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状況が変わったので連絡

Posted on 2月 18th, 2009 in 倉庫 by apj

 エントリーに書くのが遅れたが、ここでも何回か取り上げた株式会社日本トリムの状況が少し変わったので報告しておく。
 「宣伝に活性水素を使うのを止めて、健康関連について煽ったりしない宣伝をしていく」と言っておられた副社長が、先日、別の会社に転職された。転職しましたという挨拶状をいただいてちょっとびっくりした。
 会社の上の方が、このまま、活性水素云々や健康関係を強調した宣伝をしないまま、うまく販売をしてくれると良いのだが……。宣伝方針の方向転換の牽引役とも思われた重役の転出なので、今後どうなるかが分からない。

「魔法使いの弟子」問題(仕切り直し)

Posted on 2月 18th, 2009 in 倉庫 by apj

 「魔法使いの弟子」問題というエントリーを書いたら議論がアサッテの方に行った。主な原因は、この言葉を出したうーむ(=とおりすがり)さんが、omniさんのムペンバ効果への書き込みをきっかけとして、個人攻撃に走ったことによる。さらに、うーむさんが、私の周辺で批判をしている人達を「魔法使いの弟子」として揶揄する目的を持っていたということが判明した。これではまともな議論になるはずがないので、仕切り直しをする。議論が続くかどうかはわかりませんが、一応場所を作っておく。

 まず、私の元のエントリーは次の通り。
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 とおりすがりさんのコメントにひっかかったのでエントリーに上げておく。

ここのコメント欄のやりとりを見て apjさんのエントリー  「『本物』の科学を手にしていないとニセ科学を批判してはいけないのか?」
が見落としている大きな問題点(似非科学批判側に愉快犯が紛れ込み、誠意ある科学者を背後から撃つ危険性)を感じた。
「魔法使いの弟子」問題と言ってもいいかもしれない。魔法を知らない弟子が似非魔法叩きで味をしめ、自身に他の魔法使いの真偽を裁く能力があると勘違いしてしまう悲喜劇

 という指摘が、ムペンバ効果についてのエントリーのコメント欄に書かれた。

 実は、一つ間違えると水素水がこのパターンに突っ込みかねないので少々気を遣っているところだったり。
 一般の人には「とりあえず太田教授の研究を静観せよ」と言い、太田教授には「これまでのヘンテコ水商売に出てきたナンチャッテ学者に見られるような紛らわしいことをするな」と言わなければならない。その上、太田教授の仕事を我田引水しまくってインチキ宣伝をしたがっている人達がいっぱい居そうな状態。
 何だか、私は、童話に出てくるコウモリになったような気分なのだが……。

 「魔法使いの弟子」問題といえるような状態が目立ったケースってあるのだろうか。これまではそんなに問題ではなかったと思うのだけど。
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 これに対して、「魔法使いの弟子」問題そのものについての議論と考えて良いと思われるのが、次のコメントになる。
 まとめてこちらに移動させていただきます>投稿者の皆様。

太田教授の研究については (by pooh)
瀬名秀明さんがらみで2回ほど書きましたが、「魔法を知らない弟子」としては読むひとに意図がちゃんと伝わっているのかじつはまったく自信が持てていません。難しい。
at 2009/02/03 08:03:12

メタっぽくなりますが (by 黒猫亭)
ニセ科学批判で最低限必要なのは、「魔法が何であるかを識っていること」であって、「魔法が使えること」ではないような気がします。最低限、魔法が何であるかを識っていれば、自分が何を識らないかを識ることが出来ますから、「魔法使いの弟子」問題のようなことは起こらないのだと思います。

後は、実践論の観点では「魔法を使う動機」も関わってきますかね。この種の類型の説話では、弟子が師匠から教わった一番簡単な魔法をよからぬ目的に使って、その結果自分の予期せぬ結果を招いたり、魔法が暴走して止められなかったりと、要するに「罰が当たる」形で失敗するわけですね。

そう謂う意味では、この比喩は個々のニセ科学批判の在り方を検証する観点で結構使えそうな気がします。
at 2009/02/03 12:38:30

ちと修整 (by 黒猫亭)>>後は、実践論の観点では「魔法を使う動機」も関わってきますかね。
書き込んだ後でちょっと考えてみたんですが、これは「動機」ではなく「目的」としたほうが誤解がないかな、と思いました。「動機」と謂うのは第三者視点では割合重要性の薄いことですが、「目的」と謂うのは結果と密接に関連しているように思いますし、また実践の具体に即して客観的に論じ得るものでもあります。
at 2009/02/03 14:09:13

Re:「魔法使いの弟子」問題 (by とおりすがり)ネタ元発言者です。apjさんに「ひっかかり」を感じさせてしまったようで申し訳ありません。

apjさんがエントリー「想定しているユーザが違う」で説明されておられるような、裁判の対象となり得る「実害」を基準とした場合、寡聞ですが直接的な実害はあまり聞いたことがありません。

間接的に多少なりとも害があるとすれば、「似非科学批判」の形式を真似て、悪意ある中傷/名誉毀損/風聞の流布/偽装業務妨害等の活動をしたり、あるいはそれら活動を通じ「似非科学批判」派の信用失墜を図るような行為でしょうか。
でもapjさんはそういう話には付き合わず、実害を基準とした堅実な似非科学是正活動をするのがいいと思います。
(この件については、後で何か気付いたら、改めてコメントさせて頂きます)

【元発言について】 該当エントリーでエンジニア風の方が「これは科学ではない」と安易な決め付けをして、延々と説明にならない説明をされているのを拝見し、何でも「似非科学」と批判すれば議論が成立すると考える安易な風潮に一石を投じたく「魔法使いの弟子」という比喩を使いました。この比喩本来の意味と、該当エントリーの状況には多少のミスマッチがある事、重々承知しております。必要があれば、表現を訂正したいと思います。
at 2009/02/03 23:32:54

問題意識は必要ではないかと (by apj)poohさん、 見た目微妙なケースをどうするか、というのは、いつでも問題になりうると思います。

黒猫亭さん、
 「魔法使いの弟子」問題という比喩の中身も含めて、これから少しずつ考えていきたいと思っています。

とおりすがりさん、
 ひっかかったのは、仰るような種類の問題が確かにありそうだと思ったことと、まともな科学に誤爆するとまずいということ、それから、いわゆるニセ科学批判批判が「魔法使いの弟子」を見て違うものを想像したがために起きているのではないかとふと感じたこと、といった、いろんなことがあります。

 ただ、どのような問題を「魔法使いの弟子」問題とすべきかは、これから詰めないといけないと思います。
・まともな科学をニセ科学と呼ぶ誤爆をしてしまうケース
・ニセ科学に対する批判なんだけど批判の中身が間違っているケース
など、いろいろありそうに思います。
 まあ、とりあえずひっかかっておいて、後から詰めようという感じです。問題意識として持っておくと、そのうちはっきりしてくることもあるでしょうし。
at 2009/02/04 00:01:14

Re:「魔法使いの弟子」問題 (by chem@u)こちらによさせていただくのは初めて?かもしれませんが、昔ながらの名前で出ています。発信者が実名であったり固定HNであった場合、相互批判が効くので余り問題とはならないことが多いかもしれません。

そうでない場合の匿名による言葉の暴力は、結構見てきました。
具体的にはシックハウス症候群について、マンションデベロッパーに対して告発するようなサイト運営者への誹謗中傷とか、掲示板上での相談者への誹謗中傷とか、シックハウス症候群=ニセ科学という間違った認識による、まさに「魔法使いの弟子」問題といってもいいかと思います。

ただ、匿名による言葉の暴力は、ニセ科学に限定されないので、ここら辺をどうするかは、実際のところ相当に難しく、匿名サイドに誤った認識を与えないよう、批判を発信する側も常に自らを振り返るくらいしかないかもしれません。

 私の問題意識としては、ここ1年ちょとくらいの間にちょくちょく出てくる、いわゆる「ニセ科学批判批判」と言われるメタぶった批判が、「魔法使いの弟子」に向けられているのではないかということである。だとすると、「魔法使いの弟子」問題も、論点として上げておいた方が議論を整理できるのではないかと考えている。

 何でもかんでもニセ科学と呼んで批判する行為と、chem@uさんが指摘した、間違った告発をする行為(ニセ科学には限らないし、むしろ告発の方が科学の誤用になり得る)には共通点があるかもしれない。そこまで共通点を探すとなると、危険を必要以上に煽るケースにおける科学が拡大解釈されるものも含まれてしまい、今のところ考えられている対応策は「リスクコミュニケーション」ということになる。リスクコミュニケーションで考えられているような情報の出し方が、科学と科学でないものを判別する際に役立つのか? だいぶ性質の違うもののように私には見えるのだけど、一応は考えておくべきことかもしれない。

 ニセ科学について議論するとき、グレーゾーンがあるからあらかじめ科学とニセ科学の間に線を引くのは無理だ、ということを繰り返し伝えてきた。線を引けないとなると、個別に細かいところまで見ていくしかないので、誤爆があったとしても早々に修正されるのかな、と思ったり。あるいは、「それは科学的にあり得ない!」と切って捨てるような形で「魔法使いの弟子」が出てくることはありそうで、これをやるとその場の反発は招きそうだが、議論の精度は悪いので、そのまま広まったり残ったりするのだろうか、という疑問もある。メタなニセ科学批判批判を誘発する可能性はあるけれど。

ハラスメント関連の論点候補とかメモとか

Posted on 2月 16th, 2009 in 倉庫 by apj

 いろいろ考えている最中なので途中のメモ。まとまっていない。

 キャンパスハラスメント関連の処理について、今漠然と考えていることなど。そのうちいろいろ本を読んだり考えたりしていくつもり。

・ムラ社会的なウェットな人間関係とも、従来の徒弟制度とも、今広く使われているハラスメント処理手続は馴染まない。木に竹を接いだってレベルじゃないくらいそぐわない。
理由:処分につながっており、行き着く先が法的手続であるような手続は「近代」のものだから(多分)。
「近代」をちゃんと説明しろ>自分。
・ハラスメント処理手続は教員の力を相対的に弱める方式で実装されている。このため、教員側としては従来の権威(徒弟関係を前提にした形)による指導はできない(その手段はあらかじめ封じられている)。残るのは対等な契約関係のみ。この状況で「教育者として……」といった言明は無意味であるばかりか、クレーマーを利する効果しかない。「教育者」の意味を「知識を伝える者」といった程度に限定して解釈すべきでは。
・「過剰な教育」を試みる必要はもはや無いはずでは。
・ハラスメント処理手続を作っておいて、一方で従来通りに、教育者に過剰な期待や責任を負わせるというのは、教わる側にとっての都合の良いところ取りであり、教員に対しては暴力的ですらある。思い切ってムラ社会の維持はあきらめ、古い徒弟制度とも異なった、新しい関係のあり方を作る必要があるのではないか。
方法は?リベラリズムから出発して関係を作り直す?
・混乱が生じている原因は?
 大きく4つに分けられるケースを1つの手続でやろうとしている。(1)刑法に抵触したり、民法でも確実に不法行為で賠償金が取れるようなことがら。(2)いわゆる「ハラスメント」(3)本来ならクレーマー処理として対応しなければならないケース(4)でっち上げ。
 対処法がまるで違うものを全部一度に扱おうとしたって無理なのでは。
・規則自体が矛盾を含んでいる場合がある。
 人間関係の修復、就学・就労環境の改善を謳いながら、ペナルティとしての処分が定められている場合(接触を禁止するといった措置は心理的ケアのためのもので処分ではないので、一方当事者にペナルティを与えることとは区別する)、その規則での処理に載ったら最後、防衛側は予想外のペナルティを喰らう可能性を考えておく必要があり、最初から法的紛争を予定して対応することになる。人間関係云々よりも、裁判所でいかに勝訴するかがエンドポイントになる。刑法に抵触するなら社会規範に照らして判断、民訴でいくなら全てを金銭に換えて争って終了にする、というのが社会での約束事。
・やってみてもいいんじゃないかと思うこと:教員側の対策サイトの立ち上げ。ケーススタディなど。
 2003年刊行の「大学教授は虚業家か」に、既に、ハラスメントを嫌がらせの道具に使う例が出ている。そろそろ、言った者勝ちの状況に釘をささないとまずい。
・サイト作りの目的その1:申し出た側がどう見ても無茶、あるいはどう見ても周囲の陰謀、と言う状況を作り出してから法的手段で戦って勝てる準備を普段からしておくこと。そのためのノウハウの共有→落ち度のない常識的に見て妥当なサービスの提供、ということになるので(このあたりは、提訴されて勝てる範囲で表現する、という防衛策と似ている)、むしろ質はよくなるはず。後は相手の手続違反をどう利用するかなど。
・サイト作りの目的その2:ハラスメントを使った嫌がらせを仕掛けられた場合、どうやって証拠を集めて学外処理に持っていくか。その手順とノウハウの共有(嫌がらせの場合は教員が荷担していることが想定されるので、学内処理だけだと多数決でいいようにされてしまう)。

 私がこれから読むべき参考書はこのあたりか。
・水谷先生のハラスメント判例解説本など。入手済み。 本来の処理基準。
・「モンスタークレーマー対策の実務と法」升田純&井上眞一(商事法務) 入手済み。
・「普遍の再生」井上達夫著(岩波書店) 入手済み。 リベラリズムとは?
・「タテマエの法ホンネの法」  もうすぐ第4版が出る。ムラ社会と「近代」のズレについて?

引っ掛かった一言

Posted on 2月 15th, 2009 in 倉庫 by apj

 「ジェネラル・ルージュの凱旋」海堂尊著(宝島社)の21ページより。

手続きを飛ばして正義を貫こうとしても、刃は肝心の所には届かない。いつか必ずしっぺ返しに遭って叩き潰される。

なかなかいい情報源なのでメモ

Posted on 2月 14th, 2009 in 倉庫 by apj

 アラブ イスラーム学院 『アラビア語カフェ』

 参考書や辞書選び、その他の情報がたくさんある。

 Behind the Name

 アラブ人名の由来。

社会科の副読本にもいいかもしれない

Posted on 2月 14th, 2009 in 倉庫 by apj

 落合弁護士のblog経由。
罪と罰の事典 裁判員時代の法律ガイド」というのが出るらしい。
 いくら罪刑法定主義だといっても、刑法からどういう処罰になるかを読み解くのは素人にはちょっと敷居が高いだろうし、その上、罰則の定められた法律が刑法以外にも散らばっていて、全体を知りたくても六法全書を見たって直ぐに見つけられるわけもなく……。大体のことがわかるわかりやすいガイドブックが出るのは良いことだ。何をやれば処罰されるのかは、社会に出る前に一通り知っておくことが望ましいわけで、社会科の副読本に使うといったこともあってよさそうに思う。

むしろ学生の横暴を許すな

Posted on 2月 13th, 2009 in 倉庫 by apj

 毎日jpの記事より。

京都外国語短期大:学生にアカハラ、教授をけん責処分 /京都

 京都外国語短期大(堀川徹志学長、右京区)は10日、授業内容の質問をしようとした女子学生(20)に対応しないアカデミック・ハラスメントをしたとして、男性教授(51)を6日付で口頭注意のけん責処分にしたと発表した。学生は大学に相談した翌日の08年10月15日から欠席している。

 大学によると、教授は08年10月11日午前0時45分ごろ、携帯電話に連絡してきた学生に「こんな時間にかけるとは何だ」と激しく叱責(しっせき)。同13日午後1時ごろ、数回かかってきた謝罪電話にも対応しなかった。教授は最初の電話前、質問をメールで送ってきた学生に電話をかけてくるよう返信したが、時間などを指定していなかった。学内調査に「不用意なメールで、不注意だった」と認めたという。【朝日弘行】

毎日新聞 2009年2月11日 地方版

 まず、授業内容の質問という緊急性の低い用件で、真夜中の午前0時45分に大学の教員に電話をかけること自体が、学生の非常識。
 しかも、電話があった08年10月11日は土曜日で、普通に週休2日制で勤務しているのなら仕事はしない日のはず。よほどの緊急事態(夜中に学生だけで実験していて事故発生とか)以外、教員を電話で呼び出すような日でも時間でもない。
 さらに、教員が電話に出なかったのは08年10月13日(月)だが、この日は体育の日で、やっぱり休日。

 一体いつから日本の大学の教員は、休日の深夜や、国民の祝日にまで、学生からの緊急性の低い電話の相手をしないとハラスメント認定されるようになったわけ?
 ふざけた処分をかまされると、それが前例になって、さらにそれを利用しようとする奴まで沸いてでるから、周りも迷惑するってこと、わかってるのか?>京都外国語短期大。あ、労働者の権利をどう扱っているかも気になるな。
 こういう無茶な電話の仕方をする学生を肯定して教員を処分するって、京都外国語短期大は実はクレーマー養成機関なのか?

 むしろ、この教員は、この処分に対し、休日にまで理由なく仕事をさせるなという理由で、いち労働者として大学にクレームをつけるべきだと思う。

 一番妥当な解決は……「電話しなさい」じゃなくて「オフィスアワー(平日の勤務時間中で学生からの質問を受け付けられる時間)に研究室にいらっしゃい」と答えることだったのだろうけど。

別の意味で道徳と科学は別でないと困る

Posted on 2月 13th, 2009 in 倉庫 by apj

 msn産経ニュースの記事より。

他人の不幸 科学的にも蜜の味だった2009.2.13 07:38
このニュースのトピックス:科学

 他人の成功や長所を妬(ねた)んだり、他人の不幸を喜んだりする感情にかかわる脳内のメカニズムが、放射線医学総合研究所や東京医科歯科大、日本医科大、慶応大の共同研究でわかった。妬ましい人物に不幸が訪れると、報酬を受けたときの心地よさにかかわる脳の部位が働くという。13日付の米科学誌「サイエンス」に発表した。

 研究チームは、健康な大学生の男女19人にシナリオを渡して平凡な主人公になりきってもらい、ほかの登場人物に対する脳の反応を磁気共鳴画像装置(fMRI)で調べた。主人公は志望企業に就職できず、賃貸アパートに住みながら中古の自動車を所有するという設定。大企業に就職し、高級外車を乗り回す「妬ましい」人物が登場すると、身体の痛みにかかわるの「前部帯状回」という脳の部位が活発化した。自分と同じく平凡な人生を歩んでいる登場人物には、この活発化が見られなかった。

 次に「妬ましい」人物を襲った「会社の経営危機」や「自動車のトラブル」などの不幸を示したところ、報酬を受け取ったときの心地よさにかかわる「線条体」が強く反応。この反応は、平凡な友人の不幸では見られなかった。また、妬みの感情が強いほど、不幸が訪れたときの反応が活発だった。

 放医研の高橋英彦主任研究員は「線条体はおいしいものを食べたときにも働くことが知られる。他人の不幸は文字通り“みつの味”のようだ」と話している。

 だからといって、他人の不幸を喜ぶのが当然とか、それが自然の摂理だからどんどん妬ましい人の不幸を味わうのが当然で正しい、という内容の「道徳」や「倫理的な規範」を作るべきだとは、普通は考えないだろう。諺として「他人の不幸は蜜の味」というのがあったとしても。
 道徳や倫理は、科学とは別に立ち上げるべきもので、科学に根拠を求めてはやっぱりまずいことになる。

【追記】
 これだけだと何の話か見てわからないこともありそうなので、書き足しておく。今朝、エントリーを上げてからほとんど休み無しに院生の公聴会に出ていなければならなくて、十分な説明もできなかったので……。

 ちょっと前から、「水からの伝言」をいろんな面から批判してきた。「水からの伝言」は、水にいろんな言葉を見せたり音楽を聴かせたりしてから凍らせて結晶を作って写真を撮ったものである。「ありがとう」というのを見せると対称性の良い六角形の樹枝状結晶ができ、「ばかやろう」というのを見せると見た目がきれいな結晶にならない、という話が語られた。シャーレに入れた水を凍らせてから、照明を当てながら顕微鏡で観察するというもので、低温の氷の表面に水蒸気から水の結晶が成長するものを見ているだけである。
 水が言葉を判定するかのような主張は、もちろん、科学としては完全な間違いである。水蒸気から結晶成長するとき、どういう条件の時にどんな形の結晶ができるかは、60年ほど前に中谷宇吉郎が解明して、ナカヤ・ダイヤグラムとしてまとめた。雪結晶の研究としては世界的に有名な業績である。

 この「水からの伝言」が、学校教育で使われるという問題が起きたので、私も批判しているし、気付いた他の人達もあちこちで批判の声を上げている。

 「水からの伝言」を使った道徳の授業では、まず、「ありがとう」を見せた水がきれいな結晶になり、「ばかやろう」を見せた水が汚い結晶になる、ということが、科学的には間違いであるにもかかわらず、正しい科学的事実として提示される。次に、人の体の8割が水だという、正しい科学的事実が提示される。そのあと、水の結晶がきれいになるのだから友達に「ありがとう」と言いましょう、と教えられる。
 この教材は、科学としても間違っているが道徳教育の面からも国語教育の面からも、教えてはいけない内容である。まず、道徳的に正しいことと対称性の良い結晶とをむすびつけている。これは、善=美であると教えることに他ならない。しかし、道徳では、たとえば「人を見かけで判断するな」と教えたりしている。道徳的な善と芸術的な意味での美を結びつけてはいけないのである。さらに、どんな言葉を使うかを水に訊いて決めるという、大変奇妙な話になっている。どういう言葉を使うかは、他人とどう関わるかによって決めるべきことで、そもそも水に訊くことではない。この話で道徳を教えると、他人の存在はどうでもよいということを肯定することになってしまう。
 さらに、文脈を無視して、良い言葉と悪い言葉に単語を分類するというのは、全くナンセンスである。「ばかやろう」の一言にだっていろんな意味を持たせられる。言葉の使い方の深みを知りたければ、文学をしっかり読むべきで、水に判定してもらおうなどというサボリ根性を出してはいけない。

 他人といかに関わるべきかといったことや、人としてどうあるべきかということの答えを、科学に求めるのが間違っている。科学に道徳の裏付けをさせるというのは、人の存在を無視して道徳の内容を決めてもかまわないということになるので、時として非常に不道徳な結果になる。このことを、水伝批判においては、繰り返し説明してきた。
 しかし、「水からの伝言」では、結論が「きれいな言葉を使いましょう」「友達を罵ってはいけない」といった、道徳的にも受け入れやすいものになっていたため、説明の過程で安易に科学モドキを持ち込むことの不道徳さを説明しても、なかなか気付いてもらえないという面があった。

 今回の新聞記事は、他人の不幸を喜ぶ性質が人にあることが科学的手続で確認された、というものである。他人の不幸を嬉しく思うのは科学的に当たり前で妬みがあれば嬉しさも増加、という話である。これは、道徳や倫理としては受け入れがたいのが普通だろう。
 少なくとも私は「他人の不幸はどんどん喜びましょう。それが自然だと科学で証明されてますから」などということを受け入れたいとは思わない。
 誰だって不運・不遇な時があるし、他人をうらやんだり妬んだりする気持ちを持つこともあるし、他人の不幸を嬉しく思うことだってあるだろう。聖人君子じゃないんだから。そう思うことが人の生理としてあるのだとしても、人には知恵がある。他人を妬んだりうらやんだり他人の失敗を喜んだりしたって、客観的に自分の置かれている状況が良くなるわけではないし、妬みからは何も生まれないということに早々に気付くだろう。だから「他人を妬むのはやめましょう」「他人の不幸を喜ぶのは人として良くない」という道徳を語ることには意味がある。その先は、妬まずに自分も努力しましょう、でもいいし、うまくやった人に向かってお裾分けを頂戴、というのだって有りだろう。きっといろんなやり方や考え方がある。

 道徳の根拠を科学に求めるのであれば、引用した記事に基づいて「他人の不幸を喜ぶのは正しいことだ」ということを受け入れなければならなくなる。科学(実は科学っぽいインチキだが)の裏付けがあるからという理由で、安心して「水からの伝言」を受け入れている人達は、このことに気付くべきだ。

 科学がどういう結論を出そうと、人として他人とどう関わるか、人としてどう考え、どう振る舞うのが価値あることかを決めるのは、人が培った倫理であり道徳である。倫理や道徳を考える時には、人と向き合って立ち上げる以外に方法はない。安易に科学になんかに頼っちゃいけないのだ。

「擬似科学はなぜ科学ではないのか」

Posted on 2月 12th, 2009 in 倉庫 by apj

 「擬似科学はなぜ科学ではないのか そのウソを見抜く思考法」チャールズ・M・ウィン/アーサー・W・ウィギンズ著、シドニー・ハリス画 奈良和彦訳(海文堂)978-40393-73940-9を購入。2月10日が発行日なので、都市部の書店なら店頭に並んでいるかも。私は本やタウンで注文して今日生協で受け取った。
 目次は次の通り。

    プロローグ

第1章 事実の探求ー科学的方法
第2章 科学的推論の実際
第3章 現実の追求vs幻想の追求
第4章 UFOと地球外生命体説
第5章 体外離脱体験と霊的存在
第6章 占星術
第7章 創造説
第8章 通常感覚による知覚、超感覚的知覚およびサイコキネシス
第9章 事実の科学的な追求
    エピローグ
    用語集
    もっと知りたい読者のために
    索引
    訳者あとがき

 科学的な観測と推論のサイクルと擬似科学的なそれとの違いがコンパクトにまとめられている。取り上げられている例は、オーソドックスなものだと思う。参考文献リストが、邦訳のあるもののみになっているのが物足りない。ここは、原著通りに掲載して、邦訳のあるものには注釈をつける方が良いだろう。

 参考文献リストの邦訳本は殆ど持っているのだが、入手しやすい状態かどうかをamazonで見たら、「サイキック・マフィア」が品切れですごい値段になっていた(汗)。以前買っておいて良かった……。

珍しく大槻教授に結論だけ同意

Posted on 2月 11th, 2009 in 倉庫 by apj

 大槻義彦のページより。

もちろん私が死んでもお葬式の類はごめんです。急に予定もなくお葬式の通知を出したのでは、受け取った人は大迷惑でしょう。

 私が(私の)葬式の類はごめんだと思うのは、生きてるだけでも面倒くさいことがいろいろあるのに、死んでからまでなぜ手間暇をかけなければならないのだ?と思うからで。 ただ、死期は予測可能な場合もあるからなぁ……だからといって、「一ヶ月後くらいになりそうだから予定あけといて」ってな具合に会食の予定を入れるような調子で連絡をされたって、された方がリアクションに困るかもしれない。

墓も墓参りもナンセンス。これは、思い出をかみしめるところ。思い出なら、たくさんの写真・ビデオ・著作が残っているからそれで十分。もちろん、墓参りはその思い出を思い出す機会になるから悪くはないのですが、それなら命日を決めて息子・孫たちが食事でもしてくれれば良いでしょう。『命日の食事会のファンド』でも残しましょうか。後世、親族以外の人が訪ねてくれることはまずないでしょうから、目印、つまりお墓などいりません。見知らぬ人に墓参りしていただくほど大物ではありません。いつの間にか墓石は落ち窪み、カラスなどの鳥の糞にまみれ、名前の判読もできない。想像しただけで、ぞっとします。

 一応、仏のぐうたらな弟子(つまりヘタレ仏教徒)のつもりでいる。すると、
・釈迦の墓は無い
・仏舎利と称するモノがあちこちに散らばって事実上の散骨状態である
・思想の主要部分が「諸行無常」
……これで、墓を残すことにこだわるという結論がどうすれば導き出せるのかと。
私には葬式も墓も不要で、むしろ散骨した後はきれいさっぱり忘れ去られるのが分相応という結論しか出てこない。墓にこだわれと言われたら、そんなに無情が怖いのかとツッコミの一つも入れたくなる。もちろんこれはあくまでも私個人について、という意味で、普通にどこかの寺の檀家で先祖代々の墓を維持している多くの人を否定する趣旨ではないし、墓参りを期待して作られている墓に参ることを私が拒否するという趣旨でもない。

 ただ、葬式も墓も要らないが教材にはなりたいので、バラしてプラスティネーションにして保存とか、骨格標本を作ってガラスケースの中で陳列されるというのは大いに希望したい。

 墓石がこけむしたって別にぞっとする必要は無いかと>大槻先生。そのレベルを超えて考古学の対象級になるまで残れば、後世の発掘対象となって誰かのメシの種になるかもしれない。まあ、掘ったら遺跡が出てきて発掘調査のため工事がストップ、という、後世の工期遅れの原因を作る可能性もあるが。