Feed

インチキを教えることを正当化するな

Posted on 8月 1st, 2012 in 倉庫 by apj

DNDメルマガvol.469より。
 記事中に教師の発言として引用されたものがあまりにひどい。

「効果があるかって聞かれれば、比較検証していないのであるって明言はできない。ただ、自然環境の中でEMの効果を正確に検証出来るかって言ったら、それはEMの効果かもしれないし、他の効果かもしれない。そんな事僕たちが検証する立場ではない。学校としては、環境教育の一環としてやっていて、EMに効果があるかどうか云々よりは、子供たちの問題解決の力を養うというのが目的なんです。今教えている内容全て正しいか、科学的に検証したか、どうかって言われたら、そんな事を考えたら何も教育の教材に使えないでしょう。近隣に一生懸命やって下さっている善意の方々がいて、僕たちも何かしら環境保全の為にやらなければならないというところを子供たちに伝えたい。それだけですよ。それが違うと言われたら、教育自体の否定になりますから」と、慎重に言葉を選んだ。

 効果があるかないかはっきりしなくても、この教師は検証をする気はハナからない。効果が無かったとしても「子供たちの問題解決の力を養う」ことができると主張しているわけだが、そんなものを使って一体何の問題が解決するのか。効果があるとわかっているものと適切に使う、でないと問題は解決しないはず。
 善意が全てを解決するという妄想はとっとと捨ててもらいたい。

 ついでにこれは教師ではなく記事を書いた人の主張。

EMの効果かどうか、検証したのか、とか、アホらしいことをいきなり質問するだろうか。

進めてる側が効果なんかどうでもいいと思って居る代物を、何でありがたがって使わなきゃいけないわけ?
 EMによる清潔なプール、って写真まで出ているけど、掃除をしてるんならその効果とどうやって分離するのだろう。

 他にもツッコミどころはたくさんあるけど、とりあえず一部だけ。

 比嘉さんの主張についてはここが詳しい
 著書で以前から万能を謳っているということはここにまとめられている

【追記】
 ちょっと長いの書いた。このエントリーの拡大版というか。

ルールの成り立ちがそもそも違う

Posted on 8月 1st, 2012 in 倉庫 by apj

 「科学者とのコミュニケーションが痛いわけ」を読んで。

 科学哲学者の野家啓一氏は「パラダイムとは何か クーンの科学史革命」(講談社学術文庫)の中で、次のように述べる。「現実の科学者は基本用語の抽象的な定義から出発するのではなく、典型的な問題の解法を学ぶことによって具体的に仕事を進める。『力』や『化合物』といった用語の意味は明示的に定義されるわけではなく、そうした『標準例(standard examples)』を通じて文脈的に理解されるのである。(中略)そこにあるのは、『合意』や『一致』ではなく、むしろ『訓練』である。」

 調べる本が悪かったんじゃないの、としか言いようが無い。

 民事訴訟法について理解するのに法哲学の本の一部を見て知ったつもりになったって多分見当外れだろう。科学も同じで、科学哲学の本を見て科学を知ったつもりになてもやっぱり食い違う。

 引用された例についていえば、力については定義の仕方がいろいろある。物理学では物理用の間の関係性を記述する、しかも精度良く記述することを目指しているので、何を基本的な量とすれば見通しがよくなるかについては、様々な考察がなされてきた。その結果できたものが経験とも見たままともかけ離れたものになっていたりする。それでも、最後は自然の振る舞いを記述し予測できるかという部分でチェックするので、記述そのものについては合意も一致も訓練も必要ない。もっとも、チェックの技術については訓練が必要だし、「自然のチェックを受ける」ことには全員が合意している。
 化合物については、岩波の理化学辞典を見れば定義が出ている。化学の基礎になるのは元素の周期表で、化学操作で元素の単体にわけることができるかどうかで判定している。これが明示的な定義でないなら、何を明示的な定義だというのだろう。

誤解を恐れずにいえば、法律家は、「適正手続き」を大事にする。「適正手続き」とは、情報(証拠)の提供と共有、それに対する評価と十分な議論、一つずつ合意を積み上げていくプロセスのようなものであるが、適正手続きを踏んでいることが、その法システムの答えの正統性の源であり、法システムが出した答えが「真実かどうか」は二の次だ(法のシステムが導いた結論にエラー=誤判=があることは織り込み済み、というわけだ)。

 有斐閣の法律用語辞典で「適性手続」を引くと、デュー・プロセス・オブ・ローに飛ばされ、そちらを見ると、

アメリカ憲法修正五条(「何人も…適性な法の手続によらずに、生命、自由、又は財産を奪われることはない」)、同一四条(「州は、何人からも、適性な法の手続によらずに、生命、自由又は財産を奪ってはならない」)の規定(適性手続条項)による。当初は手続的保証の文脈でとらえられていたが、一九世紀末頃からは実体的正義の保証の観点からもとらえられるようになった。日本国憲法三一条についても、同趣旨と解する説が有力。

とある。
 適性手続の解釈の変遷についてのまとめはこちらが詳しい。

 科学者は反対だ。何より結果が「科学的に正しい」ことが最優先で、「適正手続き」は二の次だ。科学の知識も科学者内部での合意形成という側面はあるのだろうが、「科学的に正しい」答えは、たぶん、適正手続きからは出てこない。

 そもそも、裁判手続の目的は人間の間の紛争の解決であって、自然が従っている規則を調べることではないのだから、違って当たり前である。
 もっと言うなら、ルールの決め方自体が全く異なっている。いくら殺人事件が増えたからといって、法規範を議論するときに「現実に合わないから人を殺していい場合の制限をもっと緩めましょう」とはならないだろう。しかし、自然科学は、自然の振る舞いに合わせて人間の側が近似したルールをどんどん変えて、精度を上げていく。自然と突き合せてチェックするから、科学者内部でいくら合意を形成しようが自然現象を記述できなければそれは精度がわるい記述方法ということになり、著しく精度が悪ければ誤りとして捨てられる。