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「信じるだけ」って前提が意味をなさない

Posted on 11月 21st, 2008 in 倉庫 by apj

 「信じる自由は内心の自由」でも書いたのだけど、もうちょっとわかりやすい例で。

 あるニセ科学言説に対する批判は、それが他の人の目に触れる(例えばblogに書かれて私が読める状態になっている)から可能になる。どこにも書かれていない、ある人が心の中だけで信じているニセ科学言説は、他人の目に触れることがないから批判されることはない(現実問題として批判は不可能)。
 すると、ネットで時々出てくる「ニセ科学を信じるのは個人の自由」という主張は、批判がネット上にある言説に対して行われている場合には成り立たない。ネットで批判の対象になっているということが即ち、「信じる」だけにはとどまっていなかったということだからである。
 「私は「水からの伝言」を信じています」とblogに書いただけで、他の誰かに対して薦めるようなことは何一つ書いていなかったとしても、何を信じているか「書いて他人が読める状態にした」行為は「信じる」行為とは別である。

 たとえば、私の知り合いに○川△郎という人が居たとして、私が個人的に○川△郎に対し「スケベ、変態、金にルーズ。幼女のヌード好き。あの様子じゃ職場で使い込みとかもしてるよなきっと。脱税だって………(以下略)」などと思っていたとしよう。私が内心でそう思っているだけなら問題はない。客観的事実と一致してなくたって、ただの個人的偏見に過ぎない。まあ、○川△郎を避けたり、見る目がきびしくなったり、よそよそしくなったりはするだろうが。
 しかし、「………(以下略)」の内容をたとえばここのblogに書いたら、名誉毀損やら侮辱やらで、刑事でも民事でも責任を問われる。ここを見に来ている人だって「その書き方はあまりに品位がない」「違法」等というコメントを残すだろう。

 単に「ニセ科学を信じる自由」と、実際にネット上で批判が行われているという状況の違いは、「………(以下略)」ををせいぜい個人用の日記帳に書いてそのへんの本棚にでもしまっておくことにしたか、「………(以下略)」をblogに書いて広く人目にさらしてしまったかの違いと同じである。

 「公然性」を持ってしまった時点で、個人的に信じる自由の範囲は越えてしまうということである。越えた分については、他人に影響を及ぼしうるので、批判なり議論なりの対象になっても仕方がない。

【注意】
 文中の○川△郎は、架空の登場人物であり、現実に似た名前の人が存在しても全く無関係です。うかつに○や△の所に甲とか一とかを入れてしまうと、偶然、実在の人物の名前に一致したとき、大変失礼なことになると思い、絶対存在しない名前っぽいものを書きました……ってそこ、○や△に穴埋めするんじゃない!!^^;)