Feed

左巻さんblog移転

Posted on 3月 7th, 2009 in 倉庫 by apj

 左巻健男さんがblogをはてなで再開したようです→「左巻健男の今日もガハハ
 doblogが不調なので仕方ないでしょう。相変わらず、doblogは去年の8月までの内容で止まってしまっています。

法も条約も無限のサービスの実現を要求してはいない

Posted on 3月 7th, 2009 in 倉庫 by apj

【追記と注意】
 この件についての考察を進めた結果、このエントリーを書いた時とは異なった理解に至ったので、こちらを見て欲しい。

 こちらのblogのトラックバックの受付が、ソフトの不具合か設定ミスなのか、うまくできないようなので、重ねて書いておく。地下に眠るMさんが、児童の権利条約や教育基本法を持ち出してあれこれ言っているけど、議論の精度が悪いと思われるので、少し前提と論点を絞っておく。
 まず、
児童の権利に関する条約
教育基本法(文部科学省のサイト。ここから条文pdfファイルが読める)
が、地下に眠るMさんが主張の根拠としたものである。

 さて、条約の28条には、

第28条1 締約国は、教育についての児童の権利を認めるものとし、この権利を漸進的にかつ機会の平等を基礎として達成するため、特に、
(a) 初等教育を義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとする。
(b) 種々の形態の中等教育(一般教育及び職業教育を含む。)の発展を奨励し、すべての児童に対し、これらの中等教育が利用可能であり、かつ、これらを利用する機会が与えられるものとし、例えば、無償教育の導入、必要な場合における財政的援助の提供のような適当な措置をとる。
(c) すべての適当な方法により、能力に応じ、すべての者に対して高等教育を利用する機会が与えられるものとする。
(d) すべての児童に対し、教育及び職業に関する情報及び指導が利用可能であり、かつ、これらを利用する機会が与えられるものとする。
(e) 定期的な登校及び中途退学率の減少を奨励するための措置をとる。

 とある。

 高校の教育を問題にしているので、(b)(【追記】及び (e))について考えればよい。
 日本では、既にかなりの数の、税金の補助で授業料を安くした公立高校が存在する。(b)の前半部分は既に実現している。
 さらに、どの地方自治体も、経済的に進学が困難な人に対する授業料免除を行っており、実際にそれなりの数の利用者が居る。その基準は、例えば、北海道教育委員会の例だと、

生徒の家庭が次のいずれかに該当する場合、授業料や寄宿舎使用料の免除が受けられます。 (1) 災害や火災等に遭い、授業料等の納付が困難になった場合
 (2) 生活保護法による生活保護を受けている場合             
 (3) 生徒の保護者等が、交通事故により死亡又は後遺障害により、授業料等の納付が困難となった場合
 (4) その他特別な理由により、授業料等の納付が困難となった場合

 となっている。おそらく他の地方自治体も、類似の基準で運用しているはずである。これは、(b)の「例えば」以降の部分にあてはまる。
 従って、日本の公立高校の設置数・運営の状況と、金銭的な補助のあり方は、既に4条1項(b)を満たしていると考えられる。

 ところで、地下に眠るMさんが支持しているのは「授業料が払えるのに故意に払わない人にまで、高校生としての身分を保証すべき」ということらしいが、条約4条1項(b)からそこまでは導き出せない。
【追記】
 では、故意に授業料を払わない人に高校生の身分を保障すべきということが、4条1項(e)から導けるかどうかが、次の問題となる。
 貧困を理由に中途で退学しなくても良いように、経済的援助するしくみを作っているのだから、制度的には(e)も満たしていると言える。運用で(e)を満たすとしたら、登校については欠席しがちな生徒の事情を訊いて相談にのるとか、出席日数が卒業要件であることを徹底させるといったものになるだろう。これは、普通の高校ならやっているはずである。中途退学については、学費納入が滞っても直ちに登校を停止したり、除籍にしたりせず、穏当な方法で支払を求めるとか、経済的事情の相談に応じた上で授業料免除について教えるといった対応が考えられる。これも普通の高校ならやっているはずである。運用上考えられるフォローをした上で、なおかつ授業料を支払わない人に対してまで、高校生の身分を保障せよということは、(e)からも読み取ることはできない。
 なお、記事中の校長がやったことは、「授業料の支払が遅れたからさっさと除籍」というのものではなかった。むしろその逆で、最長2年もの滞納があるにも関わらず、在学を認め教育サービスを提供していたことが窺える。そして、一区切りとなる卒業式までには支払ってほしいという意味で、「卒業証書を渡さない」という、規則にない対応でもって支払を求めたのである。むしろ、問題とされた校長の行動は、条約の(e)に沿ったものであったと考えるべきではないだろうか。
 なお、「故意に払わない」という前提の根拠は、この話題のきっかけとなった新聞記事で、授業料を完納しないと卒業証書を出さないとやったところ、65人中64人までが支払ったという記載による。
 校長が規則上とれる手段が「除籍」「登学の停止」であったのに、より穏当なやり方として「卒業証書を渡さない」という規則にないことをしたから、話が捻れてしまった。規則上可能な手段を伝えて授業料の支払いを促すことに問題は無いはずだし、それでも支払わなければ、より穏当な手段から実行してもかまわないはずである。次からは、規則に定められた手段をとる旨の予告と一緒に滞納分の支払を求める方が、役人に突っ込まれなくて済むに違いない。

 こういうトラブルを防ぎたいのであれば「授業料を完納するまで卒業を延期し、一定期間以上支払わなければ除籍とする」ことを校長がとれる手段として明文で入れれば良い。免除の申請を忘れたりためらったりした人への救済策としては、申請があった場合に経済状況もさかのぼって調査し、免除もさかのぼって認めることにすれば良い。

 いずれにしても卒業証書は、しなければならないことを全て終えた人のものである。

 次に、教育基本法について。
 既に示したような補助が存在するという前提で考えると、授業料が払えるのに故意に払わない人にまで高校生としての身分を保証すべき、という結論までは出てこない。

 補助が不十分で、必要な人に十分いきわたっていないということが問題なら、予算の手当と補助の基準を見直せば良い。ただ、これは別の議論である。仮に基準の見直しが行われた後であっても、故意に払わない人に対する対応を何らかの理念に基づいて変えることを考える必要は無いだろう。

 故意に授業料を払わない人まで普通に在学させ卒業させることを正当化したいのなら、高校を義務教育にせよと主張した方が、主張の筋としてはすっきりするように思う。
 税金で途中まで補助しておいて、途中から授業料を滞納したことで除籍にするのは、それまでの補助を無駄にするものだという意見もあるだろう。しかし、行政に要求されているのは、教育の機会の提供及び適切な援助をせよ、ということのみである。その先、途中で援助から外れる人が居るとそれまでに使った税金が無駄になるといった議論は、本筋ではなく別の話である。もし、無駄をなくせということを要求するのなら、「中途退学者はそれまでに受けた補助を返還せよ」という話だって出てくるだろう。返還話を拒否するのなら、義務化せよというしかなくなりそうに思う。

 理念を拡大解釈し、どこまでもサービスを求めるのが当然だとか、それが権利だという発想が、教育の破壊につながるのではないだろうか。

アホと貧乏は別の話

Posted on 3月 6th, 2009 in 倉庫 by apj

【追記と注意】
 この件についての考察を進めた結果、このエントリーを書いた時とは異なった理解に至ったので、こちらを見て欲しい。

 PSJ渋谷研究所Xさんのところの「「親がアホ」のツケは子どもに回って当然なのか」について。
 先日から話題になっている、授業料を完納しないと卒業証書を出さない、とやった高校の話に関連して。

 心情はわかるんだけど、議論の筋があまりにわけがわからないので改めてエントリーを書く気になった。

なんの責任もないうえに責任を取る能力もない未成年のところに責めを及ぼすことを容認していては、規範もへったくれもないだろう。「未成年者・年少者(18歳未満)は保護される」「犯罪や誤りを犯した行為者本人だけが罰せられるべきで、特段の理由もなく家族等が代わりに責めを負うべきではない」といった前提こそが間違っていて正されるべきだというのでない限り。

 その前提を授業料未払いの例に適用するのが変なのだが。 まず、「保護」の意味が曖昧すぎるので、何が言いたいのかがよくわからない。具体的な保護規定としては、たとえば
・契約関係:法定代理人の同意を得ない契約は取り消し可能。
・刑事責任:刑法の適用ではなく少年法が適用される、家庭裁判所を通して保護処分か刑事処分相当かの審判を受ける。
といったものはある。保護すべしという理念があったとしても、際限なく保護せよという話ではないはず。何だか、保護の意味を無制限に拡大解釈しているように見える。言及先のエントリーを読んでも、「保護を与えるべき→親が授業料未納でも卒業証書を出すべき」の間が埋まらない。

 また、刑事的責任の話を契約関係に持ち出すのは間違っていると思う。
 学費未納の話はむしろ、親が定期的に金を払って購入したサービスを子どもに与える約束をしていたが、金を払わなかったので購入されなくなった、というのに近い。上の理屈を適用するなら「一旦子どもにサービスを与えるという契約したら最後、親が金を払わなくなっても、子どもは保護しなければならないからサービスを与えるべき」という話になってしまうが、これは明らかにおかしいだろう。

でも、入学時に学生が未成年や年少者だった場合、法的には単独で契約の当事者になることができないのではないか。

 単独で契約の当事者になれないこと自体が未成年者に対する保護である。法定代理人(大抵は親)の同意があれば契約の当事者になることは可能である。それ以上、契約の相手方に対して、対価を受け取っていないのに債務の履行を求めているわけでもない。

未成年者が単独では契約の当事者になれないのならば、基本的には保護者が支払いをするという契約のはずで、そうなると未納が生じた際にも子どもは「善意の第三者」ということになるのではないか(親が学費の支払いをやめると言っていて、学生も「それでいいよ」と承知していたとか、そんな事情でもあるのならともかく)。

 「善意」というのは、「ある事実を知らないこと」を言う。 当事者が作り出したり放置したりすることでできた法律関係を信じて取引に入った人を「第三者」と呼び、当事者間に存在する特別な事情を知らない人を「善意の第三者」と呼ぶ。 仮に、親と学校間の契約で、契約関係にない子どもがなにがしかの権利を得るという形になっているのであれば、それは「第三者のためにする契約」(民573)に分類されるのでは。で、子どもがある期間普通に高校に通っていたのなら契約したこと、何の給付を受けるかも含めた契約内容を知っているはずだから、支払が滞った場合に子どもを「善意の第三者」と呼べるような状況が発生するとは思えない。

 子どもが契約の当事者で親が法定代理人として同意する、という形なら、子どもは最初から当事者だからやっぱり「第三者」ではあり得ない。

でも、たとえばカード詐欺(保護者)に偽造カードで買い物をされちゃった(学費を払うのをやめられちゃったとき)時は、直接の債務はカード詐欺たる保護者が負うわけで、消費者たる子どもは善意の第三者じゃないのか。消費者がカード詐欺の尻を持たなきゃいかんってのはおかしいだろう。

 偽造カードで買い物をされた被害者は、立場を騙られただけであって「第三者」とは呼べないのでは。むしろこの場合第三者と呼べるとしたら、騙られた人ではなくて、実は別人が取引していることを知らずに契約関係に入った人に対してだろう。喩えとして成り立っていないように見える。

債権者のはずの子どもが、その債権を放棄するとでもいうのであればともかく、法廷に出たら適法性のない内規として無効と判断されるのではないかとさえ思う。

 債権者の権利がどこからきているかというと、授業料を支払うという親と学校の契約によって発生しているわけだから、元の契約が「授業料を払わなくてもサービスを提供します」とでもなっていない限り、こんな理屈は通らないのでは。

 言及先のエントリーは、「責任」「保護」「第三者」といった言葉の使われ方に違和感がありまくる。

しかし、今回のケースはどっちかというと「いったんかけたハシゴが、親の不心得ではずされる。そういうことに公教育が加担するようなことがあってよいのか」というような問題ではないのか。

 「公教育」といっても、一定の人的金銭的補助のもとに、ある程度決まった内容の、有限のサービスを提供するものに過ぎない。社会の側には、「高校に通わせる義務」はない。 「いったんかけたハシゴは親の不心得があってもはずせない」ことになったら、分割払いで子どもにサービスを提供する契約自体が危なくてできなくなる。「子供の保護」をタテにしての踏み倒し放題を認めるということになる。それならいっそ、契約の安全のためには、授業料3年分を入学時に納付してもらい、休学の期間は納付不要(つまり納めた授業料が減ることはない)とし、退学の時には残りの期間の分を返却する、というシステムにしてしまえばよい。不払い問題は解決するはずだ。授業料を強制的に徴収するための手段が現実的なコストで実現できるなら、どんどん不払い分を回収することにすればよいのだろうけど、授業料程度の金額を人手をかけて回収するのがコストに見合わないというのなら、先払いにするしかないのでは。支払う相手が自治体なら、某家庭教師センターや英会話塾みたいな倒産はないだろうから、退学時に返却されなくなるおそれは殆どないはずである。
 そのかわり、金を貯めてからでないと進学が不可能、ということになってしまうだろうが……。

 親が貧乏であることのツケを子どもに回すのはよくない(社会的格差が固定する方に働くから)。だから、奨学金や授業料免除といった手当てが必要だし、実際に授業料免除になっている生徒もそれなりの数存在する。でも、親がアホであることのツケについては、明らかな虐待で保護が必要といった場合以外にまで社会の側が面倒を見るのはやり過ぎではないだろうか。

【追記】
言及先のエントリーで、地下に眠るMさんの勘違いコメントを見たので、こっちでも言及しておく。

「親の因果が子に報い」を肯定するバカ科学者と、その妄言を支持する寝言垂れ流しの諸君に聞いておく。■学校と生徒の関係において、重視されるべきは民法かね? それとも教育基本法かね?

チミら、恥を知れ。
Posted by 地下に眠るM at 2009年03月06日 23:42

「因果」じゃないので、議論自体がミスリーディング。強いて言うなら親の身勝手、といったところ。
 義務教育ではない高等学校では、授業料を払わなければ学校と生徒の関係自体が消滅するので、民法が先(∵授業料を払わない生徒に対しては除籍という手段をとることが可能である)。学校と生徒の関係が維持されている間は教育基本法。
 前提となる学校と生徒の関係を発生させるものと、関係が発生してからその内容を規定するものの優先準位を、同列に比べることの方がナンセンスではないか。

AirMacの外側のプリンタを使う

Posted on 3月 5th, 2009 in 倉庫 by apj

 研究室のパソコンをAirMac Extremeにつなぎ、Air Mac Extremeを学内LANに行ってるHUBに接続。
ネットワークプリンタ(Phaser 6201J)をHUBにつないだ状態で、パソコンから印刷するときは、システム環境設定→プリントとファクス→ウィンドウ左側リスト下の「+」ボタンをクリック→タブからIPを選び、プロトコルをLPD,アドレスをプリンタの固定IPアドレスにすると印刷できる。プリンタはIPPにも対応しているはずだが、IPPを選んでから印刷すると、プリンタがビジーだという表示が出たまま止まってしまう。

大学から教員個人が情報発信する時の責任は大学ではなく教員個人が負うべき

Posted on 3月 4th, 2009 in 倉庫 by apj

 神戸の裁判の第1審判決の、独立当事者参加の意味について少し書いておく。

 都合の悪い情報を出させないための「口封じ」として、あるいは、気に入らない情報を発信した人に対する感情的制裁として、発信者の所属組織にクレームをつけるというのは、常套手段である。

 水商売ウォッチングを始めた時から、大学にクレームが来るであろうことは予想していたし、そのための対策も考えていた。

 最初のクレームの時は、お茶の水大学のウェブ運用規則が十分整備されていなかったので、大学の方が混乱して、ウェブサイトを公開停止にしてしまったので、阪大の菊地先生のグループに居候していた。その後、ウェブ運用規則を整備することになった。そこで、冨永教授に「大学が直接編集責任を負う公式ページと、研究室単位で運営されるページの管理を分けないと、研究室からの情報発信ができなくなる」といった議論をし、規則の内容を現行法にすりあわせるという提案をした。このとき、私が冨永教授に伝え、冨永教授も大学に伝えたことは、研究室ページから発信する情報についての責任は、大学ではなくて冨永教授か、文章を書いた天羽が直接負うべきである、ということだった。大学が、プロバイダ責任制限法にのっとった規則を準備したので、手続通りに動けば、大学がかなり安全な状態になった。このあと、コンテンツをお茶の水大に戻して今に至る。
 ただ、規則が決まった時、「大学はかなり安全にはなったが、それでも、嫌がらせの提訴までは防げないだろう」というコメントが出ていた。私もその通りだと思い、嫌がらせの提訴をされた場合にどうやって防衛するかが次の課題だと認識していた。これが、2002年の後半から2003年の前半にかけてのことである。

 吉岡氏によって大学が提訴されたことを知ったとき、私が最初に考えたのは、私が原告となって債務不存在確認の訴えを吉岡氏に対して提起し、審理を併合してもらうように裁判所にお願いする、という案だった。この案を持って、絵里タンの所に行ったところ、「別訴の提起では元の訴訟を止められないから、民訴47条によって独立当事者参加をしてはどうか」というアドバイスをうけた。そこで、そのアイデアに従って、独立当事者参加をして、弁論することにした。

※裁判所に対して矛盾しない判決を出せという要請があるので、別訴提起&併合審理でも、独立当事者参加と似たような展開になるのでは?という疑問はまだ残っている。これは、私の民事訴訟法に対する理解が不足しているからだろう。

 これまで(例の瀬尾准教授の騒動の時も含めて)、私は、情報発信の内容についての法的責任は大学ではなく教員個人が負うべき、と主張してきた。瀬尾准教授の方は学外blogで表現もトンデモだったが、本件訴訟の掲示板は大学内で弁護士が見てもどこが名誉毀損だと首をかしげていたりした。本件訴訟の原因となった書き込みのある掲示板は大学内のドメインにあるので、大学の責任の割合が高くなりそうではあるが、それでもまずは発信者が責任を負うべきだというのが私の考えである。今回の裁判所の判断は、「本件論評が原告に対する名誉段損行為であるとすれば,不法行為責任(損害賠償義務及び本件文書削除義務の双方が含まれる。)を負うのは原則的に情報発信者側の参加人らであり」というものなので、私の主張に近いものとなっている。

 教員の情報発信の内容にそれなりに正当性がある場合であっても、事情を知らない大学が対応したのでは、十分な攻撃防御ができるとは思えない。不十分な訴訟活動が原因で大学が敗訴したら、情報発信は相当に阻害される。このことは、今回の判決の理由の中で、裁判所も触れていた。所属組織を脅して口封じをするようなやり方を容認してはならないのである。
 仮に、教員の情報発信に関わる法的紛争を大学が一手に引き受けるということになったら、現実問題としてリソースが足りず、結果として、大学からの教員による情報発信を制限せざるを得なくなる。逆に、教員の側が、大学が応訴してくれるから、と、安易に不法行為認定されるような情報発信をするようでも困る。結局、発信者本人が責任を負うことが、情報発信の自由を確保すると同時に、不法行為となるような情報発信をむやみに行うことに対する歯止めにもなる。

 判決の理由に書かれた説明により、大学の責任については、プロバイダ責任制限法に基づき、「他人の権利が侵害されていることを知ることができたと認めるに足りる相当の理由」というハードルを越えない限り、免責されるということがよりはっきりした。つまり、発信者の不法行為責任が認められたとしても、それが直ちに大学にも責任が生じることを意味しないということである。

 大学が免責されるかどうかは、「認めるに足りる相当の理由」をどう判断するかによって変わってくる。元の表現が、誰が見ても直ちに名誉毀損だろうという内容ならば「認めるに足りる相当の理由」ありと判断される可能性が高い。しかし、当事者が、証拠を提出し弁論したものに基づいて裁判所が免責理由等について判断する、ということになると、話が違ってくる。裁判所がそれなりの手間をかけて争点整理をしてからでないと結論が出ないようなものについて、大学に対し、プロバイダ責任制限法にのっとった書類のやりとりを見ただけで同じ結論を出すことを求めるのは無理がある。すると、発信者の不法行為は認められたがそれは審理を行い入り組んだ判断をした結果であるので、大学にとって「認めるに足りる相当の理由がある」とはいえなかった、となり、大学が免責される可能性がかなり出てくる。

 今回の訴訟で、「発信する内容についての責任は発信者が負うつもりであったし、その責任とは、法的責任のことである」と弁論した。実際、法的責任を負うために訴訟参加し、攻撃防御を行った。学内規則を決めた時に、お茶の水大学内の関係者に対して主張した「発信者が責任を負う」という約束を、今回の訴訟参加によって、守ることができたと考えている。この点は、冨永教授にとっても同じだろう。

 実は、昨年、吉岡氏から勤務先に来たクレームについて、私の方から、削除義務が存在しないことを確認する、という請求を立てて、私が原告となって提訴した。こちらは、吉岡氏がろくに弁論しなかったため、認容判決が出ることになった(つまり削除は必要無し)。勤務先に削除要求が来た段階で、発信者が直接法的手段をとって防衛するということを試してみたのだが、一応この方法も使えそうだという感触を得ている。

 今回の判決で、所属組織が提訴された場合には、独立当事者参加を行い攻撃防御に参加することで情報発信の自由を確保することが可能であるとわかった。十分弁論すれば、不法行為ではないと判定されることもあるし、判定が難しかったので「認めるに足りる相当の理由」無しという形に持っていくことで組織を免責するということもできる場合がある。訴訟を厭わない姿勢が発信者に必要なので、それなりに過酷だし面倒でもあるが、表現の自由の確保がタダでできるわけはない。権利は戦って得るものだということなのだろう。

 なお、当事者参加には補助参加というのもある。しかし、被参加人の訴訟行為と抵触する行為は効力を有しない(民訴45条)し、当事者が異議を申し立てる(民訴44条)ことができたりするため、参加人の立場は弱い。独立当事者参加であれば、異議申立ての手続はないし、被参加人とは関係無く独立に攻撃防御をすることができる。
 所属組織と参加人の利害が必ずしも一致しない場合があること(たとえば、訴訟費用節約のため所属組織が早々に和解を考えていて、参加人は判決がほしいと考えている場合など)を考えると、独立当事者参加の方がより良い選択肢だろう。

 もちろん、これらの方法で結果を出すには、もとの表現が防衛的に書かれている必要がある。誰が見ても名誉毀損だという内容を書いてしまったのでは、争うだけ無駄となる。真実性(争いになったときどこまで証拠を出して真実であることを裁判官に示せるか)と、表現内容の公益性については、常に意識しておくべきだろう。

判決書公開

Posted on 3月 3rd, 2009 in 倉庫 by apj

 神戸の裁判の判決書を公開した。私の方から控訴する必要はないが、相手方の控訴はあり得るので、確定していないことを前提に読んでほしい。

 当事者参加の可否については、「第2 5」で

5 独立当事者参加の要件に関する当裁判所の判断(1) 本件論評が原告に対する名誉段損行為であるとすれば,不法行為責任(損害賠償義務及び本件文書削除義務の双方が含まれる。)を負うのは原則的に情報発信者側の参加人らであり,参加人らの原告に対する不浩行為責任が存在しないとなれば,必然的に被告の原告に対する不法行為責任も発生しない。 すなわち,原告の請求の当否を判断するためには,参加人らの不法行為責任の存否を判断する必要がある。
(2) ところで,参加人らの不法行為責任の存否を判断するためには,本件論評につき,後記平成9年最高裁判決のいう違法性又は責任阻却事由があるのかどうかを判断しなければならない。ところが,この点に関する被告による主張立証が極めて困難であることは,弁論の全趣旨に照らして明らかである。
(3) したがって,被告に応訴を委ねたままでは,その点に関する被告の主張立証が貧弱なものとなるおそれが強いが,その結果として,被告が本件訴訟で敗訴した場合,参加人らは,冨永サイトや天羽サイトでの表現活動の一部を物理的に制限されることになる。
 そうすると,参加人らを当事者として訴訟に参加させ,本件訴訟の審理の対象(判決主文における判断の対象)を拡張し,参加人らの不法行為責任の存否の問題を正面から取り上げることが必要であり,そうすることが民事訴訟法47条1項前段の趣旨に合致するというべきである。
(4) 以上のとおりであるから,参加人らは「訴訟の結果によって権利が害される」として,民事訴訟法47条1項前段により,当事者として本件訴訟に参加することができると解され,本判決では参加人らの請求の当否も判断すべきことになる。

 という判断になった。名誉毀損行為があった場合の責任は発信者である掲示板管理人や書き込んだ本人にあり、直ちに大学にあるわけではないという判断である。これで、参加の目的のかなりの部分は達成できたといえそう。
 共同不法行為というのがあるので、大学を完全に免責するのは不可能だけど、少なくとも、教員の表現について大学が常に全面的に責任を負うという話でもない。

 教員の所属組織である大学を訴えて、言論と表現を萎縮させようとしても、情報発信者である教員が当事者として攻撃防御できる可能性があることがわかった。

 ただ、吉岡氏のビジネスにまで踏み込んだ判決になったのがちょっと意外。もうちょっと文言の争いのレベルで判断して、「名誉を全く毀損しないとまでは言えないが、不法行為と呼べる程度でもない」あるいは絵里タンの主張の通りに「名誉が毀損されるとしても不特定のダウンの人々であり原告ではない」という判断をしても、主文の通りの判決は出せるはずである。吉岡氏のビジネスの姿勢についての判断まで出したかったから敢えて入り口で判断しなかったというふうにも見えるし、裁判所がマルチ商法に怒りを覚えているようにも見える。

 ある意味凄まじい判決なので、こんなん出して大丈夫かと逆に心配になってみたり。

 私の予想では、文言の争いで終わり、吉岡氏のビジネスには言及しないという判決を予想していたわけで……ただ、弁論では真実性や公益性まできちんと主張しておいたので、その部分が裁判所の判断に使われたことになる。逆に言うと、いくら文言の争いで終わりそうだよな、と思っても、とりあえず名誉毀損訴訟の枠組みに沿った内容を全部埋めた弁論をしないと危ないということでもある。本当に教訓その1というか何というか。

独り言

Posted on 3月 2nd, 2009 in 倉庫 by apj

 昔は、教育の場には、「教師と生徒・学生の関係」というのがあった。教師が聖職者とされていたり、一定の権威を持っていたりといった一時期のことを指したかったので「」付きにしてみた。その頃、先生は一応は尊敬されることになっていた。まあ、教師の陰口を言うのは生徒の特権(?)だったけど、一応形式的には敬うことになっていた。この約束事が何を守っていたかというと、生徒や学生がある程度失敗をしても外に出さず、教師と生徒のウェットな関係のもとで許すとか教育するという仕組みを守っていたんじゃないかなぁ。

 だから、生徒・学生の側が法治主義的な手段でもって教師と対等な位置に立つ意思を示したら、一応教師側には職業倫理があるとして、残るは対等な(契約に基づく)人対人の関係になってしまう。これは生徒・学生にとってむしろ過酷な面があるんだけど、法治主義的な手段で最大限権利を認めさせる成功例が出てきてしまったら、多分もう昔の関係に後戻りはできない。なにがしかの職業倫理を前提にするとしても、倫理の枠組みでは法治主義的なルールを逸脱することはできないから、何かコトが起きたときになあなあで何とかするという解はとれなくなる。むしろ、なあなあで納めることが違法な行為になってしまったりする。

 最初に、法治主義的発想で教師や学校に対して要求を通すことを思いついた人、実行した人は、確かに斬新な発想を持っていたと思う。だけど、それを実現したら最後、全てを法治主義的発想で処理する仕組みを作らない限り全体の整合性がとれないし、制度としても機能しない。最初に思いついた人が、来るべき未来をどこまで想像していたかは知らないが、これまでウェットな関係で調整していた教育の場を法治主義的ルールでもって調整する世界を望んだということなんだろう。仮にそいつがそんなことは想像もしていなくて、気持ちの上では望んでいなかったとしても、行動でもって示してしまったわけで。オモテにコトを出さず、人の善意(一般用語の意味で)とか甘えを許しつつ問題解決をする制度に、一部分だけ(コトによっては都合の良い時だけ)権利義務関係を持ち込むというのは、制度の崩壊を引き起こすし、モンスタークレーマーにエサを与えるだけになってしまうだろう。どうやっても両立しないんだよね。

 社会の側は司法制度改革をやって法化社会に舵を切ったし、その社会の側の基準で教育現場にも要求が突きつけられるのだから、教育をする側も一貫した法化社会的対応をする以外に方法は無い。まだ、その気持ちの切り替えができない人達が居るから横やりが入るのだろうけど、もう昔の考え方ではやっていけないということは早晩わかるのではないかなぁ。多分、今は過渡期で、暫くは混乱するし、双方で奇妙だと思うこともいろいろ出てくるのだろうけれど。

【追記】
 過渡期の混乱としては、どこかで会社法がらみの裁判で混乱するものが多発中というのを読んだ覚えが……。自営業をやってて、親が亡くなって子供が事業を継ぐことになったが、兄貴に商才が無くて弟に商才がある場合の話。昔だったら、街のご隠居さんが出てきて、兄貴の生活が困らないように弟が面倒を見るかわりに、商売は弟が継ぐ、といったなあなあ解決で済んでいたのが、最近は会社法の枠組みでもって地方裁判所に揉め事が持ち込まれる。でも背後にあるのは、むしろ家庭裁判所でケリを付けた方がよい種類の身内のごたごただから、結果として裁判所もわけがわからん、と……。

【追記】
 教師を尊敬しろとか教師に権威を認めろ、というのは、教師に対して「生徒に対してパターナリズムを発揮せよ」という要求の別の表現だったんじゃないかな。教師を尊敬の対象にしないことにし、権威も認めないことにしたら、パターナリズムを発揮していい根拠は法なり規則なりに求める以外に無くなる→結局法治主義的ルールで教育を縛るしかなくなる。
 教師の権威を否定したり尊敬をやめたりすることは、教師によるパターナリスティックな対応も拒否する、つまり保護なんか無しで自己責任でいく、ということの表明になっている。

卒業論文はそれなりの多数にとって必要

Posted on 3月 1st, 2009 in 倉庫 by apj

 むやみに「学問」を強調しないという前提での話だが。

修士論文の代わりに退学願を提出してきた」より。

単位卒業がないから,僕のいたところみたいに大学院に行っても授業は 出席だけで済んでしまう様に,授業の価値が下がります.だって,結局 論文がほぼ全てなんだから.就職予備校の気分なのに,出席するだけの授業なんて なんの為に学費払ってるのか分からないし.わけのわからない論文を書かされるのも 苦痛です.逆に,学の府として卒業したい人にとって,論文が書けないなんてあり得ないので 論文が卒業に必須なのは当たり前です.文章が書けない人間は残念ながら「学」に 残ることはできないのですから.その人にとっても出席だけで終わる様な 授業はそりゃ出る意味がありません.

だから,卒業に必要な単位数は学生で一律にしつつ,卒業論文は「必修」から 外せばよいのです.卒業論文は現状でもかなり大きな単位数(10単位とか)を 持っているので,それを取るならば授業での単位は必要最低限取得すればいいし, 逆に卒業論文を取らない人にとっては,授業を必死で受けないと卒業できない ことになります.

 文章が書けない人間は、残念ながら企業でも残ることはできないので、在学中に卒業論文を書く経験をすることに意味はある。但し、学問の業績として専門誌にのるような論文ということではなく、やったことをきちんとレポートにして他人に分かるように書き残せる、ということなのだけど。

 理系の学部の多くで必修とされている学生実験では、やるべき内容が書かれたテキストがあり、機材や試薬も全部揃った状態で実験をしてレポートを書く。レポートの書き方も、実験の目的、使用した試薬や装置、実験方法、結果、考察、といった一定のフォーマットが要求される。この場合は、説明の部分はほとんどテキスト通りに書けば仕上がるので、「型にはめる」効果はあっても、他人を意識して書くというところにはなかなか到達しづらい(それを知ってしまう学生もいるが、一部だろう)。

 卒業研究になると、テーマが個別に与えられ、必要なものが最初から揃っているわけでもないし、決まり切ったテキストがあるわけでもない。大抵は、指導教員や先輩に訊いたりしながら進めていく。
 卒業研究のテーマを出す側としては、4年生にとって敷居が高すぎず、即投稿論文になるほどのオリジナリティまでは要求しない(追試+αでもよい)が、1年でできて、本人が中身を理解できて、それなりのレポートが書けるようなテーマを毎年考えている。1年終わると、既製のテキスト通りでない手順と方法で何かをやった結果が学生の手元に残ることになる。そこで卒業論文を書くことになる。
 多くの学生にとって、既に分かりやすく説明してある本などが無い状態で自分が何をどうしたかについてまとまったものを書くという最初の訓練をするのが、卒業論文ということになる。そこで、私がいつも学生(実は博士前期の院生も含む)に言っていることは、「学部の勉強をしてきただけの今の3年生が、来年ここにきて、あなたの実験の追試をしようとしたときに、あなたが書いたものをみて、実験の意味がわかってちゃんと操作などができるように書け」ということである。推敲の時も、「学部の勉強しかしてなくて、これを読んで実験しろと言われたらあなたはできるか?何をどうしていいかわからないというのなら、それは説明が不足している」と言っている。
 学問的な意義とか価値とかにこだわる前に、他人が読んで使えるものでないと意味がない。オリジナリティ溢れるテーマを卒研でやらせる先生もいるかもしれないし、4年生で既にレベルの高い研究をやってしまう優秀な学生も居るかもしれない。しかし、多くの学生は極端に学問に秀でているわけではなく、普通に知識を身に付け、普通に企業に就職して、そこでやっていく。それに合わせた指導ということになると、泥臭いことでもいいから現場がわかるように、かっこよくなくてもいいから何も知らない人が後から来てたどれるように書け、ということになる。プロ向けの投稿論文では通常は省略されるコツやノウハウも、卒論や修論にはどんどん盛り込んでかまわない。

 会社に就職して技術系の仕事をすることになったら、どんな仕事をしてどんな結果になったかを残していくことになる。たとえ、自分が「こんなちゃちな簡単な仕事、他の出来る人達は当然わかっているはずだから残さなくてもいいだろう」と主観的に思ったとしても、レポートにして残さなければならない。会社では、部署が変わったりして、自分がやっていた仕事を全く別の人が続けることもある。その時に、使えるレポートをきちんと残してあって新しく来た人がそのレポートを元にして仕事を進めていけるようになっているか、ろくにまとめてなくて新しく来た人がまた同じ手間をかけないと状況が把握できなくなっているかで、前任者に対する会社の中の評価だって分かれる。学問的に価値のあるものでないとダメとか、レベルが高いものしか書きたくないといった、変なプライドはむしろ邪魔である。日々の仕事の区切りごとの、ちょっとずつ進んでいる部分を確実に残す方が、後の誰かの役に立つ。

 教員が4年生の研究内容を十分把握しているのは当たり前だから、教員に対しては省略した説明でも通じてしまう。しかし、それでは他の人には伝わらない。だから、4年生と大差ない知識を持っているはずの、これから卒研を始めようとする3年生を対象読者として、知っている範囲の知識やらコツやらを文章で伝達せよ、というのが、卒業論文の真の課題だと私は考えている。これができれば、会社に行って、どこかの部署で仕事をし、レポートを残し、社内の別の人に仕事を引き継ぐということもうまくできると思うからである。

 社会とのつながりに関する問題点としては、卒研や修士論文を仕上げる過程では、チームワークを教えづらいということがある。これは、大学や大学院の評価が、あくまでも学生個人に対する評価であり、研究テーマは1人1テーマで、基本的に個人で仕上げることが要求されるからである。大学は、単位認定の制度上、学生が個人で問題を解決するように仕向けているのだけど、社会では、他人の助けを借りてはいけないというルールはないということを心に留めておいてほしい。

教育的配慮が暴走すると規範をぶちこわしにする

Posted on 3月 1st, 2009 in 倉庫 by apj

【追記と注意】
 この件についての考察を進めた結果、このエントリーを書いた時とは異なった理解に至ったので、こちらを見て欲しい。

 卒業証書問題をchem@uさんのところが取り上げたので引用。私の問題意識とほとんど重なっていると思う。

「ムラ社会型の教育機関への縛り」とはこの場合、「未期限までに全額納入がない場合は、卒業証書をお渡しできません」という法治社会型の契約に基づく対応を取ろうとしても、筋の通らない苦情や抗議が起きて、教育機関が追い込まれるということ。
メディアがニュースに取り上げ、「教育者像」との違いについて謝罪させられ、教育委員会あたりが、「未納を理由に卒業証書の授与を拒むことはできない」と横槍を入れざるを得なくなる。

場当たり的な対応によって周知される「授業料払わなくても卒業できる」という事実、これが将来どんなことをもたらすか、そんな想像力もでないのでしょうか。

(中略)

教育的配慮 法治社会では不要(個別の教員が配慮する事はあっても、配慮するよう他者が教育者に求めるのは筋違い)
説得力 「サービス業」は無限大のサービスを提供するわけではない。
教育と金 そもそも政治の問題、現場に負担を押し付けるな。

 この対応がまずいのは、場当たり的な対応で契約を無視してもかまわないということを公然と社会に知らしめてしまった、という点。これがどれだけ反社会的な対応か、当事者も認識していないらしいので、問題としてはより深刻だと考える。

 法治社会の原則の1つとして「契約は守らねばならない」というのがある。これは、より一般的な「約束したことは守りましょう」という倫理的規範の一部分である。原則だから、当然「例外」もあるけど、例外とは、例えば契約の前提となった条件が途中で著しく変わってしまって当事者にとって想定していなかった極端な不公平が生じた、とか、そもそも契約の内容自体が最初から公序良俗に違反していた、というような場合であって、「教育的配慮」などというものは、契約には基本的に何の関係もない。

 期限までに授業料の納付が無ければ卒業証書を渡せません、というのは、契約を守ることが前提の社会では至極当然の対応であるし、社会規範にも一致している。

【追記と訂正】
 理由無く授業料が納付されなかった場合に校長がとれる手段として許されているのは、「登校の停止」あるいは「除籍」とのこと。中途半端に「卒業式には来てもよいが卒業証書を渡さない」はむしろダメで、「卒業式の当日に登校を停止」であればOKのはず。お役所の指導としては、「卒業諸処を渡さないのは(規則にないから)不適切だが、代わりに登校を停止するといった、明文に書かれた措置をきちんととれ」が正しいのだろう。
 いずれにしても、授業料を払わない人に何もせずそのまま卒業証書を渡す、というのが制度を壊す方に働くことは確かではないかと。

「教育的配慮」「児童を護る」といった、契約と関係のないものを持ち出して、横やりを入れることで、規範を無視してサービスを要求し、それを当然と思っていることがおかしいのである。場当たり的にルールを破ってもかまわないということを、ルールを守ることを教えるべき教育現場で示すのは、してはいけないことである。これでは、いくら「ルールは守りましょう」と唱えたって、説得力が皆無である。

 「教育的配慮があれば規範は無視でよい」「学生は護られるべきだから契約を破っても護られて当然」といった倫理観を持った学生を育ててしまうことの方が、致命的にまずいと思う。社会にそういう価値観が蔓延することの方を、私は憂慮する。それに、何だか将来のモンスタークレーマー予備軍を養成しているようにも見える。

ゴネ得を認めているだけのような……

Posted on 2月 28th, 2009 in 倉庫 by apj

【追記と注意】
 この件についての考察を進めた結果、このエントリーを書いた時とは異なった理解に至ったので、こちらを見て欲しい。

 Yahoo経由時事通信の記事より。

授業料未納「卒業証書渡さない」=県立高8校、家庭に通知-島根
2月27日20時11分配信 時事通信

 島根県の県立高校8校が「授業料を滞納している生徒には卒業証書を渡さない」と各家庭に通告していたことが27日、分かった。一部保護者から苦情が届き、県教委はすべての県立高校に対し、滞納を理由とする証書授与の見送りなどをしないよう通知した。
 県高校教育課によると、安来高校(安来市)では1月、すべての3年生約150人の家庭に「全額納入しない場合は卒業証書を渡せない」とする内容の文書を配布した。その後、全生徒が授業料を全額納入し、3月1日の卒業式では全員に卒業証書が渡される。同校は昨年1月にも同じような文書を配っていた。
 ほかの7校では、2004年度からこれまで計65人の家庭に対し口頭や文書で授業料を催促。このうち06年度に1人が卒業式当日に証書をもらえず、3月中に受け取っていた。滞納期間は長い場合で2年近くあったという。

 

 保護者からの苦情というが、授業料をきちんと支払えば問題は生じないはず。記事中の保護者は、金を払わずゴネた方が得という価値観を持っているように見えるし、それを行政が容認しているようにも見える。
 経済的理由で支払が困難なことがはっきりしているのであれば、奨学金を出すとか授業料免除の対象にするといった形で解決するべきであって、それでも滞納する場合には卒業証書を出さないという形にしないとまずい。
 県の状況が報道だけでははっきりしないのだが、もし、支援をさぼっておいて払わない人にも卒業証書を渡すというのであれば行政の怠慢だし、怠慢のまま済ませるために滞納していても卒業諸処を出せと現場に指示したのだとしたら、やっぱり間違っている。「払うものを払わなくても対価を受け取れる」ということを学習させる結果になりそうで、良いこととは思えない。

 本当に支援が必要な人にはサポートをする代わりに、ゴネ得は認めない、ということにしないと、モラルハザードが激しくなる一方なんじゃないかなぁ……。