Feed

そこまでいく前の話

Posted on 5月 1st, 2009 in 倉庫 by apj

 「不機嫌な茶飲み話:文脈」へのコメント。
(コメントの投稿の仕方がわからないので、ここに書いてトラックバックしておくことにする。向こうのコードがEUCだったので、こちらもそれに合わせてトラックバックしたら文字化けした。こちらでUTF-8を選ぶと大丈夫みたい。申し訳ありませんが1つ前のトラックバックは削除していただければと>kaqu11さん)

 apjさんの発言は、科学と宗教とを比較して「科学の限界の表明」をし、「科学の本質的な特徴」を説明したものだと読みましたが(鍵括弧内はTAKESANさんのエントリからの引用)、それは十分「科学とはなんぞや」という話につながっていく一般的な話ではないでしょうか。

 多分これは、「ヴィトンのバッグに置き換えろ」で書いたものが元ネタになったと思われるのだが、科学と宗教を比較したのは言及先のchnpkさんであって、私ではなかった。私は、科学についてのみ、限界があると主張しただけであって、宗教については何も述べていない。科学についての相当酷い誤解を解こうとしただけだった。
 私が「科学は自然の近似」とわざわざ言わなければならないのは、相手が「科学者は科学を真理だと思っている」とか「科学は真理だから云々(受け容れるor反発する)」と言い出した場合に限られている。大抵の場合、この手の誤解に続く主張はアサッテの方向にいってしまうからである。だから、まずその入り口を何とかしないと、本筋の話もできない。
 いまどき、科学哲学的な議論をしようとすれば、「科学=真理」という単純な主張は出発点にすらならないのでは。
 科学哲学の議論よりもはるか手前の誤解を解くための文言を、科学哲学の議論の出発点にするというのは、ナンセンスとは思わないけど荒っぽい議論にしかならないだろうなあとは思う。「科学とは何ぞや」という話がある程度精密に出来るような状況なら、「科学は自然の近似」なんてわざわざ言わなくても済むんじゃないかな。

 なお、「水からの伝言」を私が批判したときは、批判の相当初期の頃から、科学としては間違ってて道徳としても不適切な内容だからダメで国語も台無しにするからダメ、とやっていた。
 だから、

 基本的に。「水からの伝言」を科学的な観点から批判している人は、自分の発言を思わぬ文脈で読み取られて批判されたとしてもあまり文句は言えないと思うんですよね。

は、少なくとも私には当てはまらないはず。
 ごく初期の頃は、科学的に間違っているという理由のみで「水からの伝言」を批判していたけど、その頃は、「水からの伝言」は浄水器のインチキ検査法として使われていただけだったので、科学の議論だけで足りていた。