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大学で義務教育の尻ぬぐい

Posted on 2月 28th, 2010 in 倉庫 by apj

 毎日新聞の記事より。

25時:言霊とミカン /宮崎

 ミカンに「ありがとう」「死ね」と話し掛け、変化の有無を観察する「言霊(ことだま)大実験」が昨秋、県南地域の中学校であった。言葉の大切さを考える道徳学習だという。

 対象はビンに入れた3個のミカン。約2カ月後、生徒から悪い意味の言葉を掛けられた方が腐り始めた。良い言葉の方は変化なし。発案した教諭、そして多くの生徒が「言葉が伝わったのでは」と思ったという。

 言霊とは、言葉が霊的な力を持つという信仰だ。そして人は、古くから森羅万象に魂が宿ると信じてきた。位田晴久・宮崎大学教授(野菜園芸学)は「園芸作物を育て、心の癒やしや安らぎを得る効果は間違いなくある。若い世代が事実の検証を重ねて不思議な現象を明らかにすることに期待したい」としたうえで、「植物に人間の言葉の持つ意味を理解する器官は確認されておらず、現時点で真理として教えるのは適切ではない」と指摘する。

 大阪大の菊池誠教授(物理学)も「ミカンはただの物質で、言葉の影響を受けるとは考えられない。少数での実験結果は偶然に左右される。気持ちはわかるが勇み足だ」と疑問視する。

 子供の理科離れが指摘されるなか、真偽不明の事柄をあたかも事実のように扱うことには違和感がある。心に平穏を与える宗教やおとぎ話を否定はしないが、世間には科学や善意のふりをしたまがい物が数多くあるからだ。

 病気や美容への効果をうたう商品やサービスを巡る詐欺的商法は後を絶たない。中学生も数年後には社会人だ。「愛の言霊パワーを封印した限定商品をわずか10万円で」と勧められた時、冷静に判断できるか。健全な批判精神を養うことも、教育には必要ではないだろうか。【石田宗久】

 まだ、「水からの伝言」から派生した「みかんに声かけ実験」を、義務教育の道徳で教えている教員が居るらしい。
 私の方では、大学の共通教育で水からの伝言を取り上げて、「科学として間違いで国語としてもダメで道徳としては不道徳な内容」とやってるわけだけど、義務教育が未だにこれでは、当分この内容を教材から外せそうにない。来年度は、水だけではなく、ミカンやごはんの話も取り上げた方が良さそうでさる。

 結局、大学までたどりついて(私の講義を履修した人には)「道徳でやった内容は実は大嘘で、話の内容は極めて不道徳だ」と教えることになる。健康への効果を謳う「波動関連商品」についても摘発の経緯を説明しているし、そのことと、声かけ実験道徳のベースになっているのが「波動」で、道徳の授業のはずが、インチキ波動商品を売ることに荷担する内容でしかないことまで説明している。詐欺の被害者が出るのを防ぐという意味もあるのだが、受講生には教員を目指す人だっているので、そういう人が、将来、この手の内容を授業でやらないように、ということも狙っている。

 つまりは、義務教育で行われた道徳教育の嘘の尻ぬぐいを大学ですることになっているのである。この手の内容を道徳で教えるというのは、道徳的にはじゅうぶん非難に値する行動だと、今年からはっきり言うことにしよう。そろそろ、いい加減にしてもらいたい>小中高で道徳教えてる先生方。


ここからは旧ブログのコメントです。


by tsrg7 at 2010-02-15 23:58:15
Re:大学で義務教育の尻ぬぐい

腐敗するしないを基準によい悪いを判断するのはもう定番の手法ですね。
ファーストフード批判とかコンビに批判とかにも使われますがこのときはよい悪いが逆転しているのがおもしろい。
今時自然発生説とかパスツールに喧嘩売ってんのかと思います。


by もとエスペ at 2010-03-31 00:25:31
虚構新聞の方がまし

セミに「ありがとう」 平均寿命の4倍長生き
———————————–
 「ありがとう」「大好き」など、セミの幼虫に毎日肯定的な言葉で呼びかけると、普通のセミの4倍以上長生きすることが、千葉電波大学・日暮和義教授(昆虫学)の研究で明らかになった。論文は英科学誌「フェノメノン」3月増刊号(電子版)に掲載される。

 日暮教授は1981年、ニイニイゼミの幼虫2匹をそれぞれ自然界の環境を再現した大型飼育ケースに1匹ずつ入れて飼育。その際、一方のケースには「ありがとう」「好き」「がんばって」など肯定的な言葉を書いた紙を、もう一方のケースには「死ね」「バカ」「消えろ」など否定的な言葉を書いた紙をそれぞれ貼り付けた。また同様にして、一方には「がんばれ」、もう一方には「死ね」と、飼育ケースに向かって毎日同じ時刻に声をかけた。
 その結果、否定的な言葉を投げかけたセミの幼虫は7年後の1988年、地上に出て羽化。そのまま脱皮して成虫に育った。体長や外見などは普通のセミと変わらず、羽化後8日目に死亡した。
 一方、肯定的な言葉をかけて育てたセミの幼虫は飼育開始から30年近く経った2010年現在もまだ地上に出ておらず、幼虫の状態が続いていると考えられる。生存が確かなら、否定的な言葉で育ったセミの4倍以上土の中で生き続けていることになる。
 日暮教授は、セミがこの先何年生き続けるか分からないため、研究の中間報告というかたちで研究論文を執筆。論文では「セミAはすでに30年近く土の中にいることから、肯定的な言葉に含まれる波動の意志がセミの寿命に働きかけを行っているのは明白である」とし、「今後はこの成果を日常に応用することで、寿命におけるメリットだけでなく、教育・道徳的にも有用な効果が期待される」と結んでいる。
 「セミの生存は確認できているのか」という本紙の取材に対し、日暮教授は「飼育ケース内の環境を維持するため、実際に土を掘って確認することはできないが、私にはセミの生命力の波動が毎日ひしひしと伝わってきている」と話し、セミの生存を確信しているとの認識を示した。

(虚構新聞 http://kyoko-np.net/2010020901.html )


by 酔うぞ at 2010-03-02 03:22:02
しかしさ

水伝も同じだけれども、この授業は道徳の授業として成立するものなのか?

本質的には偶然というか錯覚だよね。

手品の方がタネがはっきりしているからまだマシだけど、手品奇術のたぐいで「正解した人は・・・・」とかやったら詐欺だろう。
詐欺じゃなければ、いかさま呼ばわりされる。

それが、単なる偶然で「だから・・・・」というのは、欺す意図はあっても、仕組んではいないのだから、単なる脅しじゃないのか?

「悪いことをすると鬼が来るよ」といった寓話と、偶然を組み合わせたものか?
そういうのを道徳教育というのか?

下手すると、道徳教育だと言っている連中の頭の中は「世の中には科学的に立証されていない事実があるから、科学の実験でなくて道徳と呼ぼう」となっているのではないのか?


by zorori at 2010-03-56 03:50:56
教育における「実験」とは・・・

同様の実験が日本国中で行われているような気がしてきました。
おそらく、その半数は「ありがとう」の方が早く腐ったんだけど、実験の失敗ということで忘れ去られてしまったんでしょうね。

で、学校の「実験」は実験ではなくてデモンストレーションであるという議論が以前にあったことを思い出しました。最初から正しいん実験結果は決まっていて、そうならない場合はデモンストレーションの失敗として処理されます。そういうところにも遠因があるのかもしれません。


by 杉山真大 at 2010-03-44 05:11:44
そもそも道徳という科目に問題があるのでは

いわゆる公衆道徳とかモラルの問題って、こんなオカルトの問題を持ち出さずとも例えば法の問題とか社会の成り立ちとかを一から考えさせれば済むんじゃないかと、個人的には思っちゃうんだよね。

それをお手軽な偉人伝とか美談とかオカルトで済ますから、下手すると出鱈目を信じてしまったり場合によっては得手勝手な独り善がりのを社会全体に押し付ける愚を犯すのかも。


by Isshocking at 2010-03-36 05:36:36
Re:大学で義務教育の尻ぬぐい

「ありがとう」と声をかけたら腐敗菌も喜んで増殖が活発になるとは
考えんのかね。


by エディ at 2010-03-19 06:07:19
Re:大学で義務教育の尻ぬぐい

こういうのを信じてしまう人は、「『ありがとう』と声掛けをしながら作りましたので、賞味期限・消費期限を従来より○○日延ばしました」なんて食品や、「録音したあなたの声で24時間『ありがとう』と声掛けをして、食品の鮮度を伸ばします」なんて冷蔵庫が売られていたら、信じて買っちゃうのかな?


by aSTN at 2010-03-49 18:35:49
Re:大学で義務教育の尻ぬぐい

はじめまして。以前から愛読させていただいたものです。
私は1985年生まれですが、道徳の授業では、ニセ科学に限らず少数例を誇張したエピソードや、お涙頂戴、ウソ(金八先生の漢字解説みたいなのとか)が蔓延していて問題が多かったと思います。
受け持ちの先生によってあまりにも授業の質が変わってしまうのは機会の平等にも反する由々しき問題だとも考えています。


by 杉山真大 at 2010-03-21 22:11:21
元を正せば、社会科外しだったからなぁ・・・

>aSTNさん
そう言えば、道徳科目が出来たのって社会化教育を削る一環だったりしたんですよね。
戦後社会科が出来たけど、その内容が社会批判だったり政府批判だったりして評判が宜しくない→道徳で世間様のルールを教えてやろう、ということだったのですから。、


by 酔うぞ at 2010-03-45 22:48:45
社会道徳を教えること

社会道徳教育というのは、学校教育は30%かそれ以下。
家庭教育、社会教育で行うべき部分が半分以上だろうと思っています。

ところが、真っ先になくなってしまったのが社会教育です。

家庭教育は元もと各家庭でバラバラなものだし、家庭はそのものが消えない限りは、子どもたちにそれなりに家庭内のルールなどを教え事は無くならいだろうから、そう極端に変化しないでしょう。

社会教育つまり子どもたちが社会をのぞき見るという機会そのものが、恐ろしく減ってしまって、子どもから見ると社会どういう仕組みで動いているのかが分からないのだと思います。

「ウソをついてはいけない」といったことは、言葉の上の問題ではなくて、ウソをつくと社会(コミュニティ)から相手にされなくなる、という現実的な問題なのだから、子どもの社会が円滑に機能していれば、わざわざ教えなくても失敗から学べることでしょう。

そこを無理に教えようとすると、その内容がインチキとか詐欺になっていくわけです。

で、教育全体で見ると、例えば割り算を知らない子どもに延々と引き算をさせて、種明かしとして「割り算があるよ」という教え方は、あっても良い思う。

しかし、種明かししたら「根拠ありません」という授業は、(ニセ)科学であろうが、道徳であろうが、授業としてやってはいけないことでしょう。


by 杉山真大 at 2010-03-47 04:34:47
その社会教育が問題

>酔うぞ氏
>>社会教育つまり子どもたちが社会をのぞき見るという機会
現実の社会教育がそうなってない、という感があるのですよ。社会の現実とか成り立ちとかを捉えるのではなく、どちらかというと俗流の道徳ネタとか美談が中心だったりする訳で。
しかも「ウソをついてはいけない」と言うのとは裏腹に、社会自体が一種のウソで成り立ってしまっている側面もあったりしますしね。


by apj at 2010-03-05 07:08:05
「心のノート」が大コケ

STNさん、酔うぞさん、杉山真大さん

 まともな道徳の授業が行われるように、というつもりで、文部科学省が「心のノート」を作って配りまくったんじゃないですかね。
 私も、小学生用の3冊と中学生用のものを買って先入観なしに読んでみました。
 そうしたら、どう見ても「自己啓発セミナー」ぽい内容の方が多くて、社会の成り立ちを論理的に説明して現実とどう向き合うか、という内容になってなかった。ぶっちゃけ、脳内お花畑な内容の連続でした。あんな内容でどうやって道徳を教えるんだ、教える先生の方が気の毒だと思いました。
 結局、と学会本のネタにしちゃいましたが、まあ、そういう代物だったわけですよ。
 思想的理由あるいは政治的理由で反発していた一部教員が居たようですが、そんなこととは無関係に、内容そのものが斜め上向いてるだろうと……。

 それでですね、今手元に「子どもが法と出会うとき 思春期法学のすすめ」安藤 博著(三省堂)という本があるんですが、学校の道徳教育としてはこっちを目指した方が良いんじゃないでしょうかね。法と、道徳・倫理は完全に分離したものではないから、重なる部分を意識しながら、法学習の基盤になるような倫理的道徳的考え方を段階を追って身に付ける、といった形でカリキュラムを組めば、多少はまともなものになるんじゃないかと。少なくとも、声かけ何とか実験が入る余地はないですよ。
 言葉遣いをどうするか、なんてのは、「マナー」の問題であって、道徳や倫理のネタじゃないです。度を過ぎて公然と人を罵れば、違法性まで出てきますが、それが良くないことだという説明をするのには、水もごはんもミカンも要りませんよね。道徳と称して中途半端にマナーを教えようとして妙なことになっている気がしないでもなく。


by 杉山真大 at 2010-03-37 07:39:37
結局、社会科を復権させるしかないのでは

>法と、道徳・倫理は完全に分離したものではないから、重なる部分を意識しながら、法学習の基盤になるような倫理的道徳的考え方を段階を追って身に付ける

要は、それって社会科の範疇って気がしちゃうんですよ。
カリキュラム改訂で理科は増えたが社会は体育以下ってのを、何とかしないことには。


by apj at 2010-03-10 07:51:10
価値判断が入る場合に一緒でもいいのか

杉山真大さん、

>要は、それって社会科の範疇って気がしちゃうんですよ。

 社会科は、地理歴史公民(でいいのかな?)とあるんだけど、公民の一部ですよね。道徳的価値判断が入って来るような内容を社会科に入れることには抵抗があります。国語が同じようなことをやって、無用に国語苦手な人を作り出してしまったということがあります。国語の正解=テクストに対して「古き良き道徳的」読み方をしたものが正解、という「暗黙のルール」が設定されていたために、肝心の日本語のトレーニングとは無関係な部分で、国語の得手不得手が決まってしまった。
 価値判断を含む話をやる科目と、テクニカルな部分重視の科目は分けてほしいんです。


by 杉山真大 at 2010-03-51 20:08:51
価値判断は教えるというより考えさせるもの

社会の成り立ちとか仕組みを教える中で価値判断が絡むのは、敢えて高利を教えるのではなくて予め材料を与えて討議とか議論とかさせる様にすれば良いのでは?

2chでの某宗教スレでユダヤ教やキリスト教を学んだ経験の方の意見を聞いたけど、海の向こうでは聖書の道徳律を教え込むのではなくて寧ろ聖書の内容への疑問や反論を促して議論させて思考を深める、ってのが普通なんですよね。一字一句マジで受け取るのは、実は異端の考えだったりする訳で。


by 酔うぞ at 2010-03-51 09:42:51
Re:大学で義務教育の尻ぬぐい

> 価値判断を含む話をやる科目と、テクニカルな部分重視の科目は分けてほしいんです。

これについては、価値判断をテクニカルにやる、というのが現状じゃないのか?

本式(?)にやるのであれば、ディベートとかリポートといった形にでもして「考えさせる」ことが不可欠だと思うのですが、価値判断を○×で答えさせるようなことにしてるのが、実情でしょう。

その結果、「価値判断を○×答える若者」を大量生産している。

価値判断と、テクニカルなものを分ける以前に、そんな事やってない。


by いろものさんの近所 at 2010-03-17 19:38:17
大学で尻拭いというよりも …

こーゆー授業をする人も大学を卒業して教員免許を取得しているのです。

あるいは、道徳や総合科目を実施する事を決めた方々の中にも、教員養成課程の教員が混じっているのです。

ここ 10年くらいの教員養成過程の制度変更などをみても、わたしはむしろ大学(の特に教員養成課程)に問題があると思ってます。ある種のディプロマミルに近い状況が、教員養成課程で起こってる気がします。


by 杉山真大 at 2010-03-16 17:57:16
そればかりか通信制高校も

「資料屋のブログ」 http://toriaezumitekitayo.blog88.fc2.com/ 経由で知ったのですけど、通信制高校も酷いみたいですね。

不登校生は金(カネ)の卵?500万で卒業証書あげます http://news.livedoor.com/article/detail/2298499/

偏に会社組織だからNGと決め付けられないかも知れないけど、でも矢鱈参入規制を緩くしたところが「学位屋」みたいな悪徳商法の横行を招いているってのは何か危うさを感じますね。