メモ:御用学者問題とニセ科学問題

「御用学者がつくられる理由」http://www.sci.tohoku.ac.jp/hondou/files/kagaku2011-9-1.pdfについて。

 書きたいことはいろいろあるけどEM菌の話が流れてそっちが先になったりして、考えがまとまらないのでメモ。そのうちちゃんと書く。

○上記の論考は科学と技術の区別ができていない。科学は自然の近似で、技術は科学を使って人に役立てるもの。研究費と知識の伝達以外の部分では科学は人間の価値判断とは本質的に無関係。ただ、どういう方針で観測事実を整理するか、という部分にその時代の恣意性は入り込む(人間がやる以上仕方が無い)が、それが精度の低下をもたらすならいずれ捨てられる。

○非専門家が自らの価値判断を反映して科学技術の意思決定を行う、ということについて、筆者は原発を想定しているようだが、この同じロジックを当てはめると効果のはっきりしないEM菌を教育現場で使うことも正当化されてしまう。また、臨床試験の根拠のない薬モドキや馬鹿健食を使うことを止められない。

○原発の安全評価を例にとっているが、御用でない原子力工学者を維持する努力を怠ったのは「市民」の側でもある。仕事と給料を与え続けない限り専門家集団は維持できない。
 で、結局、「市民側専門家」を担ぎ出して宣伝に荷担させることに成功しているのはニセ科学で儲けている人達ばかり、と……。

○科学というのは自然の近似なので、誰がやろうが近似の精度が一番高いものが良いとされる。複数のやり方があるように見えてもいずれは統合されるか、同じ事の別の表現であるという形で決着がつく。一方、技術であれば、ある目的を実現するのに複数のやり方が同時に存在しうる。

○訴訟は人間の間の紛争に決着をつけるためのものなので、常に科学が使えるわけではないし使うべきでもない。

○訴訟での因果関係の認められ方が科学のものとは違うということについては、たとえ必要な因果関係の立証が科学によらなければ真実がわからないものであったとしても、その立証を課すことが被害者救済を逆に妨げる結果になるから、立証を人工的に制限している。

○YesかNoかを語らせる誘導尋問、とあり、そのような尋問ばかり行われているように読めるが、尋問がすべて誘導尋問ではない。実際に法廷では、我々は実験結果を提出したし、弁護士の尋問も誘導尋問の割合の方がずっと少なかった。必要なら科学的専門性はチェックできるし、別の証人を呼ぶなどしてセカンドオピニオンを双方が出すことも可能。

○たとえば景表法や特商法の運用指針は、法が求める合理的な根拠について、科学・技術分野の研究の現状を踏まえたものを出すことを求めている。この部分では法と科学・技術はすでに共同作業をしている。

○核分裂反応も生成する熱も、何度でどの材料が融けるかも、科学としてはとうに決着がついている。そんな部分は揺るぎようがない。原発がこの先どれだけコケようが、原子核物理学の教科書が書き換わる理由にはならない。が、その知識を使って原子炉を作ろう、となると、作り方がいろいろあって、不具合が出たり事故が起きたりする。そういう不確実なふるまいは人間の工夫次第で変わる部分に依存して起きるし、いくら費用をつぎ込むかということでも結果が変わってくる。

○今回の事故で他人を御用学者と呼ぶ人に限って、非専門家の言うことばかり信じていてしかも主張の内容がかなりの割合で間違っているということをどう説明するのか。
 放射能防護を目的として米のとぎ汁室内散布に走った人が現実に居るわけで、専門家はその方法には何の意味もない上に肺炎や結膜炎などのリスクがあることを指摘したが、なかなか受け入れられなかった。こういうケースをどうするのかが上の論考からは見えてこない。多分、健康被害が出て裁判をすれば専門家が担ぎ出されて「リスクがあって広める側は当然伝えるべき」などと意見をして、場合によっては賠償が認められるのだろうけれども。


ここからは旧ブログのコメントです。


by mimon at 2012-08-30 08:31:30
科学者と技術者の違い

私は、科学者ではなく、技術者ですので、その立場からの意見です。

科学は、自然法則などを「発見」するのが仕事で、技術はその成果を応用して「発明」するのが仕事です。
そうして、それぞれの長い歴史の中で、科学は保守性を忘れない方向に進み、技術は先端性を求めるようになってきました。

福島第一原発の事故直後に、原子炉の専門家が「サプレッションプール」と、間違った表現をしていた事に気づいた人は、私以外には少なかったと思います。
サプレッションプールという構造は、BWRのMARK2型以降に対するもので、福島第一発電所では、6号機だけが該当します。1~5号機はMARK1型ですから、トーラス形のサプレッションチャンバが正しいわけです。しばらくしてから、正しい表現に改まりました。
私は、30年も前の学生時代(すでにMARK1もMARK2も古典でしたが)に原子炉の構造を学んでから、直接は原子炉に関わっていませんでしたから、古くても正しい知識のままでいたわけですが、専門家は、新しいものばかりを相手にしてきたので、普段、使い慣れている表現を使ってしまったのでしょう。

今の仕事でも、たまに若い技師から相談を受けて、私が生まれる前に出版されて遠の昔に絶版になっている、古い専門書を引っ張り出して、「この方法でいいんだよ」とか、教えることがあります。
古典的な技術というのは、今の教科書にすら載っていなかったりするのです。
「温故知新」ばかりでは、技術は進みませんが、必要に応じて振り返ることも大事なんですよね。