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例の「ドブス」騒動について引っかかっていることなど

Posted on 6月 25th, 2010 in 倉庫 by apj

 顛末はITmedia newsなど。

「ドブス」動画問題、首都大生2人を退学処分に 指導教員にも「厳正に対処」
首都大学東京の学生による「ドブス」動画問題で、同大学は撮影・公開に関与した4年生2人を退学処分に、音楽を提供した院生1人を停学処分とした。

2010年06月24日 18時11分 更新
 首都大学東京の学生が「ドブス写真集完成までの道程」と称して一般人を撮影した動画をネットで公開した問題で、同大学は6月24日、撮影に関わったシステムデザイン学部4年の男子学生2人を退学処分に、同研究科博士課程の男子大学院生1人を停学処分(1カ月)にした。学生に対し指導的な立場にあった教員に対しても関与の有無や指導方針を調べており、「今後厳正に対処する」という。

 問題の動画で、学生は「今日の日本においては、ドブスが絶滅の危機に瀕している」などと「ドブスを守る会」を称し、「ドブス写真集を作る」としてJR立川駅前(東京都立川市)で一般の女性を強引に撮影。女性の顔が分かる形でYouTubeに公開した。

 視聴者から批判が相次ぎ、学生は動画を削除。だが同大学にも抗議が殺到する“炎上”状態になり、同大学は「多大なご迷惑をかけ、深くおわびします」という原島文雄学長名の謝罪文をWebサイトに掲載していた(首都大学東京、学長名で謝罪 学生の「ドブス」動画問題)。

 学生は大学の調査に対し、「不道徳なものから生じるおかしみを追求することで、何かしらの表現ができると思った」と話しているという。

 同大学は、学生2人が「映像作品を完成するという名の下に、被写体となった方々に対し公然と人権侵害をした」「映像を作品として公開することにより、被写体となった方々の精神的苦痛を増大させた」、同大学の「社会的信用を失墜させた」として退学処分にした。

 大学院生は「不適切な内容の映像であると認識しながら、その映像に音楽を提供し、映像の作成に関与」し、その結果同大学の名誉を傷つけたが、積極的に関与したわけではないとして停学処分とした。

 原島学長は「映像は作成目的・意図を問わず社会通念に照らして倫理観、人権意識を著しく欠く極めて悪質なもの。映像を流された方々の人格を踏みにじる行為を行った上、多くの方々に不快な印象を与えた」と謝罪し、「他の学生の良好な学生生活を脅かすに至ったことは痛恨の極みであり、一刻も早く元の安寧な学修環境を取り戻せるよう全力で取り組む」としている。

 私が読んで気になったtogetterのまとめ。ynabe39さんの発言。

 起訴されて有罪になったわけでもないのに退学にしてしまうというのは、「逮捕や起訴,罰金や有罪判決などの客観的な基準に準拠しないといけ」ないところ、まずいのではないかという意見には全面的に同意。これは、手続きの安定性を欠くのが将来的に良くない結果を及ぼす懸念があるから。
 退学させられた学生が裁判で争ってきたら、これまでに確立している退学の基準に照らし合わせて裁判所の判断がなされた場合、大学が負ける可能性が高いのではないか。大学はアカウンタビリティと敗訴のリスクを秤にかけて、アカウンタビリティを重視したように見える。リスクを負う決断をするのは大学の自由だが、上策では無さそう。

 今後、客観的な基準がなくても退学させるという方法をとりたいのなら、入学前に提示する学則に基準を明記して、実際に実行し、何件か訴訟をやって、裁判例やら判例やらを積み重ねるしかないのかも。そこまでやることが前提だったとしても、何をやると退学になるかわからない学則では紛争のもとになるだけなので、何らかの客観的な基準を書いておくことが必要だろう。ただ、事実認定は裁判所の仕事で大学の仕事ではないので、実行可能かというと疑問。外の基準(起訴されて有罪とか)に頼った方が安定しそうではある。

 ynabe39さんがおっしゃる「停学だとその学生が反省し真人間になるまで大学や教員が面倒をみないと世間の批判を浴びます。大学の責任の取り方としては退学の方が無責任とも言えます」はわかるのだけど、今の大学に「真人間でなかった学生を真人間にする」能力があるかというと、一般には期待できないと思う。そんなノウハウは大学にはほとんどないし、昔なら多少はあったかもしれないそういった部分を潰す方向で運用がなされてきている。

 大学がとれる一般的な方法としては、カリキュラムを変えて倫理的な教育を徹底させるようにしました、といった対策でしかない。特定の個人を「真人間にする」と世間に対して請け負うのは無理だろう。教員の誰かを担当に指名して反省文書かせつつ面談もしました、といったことは実行可能だけど、これで学生が改心する保証はない。
 大学が負う責任と負い方にも一定の限度があるので、その範囲を超えて「大学に責任があります」と主張してしまったら、逆にそれは無責任な主張になってしまうから、すべきではない。
 大学がやるべきことは、例えば、ただの愚劣な権利侵害行為を芸術とカン違いする学生が出て来た理由について、教育内容のどこがまずかったかを検討するといったことであって、特定個人が更生するという結果を世間に対して約束することではない(刑務所だってそんなことは約束できていないのに大学に求められても不可能)。

 ここからは私もまだ混乱している部分。
 村社会的徒弟制度が機能していれば、倫理や道徳をたたき込むのは今よりは容易だったかもしれない。ただ、ハラスメントという弊害が出てしまったため、そちらを潰すために、村社会の論理を排除する方向で学内規則が整備されてきている。
 説得だけで倫理や道徳を教育できるとは限らない。昔であれば、法的手段以外の「圧力」を使うことができたのだけど、今では、法的手段以外に「圧力」を用いること=(法的根拠がないから)違法、とされてしまうために、とれる手段がかなり制限された状態にある。倫理や道徳を強制するために違法な手段をとると本末転倒なので。
 大学から、法的手段以外の方法を奪い去っていった結果が、「「学生重視学生優先」を目指してることになっている日本の大学で,学生への懲戒処分がどんどん日常的になり厳しくなっているという矛盾。これはけっして「学生の凶悪化」によるものではないよ。」(ynabe39)につながっているのではないかというのが私の問題意識である。「教育的配慮」の名のもとに曖昧にしていたり、現場で判断したりしていた部分が、権利義務関係に厳密に落とし込んだら違法になったり無効だったりする場合もあるわけで、そうなると「教育的配慮」は減らすしか無くなる。
 今回の件で、退学処分にしたから終わりというわけではないだろうという主張も理解はできるのだけど、私には、大学側が「そこまでの(=倫理や道徳を強制する)教育能力はウチには無い」と宣言しただけのようにも見える。
 一部分だけ法化社会的運営で残りは「教育」という曖昧なもので括っておくことは多分無理だろう。大学だと、成年を預かるのでなおさらである。
 結局、契約書を作って責任の範囲を定める以外に方法が無さそう。「教育的配慮」まで含めて契約書に書け、といった方向でないと、法化社会的運用は不可能じゃないか。もちろんその内容は公開で。それが教育機関の在り方として望ましいかというと異論もあるだろうけど、今更、大学だけ別扱いにはできないので、法化社会的運営に統一する以外の道も無さそう。


ここからは旧ブログのコメントです。


by bugbird at 2010-06-36 07:12:36
プロメテウスから火を与えられて人間は幸せになったのか?

ふと、そう思ってしまった。”The Net” の一番ネガティブで怖いところが実態化してしまっているわけです。

一旦 YouTube に映像が公開されてしまえば、もうそれは後から削除をしたところで、半永久的に「一方的なレッテルを貼られたまま」の形で “The Net” を彷徨する事になるんですよね? そう云う意味では、刑事事件になる、ならない以前の問題として、やらかしてしまった事の重さを認識する必要があるんじゃないかと。

一見感情的で、過剰反応に見えるかも知れないけど、私は今回の処分は決して不当なものじゃないと捉えてます。それくらい多くの人を巻き込んでしまっているからです。

いまどきの “The Net” が「やらかしてくれる」危険性については、もっともっと真摯に認識してもらう必要があると思うし、それをきちんと知らしめる事こそが、教育機関の仕事じゃないかとも思います。


by apj at 2010-06-52 09:16:52
ネット教育というよりも法学教育のような気も

bugbirdさん、
 一連の騒動を見ていて、”The Net”がなかったらどういう展開だったかな、と考えてました。
 他人をドブス呼ばわりしてビデオ撮影するおかしな奴が居たとして、やられた側が、相手が首都大生とわかれば大学にクレームもあるかもしれませんが、わからなければ、内輪でビデオ閲覧するだけで済んでただろうと。で、彼らがさらに勘違いして課題のつもりで学内で発表……なんてことをしたとしても、学内で問題になってきっつい説教くらいで済んだんじゃないかと。
 「公然性」を手軽に手に入れるというのはそれなりに大変なんだな、という感じです。よく、犯罪自慢して炎上してるのがいるけど、あれと同じ感じ。

 ただ、大学側の処分についてはまだバランスが悪いなあと思っています。多分、これは、従来の例に照らして考えているからなんですが。話題になっただけであって、直接の被害者は撮影された方々だけですし、準強姦とかと比べるとどうなんだ、という部分に疑問が残るんですよ。

 ただ、情報発信に関する教育はしないといけないと思います。手軽に「公然性」を実現する方法を持ってしまったので、それに関して起こりうる権利侵害を教育しないといけない。ネットの教育というよりは、基礎法学の教育の領分のような気もします。権利侵害とは何か、といったことを叩き込まないといけない。単なるネット利用のテクニックだとして教えると逆に穴ができそうでちょっと心配です。


by nomad at 2010-06-41 10:12:41
一度火を使ったら

火無しの生活なんて考えられないよね。>プロメテウス
誰かの不幸を面白半分に嘲笑ったら、しっぺ返しを受けたでござる、という構図だと思いますので。
火=公然性が大きくなれば得られるものも失うものも大きくなる。


by apj at 2010-06-42 10:36:42
はしたなさが増幅されるシステム

nomadさん、

>誰かの不幸を面白半分に嘲笑ったら、しっぺ返しを受けたでござる

 人間、聖人君子ばっかりじゃないんで、他人の不幸を嘲笑う心は誰でも持ってると思うんですよ。それを無くせと言われても多分無理。ただ、「他人の不幸を嘲笑う」のは、道徳的に良くないことであり、はしたないことだ、という教育はできる。だから、他人の不幸を嘲笑うときは、公然とやっちゃだめで、仲間内だけでこっそり後ろめたさを感じつつやるというのが、まあ妥当な折り合いのつけ方だろうと。
 はしたないことなんでこっそりやろう、という感覚が抜けてる人が、大っぴらにやったらいきなり世界規模で大っぴらになっちゃう、ということなんですよね。


by mimon at 2010-06-02 05:22:02
あれまあ

あの話題、そんな騒ぎになっているのですか。ぜんぜん、気にしていませんでした。
ここで、その被害者から「私は、ドブスよ。それでいいの。でもナントカなら誰にも負けないんだから。」みたいな洒脱な発言があったら、白馬に乗って迎えに行くオノコとか現れて面白そうに思います。
なんだか、当事者以外が騒ぎ立てているだけのように感じます。


by なる at 2010-06-07 10:11:07
Re:例の「ドブス」騒動について引っかかっていることなど

判決についてだけ言えば、部分社会論とかが主張されて、学校側の判断が尊重されると思います。

しかし、学校そのものの社会的評価がどうなるかは分かりません。
最近の風潮では「疑惑=悪」なので、むしろ学校側にはプラスかもしれません。


by apj at 2010-06-14 10:38:14
仕込みならよかったんだけどね

mimonさん、

 女の子の方も予め言い含めておいて、そこまでシナリオ書いてやらせてたら、全く別の評価になったと思います。

なるさん

 部分社会論が適用されるのは、影響が部分社会のみに止まっている場合では。部分社会論を主張しても退学の場合は学内だけに話がおさまらない(学外の就職にまで影響する)から、主張しても学校が敗訴する可能性の方が高いでしょう。
 また、起訴されて有罪でなくても退学ということは、今後充分な審理をつくさず退学という判断が出る可能性のある学校、という評価もなされますから、一時の熱狂から覚めた後の評価がどうなるかはわかりませんよ。


by Isshocking at 2010-07-06 05:59:06
Re:例の「ドブス」騒動について引っかかっていることなど

倫理基準の客観的整合性とか処分の公平性は必要だと思いますが、起訴を客観的基準にはできないと思います。
強制わいせつや侮辱罪は親告罪だからです。
被害者が告訴しないのはもっぱら被害者の事情によるもので、告訴・起訴の有無で客観的な反社会性が薄れるものではないと思います。
だいいち、起訴=有罪でもありませんし。


by 杉山真大 at 2010-07-07 05:32:07
指導教員まで解雇処分だそうで

http://www.asahi.com/national/update/0706/TKY201007060461.html
「調査にうそをついた」「制作自体はやめさせなかった」ってのが、決定的だったのかも。ただこの処分から、今度は教育内容を精査すると大学当局が締め付けに出ているんですよね。それが下手に表現規制とかに向かってしまうとなると、始末が悪いって気が[:つかれた顔:]


by anonymous coward at 2010-07-56 04:24:56
末端の教員はともかく

執行部や事務局は締め付けたがりが多いと思います.少子化でポスト数が頭打ちのところに,任期制が一般的になったので,締め付けもやり易くなってしまいましたよね.
あと,末端の教員も,自分自身に火の粉が降りかかってきたらという想像力を働かせて,原理原則を大事にする人は少ないです.


by apj at 2010-07-35 04:46:35
治外法権じゃないので……

杉山真大さん、anonymous cowardさん、

 今回は具体低に他人に直接他人の権利侵害をやっちゃってますからねぇ。
 今回の件を、表現規制の枠組みに載せることには違和感があります。うんと極端なことをいうと、オブジェだと主張して変死体をこさえてもいいのかというと、そりゃよくないどころか立派な犯罪でしょう。りんごが腐っていくのを見せるのは芸術として認められても、死体をこさえて腐るのを見せると犯罪になる。じゃあ、芸術と称して他人(しかも論争相手でも何でもない)の肖像権を侵害し名誉権も侵害していいのかというと、殺人に比べりゃ罪が軽いけれどもやっぱりちがう。具体的にそういうことをやっていいと「教唆」することを防ぐのが教育か、というとそれも違う。
 言論と表現の自由にしても、学問の自由にしても、他人に対して直接の権利侵害をしない、というあたりで範囲を決めるしかないと思うんですよ。だから、時の政府や企業を過激に批判する内容を論じても、直接の権利侵害ではないけれど、無関係な私人をネタに公然とドブスと呼んで画像を公開することはその人にとっての直接の権利侵害になるからダメだ、と。特定個人を離れて他人をドブスと呼ぶことがどこまで正当化されるかを「論じる」だけなら(論の内容に対する評価は別として)法的には問題ないのだけれど。

 あと、これはちょっと頭が痛いのですが、内輪の論理で何かやっちゃってて、トラブルになれば訴訟で負けるかも、ということが読めない人たちが大学に居たりするわけで(しかもそっちが多数のこともある)、執行部で決めないと危なくて仕方がない場合もあるんですよねぇ。締め付けというよりも、現場がわかってなくて地雷踏みまくりで、紛争の方は変なことをやった現場は当事者にはなれず執行部本体にかかってくるとなると、執行部がどうにかするしかないでしょう。


by apj at 2010-07-24 04:48:24
篆?③

×具体的にそういうことをやっていいと「教唆」することを防ぐのが教育か、というとそれも違う。

◯具体的にそういうことをやっていいと「教唆」することが教育の範囲に入るかとか、学問の自由で裏打ちされるべきか、というとそれも違う。


by anonymous coward at 2010-07-58 05:28:58
事実関係を知らないので

今回の件については,妥当なのかどうか良く分かりません.

ただ当方としては,
>締め付けというよりも、現場がわかってなくて地雷踏みまくりで、紛争の方は変なことをやった現場は当事者にはなれず執行部本体にかかってくるとなると、執行部がどうにかするしかないでしょう。
ということを言い訳にして,何もかも締め付けようとする人に苦労しているので,そりゃあまあケースバイケースなんですけど,なかなか簡単にapjさんに単純に賛成するわけにはいかなかったりするのです.


by 通りすがり at 2010-07-59 01:02:59
Re:例の「ドブス」騒動について引っかかっていることなど

あれだけのことをしたんだからある程度の社会的制裁があるのはあたりまえ
うろ覚えだが前に海外の観光地でらくがきして退学になったって話があったけど
あの場合の退学はやりすぎ、現地で現地の人が落書き用のペンを売っていて実際に色々な言葉で落書きしてある状況で判断間違えるのは当たり前なんだから
今回の場合ブス晒しじゃなくても他人を勝手に撮ったってだけでも駄目でしょ,きちんと断った人も勝手に撮ってるようだし嫌がる人いるのが分かってるならやったらいけないってことを学べる機会があったわけだ、正直能力も低そうだしこんな若者に未来はいらないね、他にいくらでも優秀な人やまじめな人いるんだから


by 猫 at 2010-07-18 13:01:18
司法権

>「逮捕や起訴,罰金や有罪判決などの客観的な基準に準拠しないといけ」ないところ

私は、これについても違和感があります。
実際に学外で犯罪を起こして、それを理由に退学などの処分がされたケースは結構あるようですが、
これって法の精神に背くことではないかと常々疑問を感じています。
司法権があるのは裁判所だけですし、学校が学外のことにまで首を突っ込んで生徒・学生を処罰するのは、私刑の一種であると思います。
中には、警察・検察や裁判所で不起訴・起訴猶予になった場合でも学校が処分するという、どっちが裁判所だか分からないような例もあった覚えがあります。

また、就職先を社外犯罪で解雇されるという例も良く聞きます。
最近では、酒気帯び運転をしただけで懲戒免職になる公務員も出てきました。
(他人に勧められた大麻を吸っただけで、というのも)
このように、学校や会社が、司法権を握っているかの動きをすることに、なぜ多くの国民やマスメディアは危機感を抱いていないのか、非常に疑問です。

この点、法学部出身者などは違和感に気付いているのでしょうか。
だとすれば、初中等教育で法の精神を教えていないツケが回ってきているということでしょうか。