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分け方やら対立の深刻さやら

Posted on 2月 2nd, 2008 in 倉庫 by apj

 Genさんの、擬似科学批判者は「何を批判しているか」自覚せよ、というエントリー、及びその追記より。

科学者が疑似科学信仰者を批判するとき、二つの水準(レイヤー)が混在しています。

1.事実のみに関わる純科学的な批判
2.道徳的・政治的な批判

1の純科学的な批判については、科学の領域で、実証的に白黒つけることができる。つまり、事実について科学者が疑似科学信仰者を批判するときには、実証的データという(さしあたり)疑いようのない批判根拠が存在している。だから、感情的になる必要はありません。
 ところが、2の道徳的・政治的な批判については、白黒(批判が正当かどうか)をはっきりつけられる根拠が存在していない。この部分は、人文学的な「解釈」の領域です。あるいは、どちらの方が社会の支持をより集めることができるのかという、政治的パフォーマンス(言説バトル)の領域です。だから、感情的になりやすい。「疑似科学(を主張すること)によって多くの先人や現在科学に携わっている人々の人生が否定されてしまうこともある」(参照)と憤る気持ちや、「怪しげな話をして人を惑わしてはいかんのではないのか」「法的にも道徳的にもどうなの」(参照)と感じる気持ちはわかりますが、これらは科学そのもの(事実の領域)とは無関係であることを確認してください。

 擬似科学と書いておられるけれども、今のところ私が積極的に批判しているニセ科学についていえば、定義が「科学を装うが科学でない」である。すると、定義に当てはまるかどうかを考える段階で、「装う」の判定が入っているため、科学「のみ」では議論が閉じない。
 次に、道徳的・政治的な批判が現実に行われる場合の例としては、不実証広告規制で既に言及したような基準が使われることになっている。公正取引委員会による景品表示法4条2項の運用例だが、経済産業省による特定商取引法6条2項の運用例もほぼ同じ内容となっている。簡単にまとめると、法規制する場合には通常の意味での科学的実証をダイレクトに求める、という趣旨となっている。つまり、法の側が「科学のモノサシ」を求めるということになっている。
 人文学的な解釈の問題を論じるなら、たとえば景表法4条2項や特商法6条2項の運用基準が妥当かどうか、といったことになるのではないか。また、このような法律は、それこそ市井の普通の人達の間で頻発するトラブルを防ぐ目的で作られたわけだから、運用基準に基づいての市井の人によるニセ科学批判は、やはりそれなりの合理的意味を持つことになる。「自分たちが絶対に正しい」とまではいかないが、「社会で合意された内容」程度の正しさは担保されている。

自分の主張は、疑似科学批判側と疑似科学信仰者のあいだに芽生えている相互不信というかディスコミュニケーションを改善するために、「2.道徳的・政治的な批判」において、疑似科学批判者側が「自分たちは絶対に正しく、有能だ」と思う気持ちを封印して、より対話的な態度を取ろうではないか、ということでした。あるいは、「2.道徳的・政治的な批判」のトーンを下げることによって、「1.事実のみに関わる純科学的な批判」を通しやすくなるのではないか、ということでした。

 現実にはそんなものでは済まない。擬似科学を広める側の理由が、不実証広告でもって商品を売るためだったりすると、単に科学的批判を加えただけで「業務妨害」を主張して争ってくる。まあ、メシの種がかかっているから仕方がない面もある。でもって、景表法4条2項が適用されて排除命令が出ると、今度はそれを逆恨みして、自費出版本を作ってまで批判者に対する誹謗中傷を行い、2年にわたってウェブでも同様のことを行い、挙げ句に批判と関係のない言葉尻を捉えて大学だけを訴えてきたりする。おかげで批判した側(つまり私やらお茶の水大の冨永教授やら)が訴訟参加して裁判所で紛争の真っ最中、ということになっている。この状況で、ディスコミュニケーションが改善できるなどという主張をされると、一体それはどこの世界の話なのかと思ってしまう。


ここからは旧ブログのコメントです。


by Gen at 2008-02-16 18:38:16
Re:分け方やら対立の深刻さやら

apjさん、はじめまして。

お忙しい中、丁寧にご指摘頂き、ありがとうございました。
apjさんは(失礼な言い方かもしれませんが)大変思慮深いニセ科学批判者でおられると思います。私は身近な経験からいわば「洗練されていない疑似科学批判者」を過度に一般化してしまったわけですが、非常に勉強になりました。以後の言論活動に活かしていきたいと考えております。

「現実にはそんなものでは済まない。~」の部分で指摘してくださっているように、狂信的なビリーバーからビリーバー予備軍と呼べるような緩いビリーバーまで、様々な人々が居るのが現実であり、具体的な対象を限定しない一般的な立論は効力を持たないのだと痛感しました。

apjさんが「なぜニセ科学を批判するのか」という記事で書かれている、

>・夢がある部分、いい話である部分で信じる。その夢が自分の信じたいことだから信じる。実は科学かどうかはどうでもよい。
>・一発逆転狙い。科学では自分の望みがかなえられないから、ニセの方を信じることに救いを求める。(もともと、科学は人に現実を認識させるものだから、現実を直視することに耐えられない人がニセの方に行くことがある)

これらいわば「ニヒリズム」に関連した問題を、いかなる種類のビリーバーに対していかなる説得が効力を持つのかについて、具体例に則しながら、掘り下げて考えてみます。


by しもふり at 2008-02-57 18:50:57
Re:分け方やら対立の深刻さやら

うーん、こういうのはニセ科学で「自分も引っかかって損したり、へたすりゃ人生こわされちゃうかもしれない」という想像力が欠けているからかなあといつも思うわけです。現にこういうので一財産もぎとられた人からしてみれば「道徳的な問題とかユルいこといってんじゃねーよ」ということになるわけでしょう。

こういった想像力の欠如というのも「人文的な」ところできちんと議論してほしいと思うのですが。

いわゆる「個人の価値観を尊重」という話で、そりゃ「尊重」されるべきで、主張する「だけ」であれば同じ土俵で単に科学的な議論をすればすむのだと思います。しかしながら、そういったもので現に誰かが不当にお金を吸い取られている可能性がある(もしくは、現にされている)以上、科学的な土俵だけというわけにはいかないんじゃないかと思うのですが。

政治的な問題云々については、そもそも「どういった法体系であることが社会にとって最善であるか」というのは立派な社会「科学」的な問題で、管理人さまの定義されるところの「ニセ科学」批判というのもそういった点で社会科学的な問題だよねえ、と私は考えています。

経済的な利得と消費者の利益というところを社会科学的に考えてきた結果、現在の消費者関連法規や消費者行政がやっぱり存在しえているわけで、そういった点の社会科学的解釈が十分でなかった時代は消費者がまったく個別に対応しないといけなかったわけです。

そういった意味で、「科学」を(自然科学に狭く定義すれば別でしょうが)人文・社会的な事象を論じるためのツールでないと考えるのは違うんじゃないかと思うのですが。


by apj at 2008-02-48 19:12:48
Re:分け方やら対立の深刻さやら

Genさん、
 はじめまして。
 Genさんがこれから議論したいと考えておられる次の2つについて。
>・夢がある部分、いい話である部分で信じる。その夢が自分の信じたいことだから信じる。実は科学かどうかはどうでもよい。
>・一発逆転狙い。科学では自分の望みがかなえられないから、ニセの方を信じることに救いを求める。(もともと、科学は人に現実を認識させるものだから、現実を直視することに耐えられない人がニセの方に行くことがある)

 これらがニヒリズムに関連していると思っておられるようですが。実は、マルチ商法にはまる人や、カルトにはまる人、霊感商法の被害者になる人の心理とかなり重なります。
 大借金を背負ったり友人全部無くすかも知れないという部分には目をつぶって、勧誘者の「いい製品でもってダウンをたくさん勧誘すれば年収○○円も夢ではない」を信じた場合が1番目。ただし、この場合は「科学」のかわりに「商売の常識」がどうでもいいということになっています。まあ、不実証広告もてんこ盛りで、科学は最初から考慮の外だったりすることも多いのですが。
 (既存の宗教では救われないし科学も答えてくれないから)別のもので一発逆転狙い、となると、大抵はカルトにはまって、やっぱり家族や友人との人間関係は破壊され生活も破壊され、という結果になる。
 ぬるいビリーバーなら道徳的云々の議論で済むのですが、この方向でも深くはまった人を引っ張り出すのは洗脳を解くというのとかわらないです。脱洗脳となると、道徳云々の議論ではやっぱり済まないし手に負えない。はまり方がヒドイと、我に返った途端に人生をどれだけ台無しにしたかという事実を認識することになり、自殺の危険が数年続くということもあります。じゃあ、夢を持たせたままにしておけばいいのかというとやっぱりダメで、無茶なマルチは大抵破綻するし、カルトはカルトにとって都合が悪くなる(=お布施が出せなくなって逆に支援つまり支出が必要になるとか、女性の場合だと歳を取って教祖や幹部のセックスパートナーとして魅力が無くなる)と放り出されたり、あまりに反社会的だと法的制裁を受けてつぶれたりするから、いずれにしても夢が覚めることになる。で、長く関われば関わるほど、夢が覚めた時のダメージが大きいんですよ。

 ですから、Genさんがもしこの先議論していくのであれば、ぬるいビリーバーが生活を破壊するようなディープな方向にはまらないように、どうやって傷が浅いうちに気付いてもらえるかということを考えていただければと思います。


by イカフライ at 2008-02-54 19:25:54
Re:分け方やら対立の深刻さやら

大変失礼な言い方かもしれませんが、「疑似科学」の問題に科学者が出てくる幕は最初のほうにしかない、
というのがわたしの考えです。

ある言説が非科学であるか科学であるかは、実検すればすぐにわかることです。さっさとそのような手続きを踏み、結果を公表すればいいことです。
個別にウソかほんとうかの判断を示せるでしょう。
科学者の出番はここまでです。

なぜなら、この先科学者がいくら「それは科学ではない」と言い張ったところで聞く耳を持たない人も出てくるからです。
そういう人に科学的はなんの役にもたちません。

それともapjさんは「千の風」という歌の歌詞に文句をつけに行きますか?
え? 死んだら朝には小鳥になり、夕方には星になってあなたを見守っているって? ウソです!
これでは関西のぼやき漫才の世界ですう。w

つまりですね。ある言説が科学的であるかないかという問題ではないのだと思いますよ。あれは。
もっと複雑なやばいものを内包していると思います。それもどちらかというと「疑似科学」批判派のほうに。


by 酔うぞ at 2008-02-29 19:33:29
Re:分け方やら対立の深刻さやら

ちょっと前に「ニセ科学批判の対象は科学一般なのか?」という話があって「精神科学などはちょっはずれる」のようことで、「だからニセ科学批判では科学的厳密性だけを論じるのは問題もある」といったところに落ち着いたかと理解しています。

わたしはSF趣味の延長として、コンピュータ・シミュレーションによる未来予測に非常に興味があって、そこから政治や社会学・法学などについても興味が広がった(同一化した)者です。

1960年代70年代にワールドシミュレーションのブームがあって、そのきっかけとなった「成長の限界」はいまだに新刊本として入手できるのですが、実はその直後の研究が「成長の限界」批判から入っていて、将来予測に人の反応を入れないわけにはいかない、教えられました。

成長の限界では食糧問題をカロリーやタンパク質など量として計算していたのですが、社会的な観点からというのは「ヒンズー教地域(インド)でブタが無くなり牛があまり、イスラム教地域(パキスタン)では牛が無くなって、ブタが余ったどうする?」というものでした。

つまり批判として「社会の文化や歴史を考慮せずに地球全体を扱うのは無理だ」ということで、成長の限界の精密さの批判から入ったのです。

批判本としましたが、より研究が高度化したもので、別のシミュレーションをやったということで、批判のための批判本とは別です。

こんなことに知ると、「2.道徳的・政治的な批判」のトーンを下げる・・・」どころか、逆にもっと社会学的・・経済学的・法学的といった側面からの判断・批判を拡充するべきではないのか?という考えも出てきます。

その一方で「科学や技術は社会に対して中立だ」というのが主に開発側の平均的な認識ですから、どこかに「研究としての科学や技術開発」と「社会的・文化的な利益・不利益を生じる科学や技術の乱用」のようなことを区別するところがあるのだと思います。

たぶん問題として注視しなければならないのは、区別があること、区別をどうやってするのか、区別自体に問題がないかを常に検証すること、などの方が重大な事であると考えています。


by apj at 2008-02-45 20:14:45
Re:分け方やら対立の深刻さやら

>そういう人に科学的はなんの役にもたちません。

 間接的に役に立つというか、害を及ぼします。
ニセ科学な研究テーマの方に研究費をつけることを決断するといった形でね。

>それともapjさんは「千の風」という歌の歌詞に文句をつけに行きますか?

 この文脈でこんなことを持ち出すって……小学生の屁理屈ですか?


by Gen at 2008-02-22 20:52:22
Re:分け方やら対立の深刻さやら

しもふりさん

>こういった想像力の欠如というのも「人文的な」ところできちんと議論してほしいと思うのですが。

了解しました。

>政治的な問題云々については、そもそも「どういった法体系であることが社会にとって最善であるか」というのは立派な社会「科学」的な問題で、管理人さまの定義されるところの「ニセ科学」批判というのもそういった点で社会科学的な問題だよねえ、と私は考えています。

まったくその通りだと思います。ただし、自然科学的な科学合理性の問題と、社会科学的な社会合理性の話を、分けて考える必要はあるかと思います。

apjさん

>ですから、Genさんがもしこの先議論していくのであれば、ぬるいビリーバーが生活を破壊するようなディープな方向にはまらないように、どうやって傷が浅いうちに気付いてもらえるかということを考えていただければと思います。

科学であると誤解されていることが被害を発生させているような状況については、まったくおっしゃる通りだと思いますし、その筋で考えていきます。しかし、「血液型性格判断を信じている奴って馬鹿だよね」とやったりする洗練されていないニセ科学批判者(もどき)に対しては、これからも何らかの声を上げ続ける必要があるのかとも思います。

酔うぞさん

>「2.道徳的・政治的な批判」のトーンを下げる・・・」どころか、逆にもっと社会学的・・経済学的・法学的といった側面からの判断・批判を拡充するべきではないのか?という考えも出てきます。

おっしゃる通りだと思います。「2.道徳的・政治的な批判」のトーンを下げる・・・」については、「血液型性格判断を信じている奴って馬鹿だよね」とやったりする連中を想定しながら書いたものですが、ニセ科学批判の専門性を深めていくためには、上記の指摘は全く妥当なものであると考えます。


by しもふり at 2008-02-54 21:30:54
Re:分け方やら対立の深刻さやら

Gen様

>自然科学的な科学合理性の問題と、社会科学的な社会合理性の話を、分けて考える必要

があるかどうかについて、私は「ない」と考えています。

科学というのは「事象を誰もが同じように理解するための共通言語」であると私は考えていて、それは社会科学だろうが人文科学だろうが自然科学だろうか変わりありません。

こういった科学を技術なり法規なり倫理なりといった方面で活用するにおいては、これまで「確かだろう」と科学的な手続きを経て(つまり、誰もが同じように理解できる科学という共通言語を用いて)納得されてきた事柄を敷衍して考えた場合において、「現状ではこれが最善」という最適解を提示する方向で行われてきたと理解しています。

ですから、科学的な知見に誤りがあることが判明したり、あるいは新たな知見がもたらされた場合には最適解が変更されてくるわけで、それで医療技術も変化してきただけでなく、人権をどう守るかとか、異文化がどう共存するかとか、そういった人文・社会方面の方法論も変化してきたのではないでしょうか。

ニセ科学に戻しますが、消費者をだまし害を及ぼしたり、あるいはそのような可能性があるものについて一定の規制をするというのが「最適解」であるというのは、社会科学方面で「消費者の権利や保護」という内容が「そういったものが社会存立のために必要だ」ということが確認されてきたからではないでしょうか。

その意味で「科学を装うことで消費者をだます」というニセ科学に対する批判が自然科学の枠にとどまっていないのは、社会「科学」的にはむしろ「消費者保護をしたほうが社会の存立上有利」という現状での最適解にかなう行為といえるんじゃないかと思うのですが。

個人的な見解なので、政治学方面の方にこの辺の見解を聞いてみたいですね。


by 越後屋遼 at 2008-02-25 23:23:25
Re:分け方やら対立の深刻さやら

>大変失礼な言い方かもしれませんが、「疑似科学」の問題に科学者が出てくる幕は最初のほうにしかない、

>なぜなら、この先科学者がいくら「それは科学ではない」と言い張ったところで聞く耳を持たない人も出てくるからです。

後者が成立する場合、前者は成立しません。
結果に聞く耳を持たれないなら、科学者が努力する必要自体がありません。

>ある言説が非科学であるか科学であるかは、実検すればすぐにわかることです。さっさとそのような手続きを踏み、結果を公表すればいいことです。
個別にウソかほんとうかの判断を示せるでしょう。

すでに腐るほど語られている話なのですが、実験の結果を公表しても無駄な徒労に終わる可能性が否めません。

「私たちが行っている実験と条件が異なる」と言った上で「条件は明示しない」のが、彼奴等の常等手段だからです。

それともapjさんは「千の風」という歌の歌詞に文句をつけに行きますか?

宗教の類や、心の持ちようの話を、科学に持ち込むなと。
こんな例を持ち出して、疑問に思わない時点で、この話題を語れるだけの素養がありません。

以下、ネタ

あの歌の2番の歌詞には
「死んでなんかいません」
という一節が・・・

死んでないとはじまらんやろ!


by 技術開発者 at 2008-02-09 14:35:09
Re:分け方やら対立の深刻さやら

こんにちは、Gen さん。

>これらいわば「ニヒリズム」に関連した問題を、いかなる種類のビリーバーに対していかなる説得が効力を持つのかについて、具体例に則しながら、掘り下げて考えてみます。

その前に「ニヒリズム」についてきちんと人文学的に掘り下げられることをお勧めします。現代における「ニヒリズム」はニーチェなどのニヒリズムとは様相を異にしている感じを受けています。むしろスティグレールの言う「象徴的貧困」の表れがニヒリズムと似た形をとっているにすぎないのではないでしょうか?

「象徴的貧困」の根底には「欲求の商業化」という問題があるとされますが、それについて人文学的なお考えをお聞かせ願いたいところです。


by 技術開発者 at 2008-02-31 22:19:31
Re:分け方やら対立の深刻さやら

こんにちは、皆さん。連投になりますが、Gen さんはどうやら、心理学についてはお詳しそうなので、心理学的な考察を述べてみますね。

私は、今の日本の一応、大人とされている人の幾分かが、モラトリアム期である青年期にきちんとアイデンティティーの確立に至らないまま、形だけ大人になっているのではないかという疑問を持っています。そのことに付いて少し説明してみますね。

小学校の児童たちは、先生に問題を示されるとひたすら当てて貰おうと手を挙げたりします。それが思春期にさしかかる中学生くらいになりますと、問題が解けていたって手なんか挙げやしません。こういう変化を説明するために思春期前半における「自己愛傾向」なんて話があるわけです。まず、自分が無謬でなくてはならないと思い、自分が誤謬を犯す事に耐えられないような心理になるわけですね。また、自分の中の子供っぽさみたいなことにも非常に強い嫌悪を示すようになります。これは素直な発達過程でして、そういう自己愛傾向と自己嫌悪傾向を青年期という中でうまく調整できるようになることで自己同一性つまりアイデンティティーが確立してくるわけです。

こうやってアイデンティティーを確立した大人というのは、自己の誤謬に対する他者の指摘なども素直に昇華できるわけです。「そんなこと信じるなんて馬鹿だなぁ~」みたいな誤謬指摘であっても、「これは、自分の間違った部分に対しての指摘であり、自分の人格否定をしている訳ではない」と整理できるわけです。なぜなら、青年期を通じて自分自身の中で沢山の肯定と否定を繰り返すことで、しっかりとした自我を確立しているので、他者から少々人格否定的な発言を言われたからといって、それがそのまま自らの人格否定とはならないだけの整理の道筋を確立しているからです。

私が、今の日本人の大人の幾分かは、そういうアイデンティティーの確立に失敗しているのではないかと思うのは、Gen さんの様に、「人格否定を含む発言は人格否定である」と素直に置いてしまう事に、なんら違和感を感じない人をみる事によります。つまり、今の日本の大人には、まだ、青年期後期の自己の確立に失敗している人がいることを言われている様に見えるわけですね。

人文学的な議論を必要とされている様なので、とりあえず書いてみました。


by Gen at 2008-02-34 10:12:34
Re:分け方やら対立の深刻さやら

>技術開発者さん

スティグレールについては消化し切れていない部分がありますので、言及は控えさせてください。科学(的言説)を冷たいものではなく人々にとって親密な存在にさせるに当たって、どのようなロジックが説得力を持つのかという問いは、具体的なコンテクストを限定した上で論じなければ非生産的になってしまうと思いますので。

心理学的な論点に関しては、私は精神分析学的な理論分析をあまり信用していませんので、実験心理学・認知心理学・進化心理学的観点からの考察が重要であると感じています。端折って乱暴に説明しますと、1.人間は進化的に培われた素朴心理学的な傾向を持っている(確証バイアス等)、2.「科学的なものの見方」は、素朴心理学的傾向と相容れない部分を持っており、トレーニングを積まないと獲得しにくい、3.したがって、「科学的なものの見方」に関する言説は、トレーニングを積んだ者が積んでいない者に教えるという啓蒙的な構造をとりやすい、4.したがって、なにか押しつけがましいものに感じられがちだ、ということです。つまり、素朴心理学的な傾向は、サバンナ環境下では合理的(適応的)であったが、現代社会においては非合理的な役割を果たす部分もある、ということです。

事実誤認を指摘するだけではなく、明らかに人格否定的な発言を行う者もいるわけで、一概に論じることはできない難しい問題であるとは思います。


by 技術開発者 at 2008-02-45 17:17:45
Re:分け方やら対立の深刻さやら

こんにちは、Gen さん。

>スティグレールについては消化し切れていない部分がありますので、言及は控えさせてください。

私は「見ずに落ちた犬は叩く」という性格ですから・・・。ご自身でも反省されている様ですが、ニセ科学の批判者を「社会科学的な考察ができていない」と批判された時には、ニセ科学批判について「充分に消化して」批判されたという事でよろしいでしょうか?

>事実誤認を指摘するだけではなく、明らかに人格否定的な発言を行う者もいるわけで、一概に論じることはできない難しい問題であるとは思います。

社会科学的な考察においては、その事象の頻度や強度とその影響について考察する事が必要だと考えています。しかしながら、Gen さんの「明らかに人格否定的な発言を行う「」とのみ書かれ、その頻度や強度、及びそれに伴う影響についての量的な考察が見あたりませんので、Gen さんのお考えによれば、「いかなるささいな、人格否定も世の中にあってはならない」というお考えだろうと推察致します。

私は、そのような、「いかなるささいな、人格否定も世の中にあってはならない」というお考えは、社会科学的に「間違い」だと考えます。例えば、落語には「担ぎ屋」などいう話があります。忌み言葉などを気にしすぎる商家の旦那を下男が様々に馬鹿にする話です。もちろん、そこには商家の旦那に対する人格否定の要素があります。当然、「いかなるささいな、人格否定も世の中にあってはならない」とお考えのGen さんにおかれては、「このような落語は永久に上演してはならない」と言われると思います。

なんて言いますか、社会というのは本質的に不合理さを持っています。忌み言葉などの不合理さにしても結婚式などの単発の行事で、新郎新婦の将来を言祝ぎたいという意思の表れとして、出席者が自主的に自粛するならなんら問題は無いけれども、商家の主人が自らが気になるからと、勤める者たちの一言一句まで文句を言うようだと社会的に問題であるわけですね。そして、そのような行きすぎを避けるという目的で、「担ぎ屋」などの落語では嗤い者にされるという形を示すわけです。

なんて言いますか、社会には「そんなことをしたら世間様から嗤われるよ」みたいな風潮というのはかってはあり、それは、社会の不合理の増加を抑止する抑止力の一端を担っていた面があるわけです。もちろん、その抑止力の元となる「不合理なことにのめり込む者を嗤う」という行為も論理的に考えるなら、一種の不合理性を持っている訳です。

もともと人間の社会は、人間の持つ不合理性を利用することでもっと重大な不合理が社会に蔓延することを防ごうとする形があるわけです。そういう社会の成り立ちを無視して、一面のみを取り出し「これは不合理である」と排除するなら、人間社会はもっと大きな不合理にのみこまれるであろうと考えています。

Gen さんは、ご自身ではなんら「社会科学的な考察」を提示されることなく、「ニセ科学批判者は社会科学的考察ができない」ニセ科学批判者の人格を否定するかの様な、発言をされたので、とりあえず、社会学的な考察を述べてみました。


by A-WING at 2008-02-35 18:44:35
Re:分け方やら対立の深刻さやら

Genさん、はじめまして。

啓蒙を、「押し付け」と感じる主体について考えることも、重要だと思います。

最近は、「自分らしさ」とか「本当の自分」などといって、あらゆる感じ方を肯定する世の中になっているようなんですが、そのうち、濡れた障子紙の上を全力疾走させられるような世の中になったりするんじゃないかと、私はうっすらと気になっています。


by Gen at 2008-02-53 19:26:53
Re:分け方やら対立の深刻さやら

技術開発者さん

>ニセ科学の批判者を「社会科学的な考察ができていない」と批判された時には、ニセ科学批判について「充分に消化して」批判されたという事でよろしいでしょうか?

何度も言及していますが、コンテクストの限定が不十分であったためニセ科学批判全般を批判しているかのように捉えられてしまいましたが、その点については訂正しました。

諸々の社会科学的な分析や不合理と合理の問題は、具体的事例について行わなければ非生産的だと思いますので、このコメント欄での議論は打ち切りにさせてください。

A-WINGさん

>啓蒙を、「押し付け」と感じる主体について考えることも、重要だと思います。

たしかに、発言者に相手を嘲笑する意図がなくても「嘲笑された」と意味づけされてしまうケースは多々存在するわけで、「押し付け」と感じる主体、ないしそのような主体を構成する社会的な構造について考察する必要があると思いますし、これから考えていきたいと思っております。


by キタヤマ at 2008-02-06 22:12:06
Re:分け方やら対立の深刻さやら

こんにちは。技術開発者さん、非常に僭越ですが、老婆心から、一言申し上げます。
>私は「見ずに落ちた犬は叩く」という性格ですから
と自覚されているのでしたら、程々にされた方が、よろしいかと存じます。
そのようなお気持ちで書かれたものは、
>自分の主張は、疑似科学批判側と疑似科学信仰者のあいだに芽生えている相互不信というかディスコミュニケーションを改善するために、「2.道徳的・政治的な批判」において、疑似科学批判者側が「自分たちは絶対に正しく、有能だ」と思う気持ちを封印して、より対話的な態度を取ろうではないか、ということでした。
というような感想を、再生産してしまうおそれが、あると思います。それでは、技術開発者さんにとっても不本意な結果かと思います。


by apj at 2008-02-29 23:00:29
Re:分け方やら対立の深刻さやら

キタヤマさん、
 ここで技術開発者さんの弁護をするのも何ですが、技術開発者さんが「見ずに落ちた犬は叩く」というのは、疑似科学批判批判(敢えてこう書きます)という、疑似科学と偽か学批判の両方を本当に詳しく知った上でよく考えないとできないはずのことをしている人が、調査不足や思慮不足により主張の内容が十分で無かった時に、議論の穴を追求するといった意味だと受け取っています。

 技術開発者さんが、たとえば、誰かに騙されて、あるいは個人の思慮の足り無さから疑似科学信仰者になってしまった人に対して「見ずに落ちた犬は叩く」という態度をとられるとは思えません。かつて、法律も契約も知らないことにつけ込まれて悪徳商法の被害に遭った人達に、どうやって対処するか考え方を懇切かつ丁寧に説いておられました。

 疑似科学を信じてしまう人に対してはケアが必要だと思います。人間誰でも判断力が鈍ったり、苦手なものがあったりするのですから、少しは情けない思いをするとしても、こちら側に戻ってきてもらえるように手を差しのべないといけない。
 しかし、「批判者」に対しては、思慮が足りなかったり議論が甘かったりした場合には、遠慮無く突っ込んでも良いのではないでしょうか。その人は、自由意思で批判者になることを積極的に選んだわけですから。


by とりばち at 2008-02-28 02:30:28
Re:分け方やら対立の深刻さやら

私は難しいことはわかりませんが
ニセ科学批判してる人の態度は
手を差しのべるといったやさしいものではないですね。
ひたすら相手を打ち負かす。論破する。
こういったことに喜びを感じたいだけにみえる時が
ありますが。自分もいつでも騙される不完全な
人間であるといった謙虚さがないでしょうね。
ニセ科学批判をしてる方は
自分達が外からどうみえるかという点を
軽視してると思いますがどうでしょう?


by apj at 2008-02-51 02:40:51
Re:分け方やら対立の深刻さやら

とりばちさん、

 具体的にどなたが行ったどの批判活動のことでしょうか?


by 技術開発者 at 2008-02-44 02:41:44
Re:分け方やら対立の深刻さやら

こんにちは、キタヤマさん。

>>私は「見ずに落ちた犬は叩く」という性格ですから
>と自覚されているのでしたら、程々にされた方が、よろしいかと存じます。

なんていうか、博士課程の学生さんが始めて投稿した論文の査読を頼まれたりすると、その論文に10カ所良くないところがあれば10カ所指摘しますよね。でもね、普通のこんなブログのコメント欄のイチャモンでは、そんなに丁寧には問題点指摘はできない訳です。「一を聞いて十を知ってくれ」という感じで指摘する訳ですよね。

でもって、論文の査読なら10カ所問題点の指摘があったら10カ所とも反論するなり訂正するなりの対応が無いと通せない訳ですが、こういうブログだと、その指摘した部分をピントがぼけた様な返答であっても、「ここが軽率でしたから訂正しました」とやられると、なんとなく「真面目に対応した」様に見えてしまいますよね。でもね、それは実の所「とても不真面目な対応」に過ぎないわけです。なぜなら、それ以外の「自分は考えが足りないのでは無いだろうか」と考えさえすれば分かる議論の穴は放りっぱなしだからです。単に「自分はちゃんと指摘を受ければ訂正もできる立派な論客だ」という思い上がりを増長しただけの「考える力のない人」の論であることは変わらない訳です。

まあ、本来なら「放っておく」方が無難なのですけどね。なんとなく、そういう「考えさえすれば気が付く議論の穴」を放りっぱなしで、「自分はよく考えて居るぞ」という思い上がった態度が鼻についた面があって、イチャモンを付けてみた訳です、「こういう事は考えてみましたか」みたいな水を向けるやりかたでね。まあ、これだけ思考能力に難がある人だと予想された通りの「考えることから逃げ出す」返答しか無いわけですけどね。

ただ、その時にそういう議論を読んだ人は「技術開発者は訂正までしている人にしつこいな」と思われるだろうという思いはあったので、そう思われても構わないことの表明のつもりで書いてみたのが「水に落ちた・・・」です(笑)。


by TAKESAN at 2008-02-45 04:05:45
Re:分け方やら対立の深刻さやら

今晩は。

>とりばちさん

何で、そんな断定的表現なのですか?
で、断定的な言い方をする前に、「私は難しいことはわかりませんが」、という書き方をするのは、あまりよろしく無いのでは。

論理的には、ご指摘のような批判の仕方をする人がいない、とは言えないから、まあ、そういう人もいるでしょうね、としか、返しようがありませんよね。

で、仰るような態度を採った批判者の具体例なりを、教えて頂きたいです。

批判をする人間が、皆同じやり方だとは言えないと思いますが、その一般化したような仰り方には、違和感を覚えざるをえません。

後、対象によっては、論破を目的とする事も、ありますよ。ニセ科学を肯定的に捉える人にも色々いる、という事が、あまり考えられていないように見受けられるのですが、いかがでしょうか。その前に、「ニセ科学」にも、色々ある訳ですけれど。

仮に、「一部にそういう人間がいる」、というご主張であるとしても、そのコメントの書き方は、誤解を招くようなものであると感じます。


by TAKESAN at 2008-02-22 04:11:22
Re:分け方やら対立の深刻さやら

あ、自分の認識を書くのを忘れていました。

※まず前提。
私は、自分のブログで、ニセ科学を批判している者です。

とりばちさん
▼▼▼引用▼▼▼
ニセ科学批判をしてる方は
自分達が外からどうみえるかという点を
軽視してると思いますがどうでしょう?
▲▲引用終了▲▲
軽視などしていません。戦略を誤り、結果的に悪い印象を与える事は考えられますが、批判している自分がどう見えるか、という所を考えない事など、あり得ません。論駁のみが目的では無いので、それは当然の事です。


by A-WING at 2008-02-40 05:24:40
Re:分け方やら対立の深刻さやら

>とりばちさん

対象をぼかした一般論としてお書きだと思いますので、私も一般論として書きます。

私も素人ながらニセ科学批判のようなものをさせていただいてるんですが、「相手がどう感じるか」というのは、いつも考えてます。

とりばちさんが上げられた「ニセ科学批判者の態度」は、私が日ごろ、「ニセ科学を信じてやまない人はニセ科学批判者をこう見ているんだろうな」と想像するところそのものでした。
ですから私は、「そうお感じになるのはもっともだと思います」とお答えします。

でも同時に、私は、だからといってこちらではどうしようもないだろうな、とも思っています。なぜなら、私が、ニセ科学を信じてやまない人と接してきた印象では、彼らは、論破されることや、間違えることが嫌いなのであって、真実が何かということには、まるで興味がないのではないか、と思えるからです。

もし私の感じ方が間違っていないとすれば、ニセ科学を信じてやまない方は、こちらがどのような表現を用いて説得、説明を試みようとも、永遠に傷つきつづけるのだろうと思います。


by apj at 2008-02-45 05:24:45
Re:分け方やら対立の深刻さやら

TKESANさん、

>論駁のみが目的では無いので、それは当然の事です。

 この部分に同意です。

 論駁のみが目的なら、ニセ科学批判はしない方が一般には無難だろうということもあって、このエントリーを書いたのですが。

 でもって、今私がどういう紛争をやる羽目になったか見ていただければ、単に「ひたすら相手を打ち負かす。論破する。こういったことに喜びを感じたい」などという理由で批判をやるのは、少々リスクが高すぎると思うんですよね。

 信じていたニセ科学が否定された=自分の人生観が否定された、と受け止める人が相手なら、単なるネットバトルやblogバトルで済みますが、ニセ科学に生活がかかっている人とニセ科学に騙されると生活が破壊される人が両方居るようなところでニセ科学を批判すると、相手によっては裁判所でバトルすることになりますから。


by 酔うぞ at 2008-02-40 08:08:40
Re:分け方やら対立の深刻さやら

批判をする理由の一つは、今日書いたわたしのブログの記事ともかなり近い(ほぼ同じ)だと思うのです。

霊感番組問題 http://youzo.cocolog-nifty.com/data/2008/02/post_143d.html

確かに、世の中には永久機関を発明したと言う方は後を絶たないわけで、そのほとんどが別に世間に迷惑を掛けないのですが、それでもかなりきわどいところにいることに代わりはない。

先日、紀藤弁護士が「霊感商法に統一すれば良かった」と言っていました。
これは、足裏診断とか色々なインチキ宗教まがい事件に別々に名前を付けていたから、毎回「新しい事件か」と思われてしまって「また似たような事件だ」と思われなかった、というのです。

それで「連関商法」に統一するべきだということなのですが、同様の意味で「ニセ科学批判」に統一するべきなのでしょう。
そうすれば広く一般の理解が進む。

それを「水だから」とか「磁気だから」とか分けていると、一般的な理解としては「水の問題だから磁気は関係ない」となってしまうでしょうね。

なんで統一するべきかはわたし書いたのですが、霊感商法では結局は言葉を作ることで「今までとは違う」と思わせるわけですが、最終的には多額の金銭被害が出るわけです。
それだけは変わらない。

結果が同じなら、そのプロセスの違いも「霊感商法」でまとめてしまった方が、被害防止には有効だ、ということです。

こういう面を考えると、先に挙げた「無害なニセ科学」も抑止するべきだし、それは「あなたのやっているはニセ科学です」と指摘することにはなるでしょうね。
要するに、個別の事情や研究とは別にまとめて発表することも不可欠だろう、ということです。