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常識的な考え方の例

Posted on 11月 21st, 2008 in 倉庫 by apj

  msn産経ニュースより。ジャパンスケプティクスの安斎会長の記事。

疑似科学やオカルト… なぜ、だまされるのか? (1/3ページ)
2008.11.21 08:09

 霊視や前世占い、占星術といった「スピリチュアル(精神的な、霊的な)世界」がブームだ。それらを扱うテレビ番組は軒並み高視聴率を獲得し、ベストセラーになる出版物も多い。だが、中には疑似科学やオカルト現象を妄信し、だまされて被害にあう人もいる。科学の視点で批判してきた立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長の安斎育郎さんは「『思い込み』と『欲得ずく』が錯誤への落とし穴」と注意を呼びかける。(伐栗恵子)

■「欲得ずく」「思い込み」が落とし穴

 今月中旬に大阪市内で行われた関西消費者協会の講演会。安斎さんは趣味の手品を生かしながら、超能力やオカルト現象のトリックを暴いていく。

 例えば、スプーン曲げ。丈夫な金属のスプーンを指で軽くさすっているうちに、ぐにゃりと曲がり、客席からは驚きの声が上がる。だが、これは支点、力点、作用点をうまく利用しただけ。要領さえつかめば簡単に曲がるという。

 「目の前で自分の理解を超えたことが起こったとき、超能力と思わずに、なぜ、こんなことが起きるのか、と考えてほしい」と安斎さん。「人間は、だまされやすい」ということを肝に銘じるのが大切であって、一番危ないのは「私だけは、だまされない」という「思い込み」と指摘する。

 「あの人の言うことだから、本当だろう」という主体性の放棄も、自らの心をだます行為だ。「自分の目でしっかり確かめ、自分の頭で判断する習慣を」と呼びかける。

 不幸に陥ると、その原因を霊に求める人がいる。問題の根本的な解決にはならなくても、「悪霊(あくりょう)のたたり」などのせいにした方が心の平安を得られやすいからだ、と安斎さん。「霊は、人の不幸の消しゴム係」と絶妙の表現をする。

 もし霊が目に見えるのならば、霊そのものが光を発しているか反射しているはず。「たたる」には記憶や認識といった高度な仕組みを持った有機体でなければならない。霊を信じるかどうかは個人の自由だが、「科学的な意味では存在し得ない」と断言する。

 科学技術が進歩したこの時代に、人はなぜ、「スピリチュアル」にはまるのか。安斎さんは、それこそ、「なぜ」と問う力が弱まっているからだと嘆く。

 例えば、携帯電話やDVDの仕組みは、説明されても理解するのが難しい。科学が進歩したがゆえに、人は自分の理解の範疇(はんちゅう)を超えたものをそのまま受け入れてしまいがちで、それが超能力などを簡単に信じる傾向となって表れていると説明する。
 「ささいなことでも、『なぜ』と意識的に問い直してほしい。その背景には必ず理由があるのだから」

 さらに、“インチキ”を見破るには、「そんなことができるのなら、どうしてこうしないのか」と考えてみることが大切だと言う。

 スプーン曲げができるのならば、どうして金属加工技術として役立てないのか。そんな能力をもった人を生産ラインにずらりと並べれば、次々と金属加工が施され、たちまち製品が出来上がる。簡単に大もうけができる話なら、その勧誘員自体が大金を手にしているはずであり、そもそもそんなおいしい話を他人に教えるのか。「3週間で英語がペラペラになる教材」といった宣伝文句が本当なら、なぜ、その販売員はペラペラではないのか…。そう考える心のゆとりが必要だ。

 楽して得を取りたいという「欲得」と「思い込み」、それに「非合理的思考」が結合するとき、人はとめどもなく危うい「だまし」の深みにはまっていく、と安斎さんは警告する。

 楽して結果だけほしいという傾向を、紀藤正紀弁護士は「インスタント指向」と呼んだ。
 以前「ありがとう」というラベルで米がカビないという話が出てきた時は、「それが本当なら、どうしてコンビニのおにぎりの賞味期限ラベルのかわりにありがとうラベルが使われないのか?」とツッコミを入れた。
 「それが本当なら、もっとうまい利用方法があるのに、使われていないのはなぜか」と考えることが、欺されないためのストッパーになるかもしれない。

尋ねられたんで答えてみる

Posted on 11月 21st, 2008 in 倉庫 by apj

 わかった気がする……なぜ疑似科学批判の連中にイラッとするのか……に言及。

「鰯の頭も信心から」という諺である。
プラシーボ効果を許さないのか、と言い換えても良い。
実際に信心を持って、偽薬を薬と成した人に、
それは「薬ではない」と宣言して、その効果を打ち消すことが
果たして本当に正義なのだろうか?
疑似科学は、本当に悲劇しか齎さないのであろうか?

 その人個人が治ったのはそれでいいけど、他人に対して「信心で偽薬を薬と為しましょう」と誘うのはまずい。信心の仕方というか強さは人それぞれだし、偽薬で済む状態の人もいれば、信心+偽薬ではどうにもならない、それどころかできるだけ早く医者の手当てを受けないといけない人だっている。その人が偽薬を信じているなら、それは内心の問題にとどめておくべきである。誰かに向かってそのことを言えば、それに影響を受ける人が出る可能性があるから、その話はまずいよ、と言わなければならなくなる。
 今、批判されている人達は、blogに書いたとか、新聞や雑誌などのメディアに登場したとか、水伝のように他人に向かって授業をしたとか、少なくとも、「外から見てわかる」形で「ニセ科学を広める」行為をしている。
 逆にききたいのだけど、信心で偽薬を薬と為し、かつ、その信心を内心のみにとどめている人に対して、批判が行われると本気で思ってるのかなぁ。第三者から認識されない信じ方であれば、批判の対象にはならないはずなんだけど。

マイナスイオンのドライヤーを買って、髪の毛がサラサラになって少しかわいくなった気がする、勇気を出して家から出てあの人をデートに誘ってみよう!とキラキラした目をしている女性に向かって「いや、それ錯覚ですから! あなた不細工のままですから! 残念!」
と一刀両断することは本当に絶対的な正義なのか?

 「マイナスイオンは無関係の可能性が高いけど、髪の毛がさらさらになったのなら、いいドライヤーなんだね。良い買い物をしたね。行ってらっしゃい」

また、例えば、飲み会の席などで気になる異性に話しかけたいとしよう。うわべの会話でなく、相手の性格をもっと知りたい。そんな時に会話の端緒として「血液型、何型?」と訊くのは、これだけ血液型に対するコンセンサスがある日本では、実際にかなり有用なことである。
「○○ちゃん、何型? そうなんだ、××な性格って言われない?」
「えー、うち、そんなことあらへんよう……けっこう、落ち込みやすい性格やと思ってるんやけど……」(ぼくが萌えるので便宜的に関西弁風女子とさせて頂いた。意味はない)
そこからフォローするなりアドバイスするなり裸で向き合い本当の性格をキャストオフさせてあげるなりワンナイトカーニバルを決めるなりはあなたの腕の見せ所だ。
少なくとも「血液型何型?」と訊かれて「そんなのは疑似科学なんだ。それよりアインシュタインがどうやってブラウン運動からアボガドロ定数を求めたか知ってる?」と返すよりは仲良くなれるだろう。

 私は女だけど、で、飲み屋で口説かれる可能性はまずないけど、男性から「血液型、何型?」と訊かれたら、コイツ大丈夫かいな、と思うだけだが。まあ、これだけ血液型に対するコンセンサスがあるし、その場で喧嘩をするのも大人げないと思ったら、「社会性」の範囲で適当に合わせるだろうが……。

「嘘も方便」こういう諺もある。
差別に使われるかもしれない。でも人を救うこともあるかもしれない。実際、血液型云々は、会話の潤滑剤として現代の社会ではまだ充分に有益なものなのである。

 それ、血液型が原因で会社に採用されなかった人の前で口に出せるの?現実に差別されている人の前で「社会ではまだ充分に有益」などと主張するなら、科学云々以前に、人間性を疑う。
 「嘘も方便」の意味を激しく間違ってるのでは。

普通の人はまず「言葉」から理解しようとする。
人を説得するなら説得するなりの、言葉や態度というものがあるのだ。

 で、血液型で差別された人が「社会ではまだ充分に有益」で納得するか?私には、「おまえが言うな」としかコメントのしようがない。

「信じるだけ」って前提が意味をなさない

Posted on 11月 21st, 2008 in 倉庫 by apj

 「信じる自由は内心の自由」でも書いたのだけど、もうちょっとわかりやすい例で。

 あるニセ科学言説に対する批判は、それが他の人の目に触れる(例えばblogに書かれて私が読める状態になっている)から可能になる。どこにも書かれていない、ある人が心の中だけで信じているニセ科学言説は、他人の目に触れることがないから批判されることはない(現実問題として批判は不可能)。
 すると、ネットで時々出てくる「ニセ科学を信じるのは個人の自由」という主張は、批判がネット上にある言説に対して行われている場合には成り立たない。ネットで批判の対象になっているということが即ち、「信じる」だけにはとどまっていなかったということだからである。
 「私は「水からの伝言」を信じています」とblogに書いただけで、他の誰かに対して薦めるようなことは何一つ書いていなかったとしても、何を信じているか「書いて他人が読める状態にした」行為は「信じる」行為とは別である。

 たとえば、私の知り合いに○川△郎という人が居たとして、私が個人的に○川△郎に対し「スケベ、変態、金にルーズ。幼女のヌード好き。あの様子じゃ職場で使い込みとかもしてるよなきっと。脱税だって………(以下略)」などと思っていたとしよう。私が内心でそう思っているだけなら問題はない。客観的事実と一致してなくたって、ただの個人的偏見に過ぎない。まあ、○川△郎を避けたり、見る目がきびしくなったり、よそよそしくなったりはするだろうが。
 しかし、「………(以下略)」の内容をたとえばここのblogに書いたら、名誉毀損やら侮辱やらで、刑事でも民事でも責任を問われる。ここを見に来ている人だって「その書き方はあまりに品位がない」「違法」等というコメントを残すだろう。

 単に「ニセ科学を信じる自由」と、実際にネット上で批判が行われているという状況の違いは、「………(以下略)」ををせいぜい個人用の日記帳に書いてそのへんの本棚にでもしまっておくことにしたか、「………(以下略)」をblogに書いて広く人目にさらしてしまったかの違いと同じである。

 「公然性」を持ってしまった時点で、個人的に信じる自由の範囲は越えてしまうということである。越えた分については、他人に影響を及ぼしうるので、批判なり議論なりの対象になっても仕方がない。

【注意】
 文中の○川△郎は、架空の登場人物であり、現実に似た名前の人が存在しても全く無関係です。うかつに○や△の所に甲とか一とかを入れてしまうと、偶然、実在の人物の名前に一致したとき、大変失礼なことになると思い、絶対存在しない名前っぽいものを書きました……ってそこ、○や△に穴埋めするんじゃない!!^^;)

探索中:手品の本

Posted on 11月 20th, 2008 in 倉庫 by apj

 タイトルも出版社も失念してしまったのだが、確か数巻セット、1巻がそれなりに分厚かった手品の本を探している。
 20年くらい前に、神田の交差点から水道橋駅に向かう道に面した小さな本屋で売っているのを見かけた。同じ頃、東京ディズニーランドの土産物売り場のマジックの種とかを売ってるところにも置いてあった。当時は貧乏で買えなかったのだが、そのうち、と思っているうちに何だったか忘れてしまった。本には、日本図書館協会選定図書と書いてあった。
 どなたかご存じないでしょうか?教えて頂けると嬉しいです。

【追記】
 ターベルコースという高価なシリーズがあると教えていただきました。金額と装丁を見た限り、どうもこれらしいです。いろいろ情報をくださった皆様、ありがとうございました。昔から一度読みたかったものなので、ちょこちょこ買っていきたいと思います。不器用なので手品の習得を目指してもまず無理でしょうけど。

元厚生事務次官のところが襲われた件

Posted on 11月 19th, 2008 in 倉庫 by apj

 Yahoo経由産経の記事

しかし、現在のところ、テロ事件で犯行を誇示するために容疑者が報道機関へ送る声明は届いておらず、インターネット上での予告も確認されていない。

 誇示するのは自己満足だったりプロパガンダのためだろうから,実行して終わりだという犯人なら声明は出さなさそうな。

 作家の江上剛氏は「犯人への怒りは禁じ得ないが、もしテロなら、政治不信、官僚不信が極まれりということではないか。昭和初期の血盟団事件のように、世直しと称して『官僚一人一殺』という形で動く組織が現れたのかもしれない」と話した。

 これからのテロは、組織じゃなくて「個別の11人」だという方がむしろしっくり来るんだけど(「我々は個別の11人。ここで我々が倒れようとも、個別の自我が我々の意志を引き継ぐ。よって我々にとって死は意味を持たない。」攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG)。連帯するのも徒党を組むのも、昔に比べると流行らないし。
 izaの記事には細かいツッコミを入れたくなった。

 ある職員が「恨まれるとしたら、心当たりが多すぎる」というほど、最近の厚労省への世間の風あたりには激しいものがある。直近1年だけでも、吉原さんと山口さんの経歴が重なる年金問題の不祥事にとどまらず、薬害C型肝炎、医師不足、後期高齢者医療、派遣労働者問題…。所管するあらゆる分野が、国民の大批判を浴び続けている。

 問題が噴出するたびに舛添厚労相が直属のプロジェクトチームを立ち上げて、対応策を検討するが、批判は収まらない。

 検討する*だけ*だったからってオチでは?さっさと実効性のある解決策を出して実行していれば大批判だっておさまると思う。問題が起きてるのにしつこくいつまでも認めようとしないという態度が余計に反感をかっているんじゃないかと。

 特に仕事で失敗してなくても経営者の都合で簡単に切られる派遣と、仕事で大批判されても平気で昇進してるっぽい官僚の身分保障を比べると、「殺す以外に官僚をクビにする方法が無い」という考えを抱く人が出てきてもおかしくはない気がする。「死が二人を分かつまで」で結婚して離婚を認めないと、妻殺し夫殺し以外に別れる方法がなくなるというのと同じで。逆に、政治家は落選させればそれでクビにできるから、テロの対象にする必要がなくなる。かなり嫌な発想だけど。

信じる自由は内心の自由

Posted on 11月 18th, 2008 in 倉庫 by apj

 TAKESANさんのところのエントリー経由。lifecrack – Blogの「ニセ科学を信じることを許してはならないか?」について。

「ニセ科学を信じること」や「ニセ科学を信じることや、ニセ科学を信じている人を『まぁ、害がないなら良いんじゃないの』と許容すること」それらは許してはならないことなのでしょうか?

 向こうにもコメントを残して来たのだけど、こちらでもまとめておく。
 ニセ科学の害は、ニセブランド品の害と同種のものだし、向こうの例に出ている偽札の害とも同種のものである。つまり、他人に「流通させる」(結果として影響を及ぼすことまで含む)のがまずいのである(刑法の通貨偽造の話とはちょっと違うが、それはそれとして大雑把に言えばだけど)。
 だから、「信じる」が、あくまでも個人の内心のみにとどまっている限り、害が発生したとしても他人には及ばない。また、内心のみにとどまっているのであれば、第三者からは、その人がニセ科学を信じているかどうかがわからないため、批判の対象になることは考えがたい。
 しかし、信じているニセ科学の内容に基づいて何らかのアクションを起こせば、他人に被害をもたらす可能性が常にある。他人に話せば「流通」させたことになる。例えば怪しい治療法を優先して病気を悪化させれば、一番苦しむのは本人だとしても、周囲にだって影響は及ぶだろう。そして、アクションを起こせば、その人がニセ科学を受け入れているということを、第三者から認識することが可能になる。
 このように考えると、「ニセ科学を信じている(ことが第三者からわかる)」場合には、程度の差はあるとしても「害がない」とはならないだろうということがわかる。
 第三者の視点から見た場合、上に引用した言明はそもそも成り立たないのではないだろうか。

ヴィトンのバッグに置き換えろ

Posted on 11月 17th, 2008 in 倉庫 by apj

 chnpkさんの「科学とニセ科学の違いってそんなに重要か?」「宗教と科学と疑似科学とニセ科学について」に言及。

宗教も科学も、人間にあたかも世の中に客観的な真理があるかのように思わせる手段に過ぎない。

 科学には客観性があるけど、自然の「近似」であって「真理」ではない。それも、大勢の人が莫大な手間と資源をつぎ込んでどうにかこうにか今の精度にまで持ってきた近似。

私の認識では巷に溢れかえる擬似科学批判は単なる科学信仰に過ぎない。

 そりゃ、認識が甘い。他の人はともかく、私の場合は対悪徳商法の面がかなりある。 

非<環境>であるところの不確実で未決定な<世界>の中にあって、我々は、<世界>を確定させる客観的な事実であったり、秩序を欲する。それが神や科学ではないか。

 科学はあくまでも「近似」だから、もっと確かなものが欲しいと思った人が神の方へ行くのだろう。 さて、本題。「科学」を「ヴィトンのバッグ」に置き換えて考えると、議論のどこが変かがよく分かる。後半三分の1あたりでやってみる。

我々のあるべき振る舞いとしては、個別の情報について科学的な検証を行うことではなくて、むしろ科学的な無知に開き直ったうえで信用に値する人物や権威を道徳によるなり利害によるなりして見極め、そこから生じる情報を自身の利害に基づいて利用することを選択する以外にはありえないのではないか。そして、そうした態度を選択した場合において、科学と疑似科学の間の科学的な区分は、まったく重要性を持たない。これこそが、前回のタイトルに込めた意味であって、科学と疑似科学(と宗教)の区別に固執する意味が「わからん」と述べた趣旨である。

 個別のバッグが正規なヴイトンの工場を出たかどうかなんて、店頭で見て買うだけの我々にはわからないから、売っている百貨店のネームバリューとか、既に購入した信頼できる友人の口コミによって見極め、バッグを買うかどうかを選択する以外にありえないのではないか、ってことだな。確かに、バッグを買うにはそうするしかない。だからといって、「正規品のヴィトンのバッグとニセヴィトンのバッグのブランド品としての区分は全く重要性を持たない」とは、普通は思わないんじゃないの。「知らぬが仏」って言うけどさぁ……。

しかしよく考えればすぐ分かることだが、この一見すると完全に見える「ニセ科学批判」は、「悪意」という道徳的区別を準用しているに過ぎない。ここでも脱魔術化による魔術的な負担を魔術的に免除しているわけだ。

 ニセ科学の批判なんて、ニセヴィトンのバッグを売るなと言うのと変わらないわけだから、「ここでも脱魔術化による魔術的な負担を魔術的に免除している」なんてわけのわからない話じゃないでしょ。

この「ニセ科学」という概念の存在自体を、科学の危うさを示すものとして捉えることが可能だ。これが私の「疑似科学批判に対する批判」における2つ目のポイント、即ち科学に対する過剰な絶対視の傾向とその危険性である。

 ニセブランド品というカテゴリーの存在自体を、ブランド品の危うさを示すものとして捉えることが可能だ、と書き直せば、えらくナンセンスな話になる。ニセブランド品を批判することの背後に、正規のブランド品に対する過剰な絶対視の傾向があるかとか、危険性があるかとか、ちょっと考えてみればそんなのは違うというのはすぐにわかるだろう。別に普段からブランド信仰してなくたって、「たまにはちょっと高いけどブランド品を買うか、丈夫で長持ちとか使い勝手がよいということで定評があるしなぁ、でも、できれば少しくらいは割引があるといいなあ」などと思ってショッピングに出かけた先で、見た目ブランド品だけどパチモンである確率は結構高いよ、なんてことになってたら私は嫌だ。

上のニセ科学という言葉の定義が示唆する危うさとは、つまり科学的基準と道徳的基準の混同である。ニセ科学という恰も科学的な用語が、実のところは悪意という道徳的な基準に過ぎないと言う構図は、まさにそれ自身がニセ科学的ですらある。このニセ科学というパラドクスは、ニセ科学の対立概念が科学であるかのような錯覚を引き起こすことで、人々に科学を善と捉えることを可能とさせる。

 ニセヴィトンのバッグを作って売りさばくのは倫理的に悪だけど、正規のヴィトンのバッグを売っているという事実は別に善とは結びつかない、ごく普通の商行為に過ぎない。「ニセ○○」はニセだから悪なのである。○○がヴィトンのバッグだろうと科学だろうと。 じゃあ、何で倫理的に悪なのかというと、これには2つの面がある。
 1つは、他人の努力にただ乗りするという点。ブランド品も科学も、これまでに人の努力によって良くしてきたものだ。ブランド品のバッグであれば、耐久性やデザインなどで他社とは違った価値を生み出した。科学は、先に書いたように自然の近似に過ぎないが、それでも、近似の精度を上げるために大勢の人が努力してきた。その結果として、ブランド品は品質に定評があり、科学は近似の精度に定評がある状態になっている。ニセブランド品を作って売ったり、ニセ科学を広めたりする行為は、他人の努力によって築き上げられた信頼や定評といったものを、そうではない粗悪なものも同じだと広く誤解させることで、横からズルをしてかすめ取る行為に他ならない。
 もう1つは、判断のコストを上げるという点。ブランド品を買いに行ったらパチモンが出回っているような状態では、消費者が各自で多大な手間をかけて調べないと、本物を買えない。しかし、人は、あらゆることに十分な手間をかけられるわけではない。ブランド品=精度のよい近似である科学、で判断することができれば、社会全体として判断のコストを下げ、かつ、正しい判断をすることができる。ニセ物の横行を放置しておくというのは、判断のコストを広く一般に押しつけることになる。

こうして生まれるのが科学信者であって、彼らは非科学的なものやそれを信じるものを批判し、<科学的に>啓蒙する行為のなかに善を見出す。当然、上で述べたように我々が出来ることといえば信じることくらいなので、<科学>を信じることも可能なわけだが、それを絶対視し、妄信することにはあまり賛成できない。それは、この<世界>において太古の昔から絶えることのない宗教戦争や、文明化の旗印のもとで公然と行われた植民地主義と大差ない行いだからだ。

 科学者だって、ヴィトンのバッグを買いに行く時は目利きじゃない。自分がヴィトンのバッグを買いに行った時に「パチモンが横行してますが何か?」って状態になってたら、分かる奴ちょっと来て何とかしろ、と思うのが普通だろう。私としては、安心してヴィトンのバッグを買い物できる社会に住みたい。だから、私の方も、安心して科学の内容を正しく知ってもらうために、ニセ科学はニセ科学だとはっきり区別して、パチモンを広めるなと言いまくることにする。ま、今回はヴィトンのバッグを例にしたけど、他の「商品」、例えば経済学とか政治学について知りたいと思った時に、ニセが大流行している状態が放置されているのはやっぱり困るので、そっちはそっちで分かる人が何とかしてくださいよ、それが相互扶助の精神ですよってことで。

 ニセ科学の判定についてどういう基準を立てるかということについては、旧blogのエントリー「ニセ科学の定義と判定について考える」が消えてしまっていたので、編集して再度公開した。
ニセ科学の定義と判定について考える
ニセ科学の定義と判定について考える(つづき)

理解しないという対応

Posted on 11月 17th, 2008 in 倉庫 by apj

 狐の王国の「似非科学対策としての「なんちゃって理解」を実現できないか」を読んで。

 実は、昨日の講演の最後で、「理解しないで済ませる」というのを話してきた。
 大抵のインチキ宣伝は、「ニセ科学で分かりやすく説明→ものすごい効果があって大変お得」や「ニセ科学で分かりやすく説明→今すぐ買わないととっても損(今のままだと病気になる、などという脅しがセットになっていたり)」という形をとっている。これに対抗するには、「みんな(向こう三軒両隣とか親戚筋とか職場の仲間とかマイミクさんとか)が使い始めて評価が決まるまで、半年か1年待て」が有効である。
 ダイエット法だとこんな具合だった。大評判になった朝バナナダイエットや納豆ダイエットは、1ヶ月くらいで終息した。健康被害を出した白インゲン豆ダイエットは、すぐに飛びつかずに様子見していれば、誰かが中って危険なものだとわかったはずだ。健康雑誌に出てきたあまたの健康食品で、長期に渡って生き残ったものはごくまれである。
 ニセ科学で来ようが科学で来ようが、慌てて飛びつかなくても消費者はほとんど損をしない。ってか慌てて飛びついて損をする場合の方が多い。だから、ややこしい科学もニセ科学も理屈はともかくとして、みんながどうするか、半年から1年様子を見ようよ、というのが、考えたり理解したりしなくても済む対応である。商品が本物なら、半年1年経てば、良いものになったり値段が下がったりして一層お買い得になる。危険を煽るだけのニセ物なら、待っていれば勝手に消えていくから買わなくても済む。
 早い話が、他人を実験台にして使用実績を見て判断しよう、ということである。流行が始まったばかりの時は、飛びつく人が多いかもしれないが、そういう人は、本物でなければいずれ飽きてしまう。半年後1年後にすっかり忘れているようなら、理屈はともかくその商品は大したことがなかったという結論が出る。
 消費者の全員がこの戦略をとると、何だか、合成の誤謬になりそうだ。しかし、世の中の「慌て者」がゼロになることはないだろうから、最初のテストは慌て者に任せて、残りの人はみんなでのんびり様子見するというのはそんなに無理な話ではない。これで100%ニセを却下できるというわけではないが、それなりのフィルタリングは可能ではないか。
 科学を勉強してニセ科学を見抜くことの費用対効果を感じられない人や、科学が権威ぶってて気にくわないという人には、プロの科学者としては、この「ぐうたら戦略」をとることを薦める。

 本当は、このテスト役はプロの科学者が務めるはずだったんだけど、わかりやすいニセ科学の方が良いという人や、ニセ科学の方を商売に使いたいという人や、無意味に科学を敵視する人が増えてくると、そんならうまいことお互いにテストし合う方法を考えようや、という解決策だって考慮に入れておかないと、苦労ばっかり増えそうな気がする。

山辺町立鳥海小学校・中中学校で講演

Posted on 11月 16th, 2008 in 倉庫 by apj

 山形県内の山辺町立鳥海小学校・中中学校で講演で、科学リテラシーについて講演。
 山の上の方にある小さな学校で、体育館をはさんで小学校と中学校の校舎が隣接している。理科室、音楽室、技術室、家庭科室、運動場などは小中で共同利用。1学年の人数が3人とか4人なので、小学校の教室は、1,2年生、3,4年生、5,6年生に分けて3つしかない。
 毎年、近くの田を借りて田植えをして餅米を作っていて、今日はその収穫祭のイベントだった。講演は、学校近くの公民館で午後からなのだが、校長先生に、収穫祭にも参加しては、と誘っていただいたので、午前中から見せていただいた。
 私が行った時は、PTAや地元のおじさんおばさんたちが学校に集まり、湯を沸かして米を蒸し、餅つき作業に入るところだった。何でも、今年は草が大量に生えて、草取りが大変だったそうで……。体育館に集合して、餅と雑煮をいただいた。餅は、小豆あんをまぶしたものと、納豆をまぶしたものと、ずんだの粉をまぶしたものが出た。他所では大豆のきなこを使うところが、山形ではずんだの粉になっていた。また、納豆と混ぜた餅を食べたのは生まれて初めてだったが、よく合っていて美味しいので驚いた。
 生徒さんたちはみんな楽しそうだし、地域の人達が協力的で、学内外が一体となって教育に関わっていることがわかった。街の大きな学校ではなかなか難しい部分が実現している。
 春からずっと稲を育てる努力をしてこられたところ、私は結果としておいしいところだけ参加したようで少々恐縮なのですが……ごちそうさまでした>皆様。

 講演内容は、水からの伝言とゲーム脳について、教育現場に入り込むニセ科学の例として話をした。その後、科学はなぜ必要か、といったことを簡単にまとめた。小学校1年生から中学校3年生までと、保護者や先生方が対象なので、普段よりゆっくり話をしたり、スライドにふりがなをつけたりといった対応をした。でも、小学校低学年には難しい話だろうなぁ^^;)。

 先生から、「道徳の説明で、”蜘蛛の糸”を例にしたり、”ウソをついたり悪いことをすると地獄に行くよ”と言ったりするのは、科学的に立証されていないからいけないのか?」という質問が出たので、「例え話であるとはっきりわかるのなら問題がない」と答えた。「蜘蛛の糸」で起きたことが科学的に立証されたからあの話は正しいとか、地獄に行くことが測定してわかったからウソをついてはいけない、などと言えばたとえ話の範囲を逸脱してニセ科学になってしまうが、常識的に考えて、科学と誤認するような内容でなければ、ニセ科学として問題になることはない。また、「水からの伝言」は「科学的に立証されていない」というものではなく、大した根拠もなしに「通常の科学を広範囲に全否定する内容」だから客観的にまずい。一方、たとえ話がたとえ話である限り、科学を広範囲に否定する効果は通常は発生しないから、その意味でも問題はないので、あとは、内容が道徳として適切かということだけ考えればよい。

ホンダにはお世話になってるのでね

Posted on 11月 14th, 2008 in 倉庫 by apj

 大阪のひき逃げ事件について、産経msnの記事がひどい件。

大阪ひき逃げ 押収車は黒のワゴンタイプ 20代従業員の所在不明
2008.11.4 23:40
このニュースのトピックス:交通事故
 大阪市北区梅田の交差点で堺市東区の会社員、鈴木源太郎さん(30)が車にはねられ、約3キロ引きずられて死亡したひき逃げ事件で、曽根崎署捜査本部が大阪市此花区内が発見、押収したのは黒いワゴンタイプの車だったことが4日、わかった。
 車は同区の建築会社社長の所有で、普段は複数の従業員が使用していたが、うち20代の従業員が発生当日の10月21日から出社せず、所在不明になっていることが判明。捜査本部はこの従業員が事情を知っている可能性もあるとみて行方を捜している。
 また、この従業員は発生から数日後、「会社を辞めます」などと書かれた手紙を同社に郵送していたこともわかった。
 捜査本部は、これまでの調べや目撃証言などから、鈴木さんの遺体が見つかった福島区吉野を起点に、逃走方向とみられる同区や此花区で「黒いワゴン車」を1台ずつ調べる「車あたり」を実施。今月1日、建築会社が借りている此花区内の駐車場で不審な車が止めてあるのを発見した。
 車の底部には人を引きずった際に付くような傷など不審な点があり、捜査本部は車の任意提出を受け、車内や外装、傷などを検証。車は事件後も同社で使用されていたとみられ、駐車場には普段通りに止められていたといい、慎重に捜査している。
 これまでの調べで、犯行車両の可能性のある黒いワゴン車が、遺体発見現場から南西の此花区内の複数の防犯ビデオに写っていたことがわかっている。今回押収された車両は、当初言われていた「ホンダ・オデッセイ」とはメーカーが異なるが、よく似たタイプだという。

 防犯カメラの悪い画質の画像しか証拠が無かった間は「ホンダ・オデッセイ」と特定企業と特定車種を堂々と報道しまくったくせに、押収済みという、ばっちり車種もメーカーも特定出来る状態になって、トヨタのイプサムとわかったら、「メーカーが異なるが、よく似たタイプ」ってごまかすのは一体どういうこと?しかも、「似てただけ」の「ホンダ・オデッセイ」はもう一回書いてネガティブキャンペーンしてるし。ホンダには濡れ衣をいくら着せてもいいけど、トヨタの悪口は言いませんっていう意思表示と受け取ってOK?