「山月記」を久し振りに読んでみた

『「山月記」はなぜ国民教材となったのか』という本をネットで知って読んだ。「山月記」そのものは私の高校の頃の現代国語の教科書にも出ていて,授業を受けた記憶がある。が,もう30年以上前のことで,どんな指導だったかよく思い出せない。今読んだらどう読めるのだろうと思いつつ,青空文庫で読めるのでざっと読んだ。

李徴,悪い人じゃないんだけど詰めが甘いし計画性は無いし自己評価の基準が他者にあるしで,虎のメタファーが何であるかはとりあえず置くとしても,そりゃ虎にもなるわなあ,という納得感があった。

まず,博学才頴とあるから,李徴は勉強ができて優秀な人である。無事に試験に受かって官吏になって生活も安定した。ところが,官僚のままダメ上司に従うよりは詩人として名を残したいと考えて,妻子持ちなのに仕事を辞めちゃった。ひたすら詩作に耽った,とあるので,作品を量産してはいるようだから,単なるワナビーではないといえる。

サラリーマンしてるけど作家になりたいとか漫画家になりたいとか言う人,今の日本にもいっぱい居るが,いきなり仕事辞めて創作にふける人は少ないはずだ。創作系の仕事は兼業で始められることがほとんどなので,今の仕事に不満があっても,まずは作品を作って売ることを考え,売り出してやっていける見通しが立った後で仕事を辞めるというのが,計画性のある考え方だろう。売れるかどうかもわからないのに先に官吏を辞めちゃった李徴は,まるで計画性が無いしリスクヘッジもできていない。

なお,李徴のかみさんは割とよくできた人らしい。生活の安定してる官吏だと思って結婚したら,ダンナが詩人になると言って仕事を辞めちゃって,貧乏一直線という状況で,それでも別れずに居たのだから。

詩人を目指した理由にそもそも問題がある。「詩家としての名を死後百年に遺そうとした」が理由となると,李徴にとって,詩は後世に名前を残す手段に過ぎなかったことになる。詩が好きでたまらないから,とか,書かずにいられないから,とか,書いてるのが当たり前だから,という理由ではないのである。

詩の方で認められず,生活が困窮したので,もう一回官吏になってみたら,かつての同期,しかも自分より出来が悪いと思っていた同期が今は上司,という関係になっていて,なんで俺があんな無能の命令きかにゃならんのかとストレスと溜めた挙げ句に失踪しちゃった。次に人前に出てくるのは虎になった後である。

李徴の考え方には,自分は人より優秀だという思い込みがまずある。実際優秀だから全く根拠がないわけではない。李徴という人は,自分が他人より優秀だということが他人からも認められていることを自分で確認できると満足する。他人相手にマウンティングして自分が上だ,という状態でないと満足できないのである。だから,再度官吏になって,かつての同僚が上司になっていることに耐えられなかったのだろう。また,名前が後世に残れば李徴はよりいっそう満足できる。つまり,李徴とは,承認欲求の塊のような人物である。

後半,友人の袁傪は虎になった李徴と久し振りに再会して話をしている。袁傪に示される詩は,虎になるずっと以前,詩人として名をなすつもりで作っていたものの一部である。袁傪の評価は「作者の素質が第一流に属するものであることは疑いがない。しかし,このままでは,第一流の作品となるのには,どこか(非常に微妙な点に於て)欠けるところがあるのではないか,と。」というものであった。本当に詩人になる才能のある人とは,何をおいても詩を書かずにいられないような人で,他人がそれをどう評価するかは二の次三の次だろう。詩を書く技術は一流でも,承認欲求を満たす手段として書かれた詩に,なにがしかの欠落があると感じられるのは,そう不自然なことでもない。

虎になって生きると人間の心は無くなるが,今のところは人の心に戻る時間がある。その時間を使って李徴はあれこれ自己分析している。本人はこのまま完全に虎になることを悩んでいるようだが,むしろ完全に虎になった方が李徴は幸せではないか。どうしようもない自己顕示欲と他人にマウンティングして上に居ないと気が済まない性格が直せないのであれば,詩人としてダメで官吏としても出世が遅れることが確実となった後では,李徴が満足できる状況には決してならないし,ずっとストレスを感じながら生きて行くことになる。虎になればそういったものから解放されるので,やっと李徴に安らぎが訪れたともいえる。評価軸の基準が他人にしかない人間が解放されるには,他人との関わりを断つしかなかったということなのだろう。

ところでこの虎になるという感覚は,私にもわかる。最近はほとんどやらなくなったが,昔は,虫を探したり,文学の元ネタになった場所を訪問するといった目的で,レーションやら雨具やらをリュックに詰め込んで一人で山やら人の来ない場所をうろついていた。これをやると,どこで物を食べるかとか,どこで寝るかといったこと以外のことを考えなくなる。食料だけは持っていたが,わりと気ままに動いていたので,食料が尽きたらどうするかとか,水をどこで確保するかとか,常に考えることになった。こういう時は,一日のうちのほぼ全てを,食べることと休むことだけ考えて過ごすことになる。この状態では,とりあえず無事に生き延びることに思考のリソースが全振りされて,他のことをあれこれ悩む余地はなくなる。多分これが李徴が虎になった状態に近いのだろうと考えている。

現代国語の場合は,なにがしかの教訓を引き出さなければならないらしい。私が思いついたのは次のようなものである。

  • 創作系の仕事は兼業でもできるので,いきなり稼げる仕事を放り出すのはやめろ。
  • 評価の軸が他人にあるというか他人に依存してる人は創作には向かない。
  • 何かと他人にマウンティングする癖は早いとこ直した方がいい。
  • 一人で思い悩んでいても到達点には限界があるし良い結果にならない。
  • 虎も案外悪くない。装備減らして山に数日入れば気分は体験できる。遭難の危険はあるが。

……現代国語の指導には使えないなあコレじゃw