろというのだろうか。
 同じコメントにこんなのもある。

私の場合、正しいと思えば、ニセ科学批判者の見識を取り入れています。天羽さんのニセ科学の定義とかです。菊池さんが示されたグレーゾーンの問題もです。

 ニセ科学の定義(仮)やグレーゾーンの問題の議論を支えているのは、山ほどある個別の具体例である。論宅さんの主張を支えている個別の具体例は、全く見当たらない。論宅さんの説の根拠を示すのは論宅さんの役割のはずだが、全くできていない。
 具体例を出してわかるように説明してくれれば「説」の検討のしようもある(というかどれが「説」か推定する手がかりくらいは得られるはずだ)が、今のままでは、一体どこがどう「説」なのかがわからないので、対応のしようがない。

今年も鳥のねぐらに……

Posted on 1月 12th, 2008 in 倉庫 by apj

 宿舎の敷地内の木、またまた鳥のねぐらにされている。2,3日前から、夜中でも何かのきっかけで一斉にさえずり始める。去年と同じ鳴き声っぽいので、多分ムクドリだろう。去年は2ヶ月以内位でどこかに去っていったので、今年も多分同じような感じなのだろう。当分、夜中もうるさい状態が続きそうである。
 昨日の夜の雨が深夜から雪になって朝には少し積もっていた。夜になって、昼間融けたところが全部凍っていた。これで地面の温度が下がると、降ってもそうそう融けなくなりそうである。

もっと簡単な話なのだが

Posted on 1月 11th, 2008 in 倉庫 by apj

 社会学玄論の「ニセ科学批判の意味空間」にツッコミを入れてみる。NATROMさんのところでも、「ニセ科学批判者は科学を絶対視しているか?」というエントリーが上がったので、私のところでも議論してみる。

人によって科学の定義が異なるおそれもある。単に科学者による発言や発明品を全て科学と思う人もおれば、ニセ科学批判者のように科学哲学的な公準で厳密に考える人もいる。

 少なくとも私は科学哲学的な公準は採用していない。「科学を装う」については「通常人の常識で見ると科学(あるいは科学的根拠がある)と誤認することがある」という、むしろ法解釈の基準に沿ったものを提案しているし、「科学でない」については、「通常人」のかわりに「専門家」を想定して判断することになるだろうと考えている。「専門家の判断」がどのようなものになるかは、例えば公正取引委員会の景表法4条2項の運用指針を読むとイメージがつかめるはずである。

物理的リアリティ(対象と認識の一致)の世界では、科学が唯一絶対的な正しい真理であるという前提において、はじめて装おうことが意味をもつと考えられる。

 この部分は間違っている。「科学が唯一絶対的な正しい真理である」という前提は不要で、そのかわりに「科学とはどのようなものかという専門家の間での共通認識がある」が「その共通認識の全てが必ずしも通常人にまで共有されていない」という前提があればよい。

そして、ニセ科学批判も、科学の立場からなされるのならば、科学が唯一絶対的な正しい真理であるという暗黙の前提をもつことになる。

 この部分は間違い。「科学とは何か」ということについて、一定の合意があれば良い。グレーゾーンはあってもよいが、「これはどうやったって真っ黒だろう」というものについて合意がとれていればそれでよい。「これは真っ黒」と「専門家」なら誰でも判断するものを、「かなり白です」と敢えて触れ回るようなことをされた場合には、「それは違う」と言うしかない。

ニセ科学批判者たちが、なぜそんなに熱くニセ科学やニセ科学批判批判を批判するのか、その理由が釈然としないもどかしさを感じる。

 その程度のこともわからないのだとすると、おそらく、merca氏は自身の専門を相当軽んじているに違いない。
 例えば、○○工務店を経営して、マイホームを建てたいお客さんに、技術的基盤のある、防火耐震に気を配った設計施工をしていたとする。そこに、××工務店が出てきて「ウチなら同じ機能の家を□□工法でやるので10分の1の価格で」などと商売を始めたとしよう。□□工法はそれらしいパンフレットで宣伝され、素人目には良さそうに見えた。しかし、同じ機能を10分の1の値段で実現する□□工法があるという技術的根拠は、今の建設業の技術的完成度からみて、何一つ存在しなかったとしよう。○○工務店としては「□□工法にはこれこれの理由で根拠が無いから、確立した従来通りの工法をウチはお薦めします」と言うしかないのではないか。そのうち、「□□工法」に騙される人がたくさん出てきたら、今度は建設業界を挙げて「□□工法を騙る悪徳工務店にご注意!」と、消費者に注意喚起することになるだろう。
 工務店の例で書いたが、どの業界でも同じである。まっとうな商売をしているところに、粗悪品でぼったくる悪徳商法が進出してきたら、「最近は粗悪なものを売りつける商売が流行っているから気を付けて下さい」位の事は言うものである。粗悪品の流通を許したら、消費者も被害を受けるが、まっとうな商売をしている側だって大打撃を蒙る。
 自身の専門を重んじるのであれば、自身の専門が偽られて他人を騙すことに使われているのを見たら、注意喚起をするのが当然ではないか。

科学だけが正しいとは限らないという私のような相対的な認識をもっている者には不思議にうつるのである。科学が唯一絶対的な正しい真理と堂々と思っているから熱く議論するのであると正直に言えばいいと思う。ポストモダンが生み出した懐疑論者やニヒリストたちの前で、科学は文化を越えた唯一絶対的な真理であると単純にいうのは、恥ずかしいと思っているのかと思う。

 正直に言おう。自分が生業にしている仕事のイメージが悪いことに利用されているのを見たら、それを防ぐために注意喚起をするのは、人として当たり前のことだと思う。ポストモダンや懐疑論者やニヒリストだということが、自分の専門について、知識の差を利用した騙りが横行しているのを放置することを正当化するとは、ちょっと考えられない。

【追記】
 このあたりの厳しさは、職種によっても相当異なる。例えば、資格もないのに「債務の整理をしてあげますよ」などと持ちかけて怪しげな一本化をやったりすると、弁護士であることを騙らなくても、非弁活動ということで処罰される。インチキ債務整理屋が跋扈したら社会的弊害が極めて大きいし(大抵そういう商売はヤ○ザが絡んだりするし)、弁護士業界全体の信用にもかかわるから、この手のことをやったら最後、それはもう弁護士が腕によりをかけて熱心に狩り出して刑事と民事の両方できっちり責任を負わせてくれるはずである。
 これが科学者やら技術者になると、国家資格である士業ではないから、ニセ科学言説を振りまいた人が直ちに処罰されるわけではない。が、ニセ科学言説が広まるのを放置しておくと、科学や技術の業界と業界の提供するサービスの信用低下を引き起こすことは確かなので、専門家の側が「それはニセ」とはっきり言った方が望ましいだろう。

ツッコミどころ多すぎ

Posted on 1月 9th, 2008 in 倉庫 by apj

  Yahoo経由、スポーツ報知の記事より

「地図の上は北で下は南」??あきれた教師、分限免職
1月9日8時1分配信 スポーツ報知

 大阪市教育委員会は8日、特別支援学校の男性教諭(43)を教員として指導力不足で適格性に問題があるとして分限免職処分とした。この男性教師は、20年の勤務実績を持つベテランだが「三角形は一つの曲線と二つの曲線に囲まれる」「地図の上は北で下は南」、経線を「かけせん」と読んだりと、仰天授業を展開。1年間の校外研修を行ったが、改善が見られず、今回の処分が下った。

 中学校で社会科を約6年担当し、特別支援学校で14年勤務してきたベテラン教師が、トンデモ授業を行っていたことが、大阪市教育委員会の調査で判明した。

 調査によると、43歳の男性教師は、地図の読み方を説明する際、生徒に「上は北で、下は南」と見たままの?謎解説。山陰地方の「陰」の字も誤字で板書。指摘があって教科書を見ても、書けず、そのまま放置して先に進んでしまった。

 数学の授業では「三角形は一つの曲線と二つの曲線に囲まれる」と説明。経線を「かけせん」と読んだり、パソコンの授業では、的確な指示ができなかったことも。新学年になった時に、発注する教科書を前年度と全く同じものを頼んでしまう凡ミスもあった。

 特別支援学校では科目ごとの専任を置かず、幅広い分野を指導することが求められているというが、かなりの問題授業が常態化していたようだ。

 生徒や保護者からの訴えが続いたことで、事態を重く見た教育委員会では、昨年1月から1年間、模擬授業を行うなどの校外研修を行った。が、ここでも、助言や指導に対し「言い過ぎだ」「中傷だ」と声を荒らげ、逆ギレ。途中で席を立ったこともあったという。

 教育評論家の尾木直樹氏は今回の処分に関し「妥当でしょう。分限免職処分は認定が非常に難しく、裁判になることもあるが、これだけの証拠を集めたのは珍しいのでは?」と話す。

 「アルコール依存症、ヘビースモーカーで授業が手につかなかったりはよくある話。計算ミスを繰り返す、お経を唱えているような授業をする、というのもよく聞きます」。同氏によると、全国的に健常者の学校で問題が発生した場合、特別支援学校に異動させる人事が行われる傾向にあるという。

 分限免職処分は、地方公務員法第28条第1項第3号で定められており、懲戒免職とは異なり、退職金の受け取りが可能。大阪市では04年に3人の分限免職の処分者を出して以降、今回で4人目の処分となる。

 義務教育で非ユークリッド幾何は、幅広過ぎではあるわなぁ。地図については微妙な気が。矢印みたいな記号でどっちが北か示すことになっているが、大抵は上が北の地図が多いから、そういうのを指さして「地図の上は北で下は南」って私でも言いそうな……。
 しかし、その日本語能力でどうやって大学に合格したのかとか、どうやって単位を全部取って卒業できたのかとか、どうやって教員採用試験に合格したのかということの方が不思議だ。