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社会規範の部分でひっかかっただけでは

Posted on 4月 23rd, 2009 in 倉庫 by apj

 「こんな説明ではいかが?」へのコメント。

 また、「ニセ科学批判」が、ニセ科学を批判する事を目的とするならば、「ニセ科学批判批判に対する対処」はその範疇に無いはずである。
 しかし、ニセ科学に対する態度と同様(もしくはそれ以上に)皆鋭敏に反応する。その有様が他者に与える印象の問題は先に述べたものと同様である。

 ニセ科学の定義の中に「科学を装う」が入っていて、これは「ウソをついてはいけない」「不確かなことを言いふらしてはいけない」といった社会規範を含んでいる。ニセ科学を問題にするということは、他の多くの人達が「ウソでもまあいいのでは」「不確かに対して細かいこと言うなよ」と、ニセ科学を抵抗なく受け容れているときに「いや、それはやっぱり問題だ」と言わなければならないということである。であるならば、ニセ科学を問題とする人達は、そうでない人達よりも「ウソをついてはいけない」「不確かなことを言いふらしてはいけない」といった社会規範に対して敏感、あるいは規範を重んじる事が多いのだろうと考えられる。
 「ニセ科学批判批判」は、批判対象が具体的でなかったり、実際にニセ科学を問題にしている特定の人にあてはまらない内容を含んでいたりすることがほとんどだったので、特に、「ウソをついてはいけない」「不確かなことを言いふらしてはいけない」という社会規範に触れていることが目に付きやすかったというだけの話じゃないだろうか。

 「ニセ科学批判批判」をするのなら、最低でもニセ科学の定義は知っていないとできないし、知っていれば定義の中に「ウソをついてはいけない」「不確かなことを言いふらしてはいけない」という規範が含まれていることもわかるはずである。これらの規範を重んじている人達について論じる際に、これらの規範に触れる或いはこれらの規範を軽視する内容を書いて公表したら、内容について糺されるのは当然の帰結だろう。これまで見た限り「ニセ科学批判批判」は、批判対象にしている人達が尊重しているであろう社会規範を最初から無視するという態度に出ている。熟慮の上でその社会規範に反対の立場をとった、というのではなくて、ただ単に考慮していないように見える。

 なお、「批判の仕方が他人からどう見えるか」という論点を取り上げる人はこれまでにもたくさんいた。しかし、ニセ科学蔓延の原因の1つが規範意識の低下であることまで考えれば、「ニセ科学を問題にするときは他人の視線を考慮せよ」と主張するということは、情報伝達の技術の問題として論じたのでなければ、「社会規範を重んじるよりも、その場の空気を重視すべきである」と主張しているのだということになる。世間の「空気」が「不確かでもまあいいか」であることは、ニセ科学が広く流通していることから明らかである。そして、ネットでの議論の殆どは、空気を重視することも大事な顔見知りの間でなされたものではない。「ニセ科学批判批判」で、他人の視線を気にせよと言った人は、純粋に表現技術の問題として議論したのでない限り、「社会規範よりもその場の雰囲気が大事」という価値観の持ち主であったと考えざるを得ない。このことを自覚してもらいたい。

 もし、「社会規範よりもその場の雰囲気が大事」という自らの価値観を正面から認めず、心の奥底に隠したままで、「ニセ科学批判」なるものを想定し、自己正当化のために「ニセ科学批判批判」をしているのだとしたら、意識的であろうと無意識的であろうと、醜悪だと思う。ニセ科学の定義が含んでいる社会規範は既にある程度明らかになっているのだから、「ニセ科学批判批判」をすると自称するのなら、まずはその背景となっている価値観を明らかにされたい。

【追記2009/05/02】
 このエントリーは後日、一部撤回するかも。
 社会規範の側が「騙してもかまわない」となっても、ニセ科学の定義で引っ掛かるものに違いはないだろうということをPseuDoctorさんが指摘しておられて、私もその通りだと思ったので。
 近日中にニセ科学まとめでも書こうかと思っているので、その時に反映させるつもり。