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科学的正しさ以外の部分(=社会規範)の具体的内容への言及は何故か避けられる

Posted on 5月 8th, 2009 in 倉庫 by apj

 「権威の個人化」について。

 ここに2種類の権威の適用があります。第一の適用は、科学的事実をもとに、科学的事実について述べて、それを正しいとすること。第二の適用は、科学的事実をもつに、科学的事実を述べている人の科学的事実以外のことに関して正しいとすること。批判批判者はあくまで後者を批判している。

ニセ科学批判批判者が「ともかくお前らの態度が気に食わない」というスタンスを取ってしまうのはなぜか

すでに書きましたが、おそらくそれはニセ科学批判者が第二の適用をするから。つまり、科学的事実以外の事柄にも、科学的事実並みの権威性があるかのようにふるまい、過剰に自分たちのふるまいを正当化しているからです。だから批判内容は批判しないのに批判態度は批判の対象にするのです。

 既にpoohさんのところに技術開発者さんが次のようにコメントしておられる。

なんていうか、私のように自然科学で飯を食っている者が、ニセ科学批判をする場合に、2種類の権威というのが絡んでくる訳です。一つは「その言説は科学的に正しいことではない」という主張を受け入れて貰うための「私は自然科学の専門家である」という権威ですね。でもってもう一つが、「嘘を言いふらしては成らない」という社会規範が持つ権威です。

私は消防署の人が防災講話で家庭用報知器の設置を勧めるときに、「消防署が訪問販売することはありません、ホームセンターなどでは5千円から1万円で売っていますから、訪問販売に気を付けてください」という話をすることなどを引き合いに出して、この2種類の権威の絡み方というのを説明しようとしたりします。消防署の人が「消防署が訪問販売することはありません」と言うのは「消防署の方から来ました」という訪問販売で、「消防署が売りに来た」と誤認されることを避けようとしています。ですが、消防署の人がわざわざ講話でこの話をするのは、身分を偽るタイプの訪問販売が「社会的規範に違反する社会的悪である」という前提を踏まえています。この社会的規範も規範としての権威を持っている訳です。

理解して欲しいのは、この2番目の社会的規範の権威性というのは、或る意味で社会に生きる者全てが自然に或る程度は従う部分があると言うことなんです。実際、ニセ科学批判をする科学者・技術者も、「消防署が訪問販売はしない」と言う消防署員も、それぞれの立場を離れた一社会人として、その社会規範の権威性を認め、それゆえ、それは誰にも分かることだろうと詳しく説明することなく利用している訳です。

実際には、多くの人がニセ科学批判を行おうとして、この二番目の権威が機能しない事に気が付いて愕然とする訳です。面白い事に消防署の講話に対して「消防署が訪問販売しないことはわかったよ、だけど消防署員と思わせて報知器売ったってかまわないだろう」と噛みつく人というのには逢ったことがありません(まあ、たまには居るかもしれませんが)。でもニセ科学批判では「科学的でないという事は分かったよ、でも科学が全てでは無いだろ、なんて言いふらしちゃいけないんだ」という人が結構な割合でいます。つまり、二番目の社会規範の権威性が機能しない訳です。

by 技術開発者 (2009-05-08 08:42)

 私も、正しさが、科学の部分と社会規範の部分の二重構造になっているという認識を持っている。

 で、blupyさんの議論で、どうして肝心のことが書かれていないのかを問題にしたい。
「科学的事実以外のことに関して正しいとすること」
「科学的事実以外の事柄にも、科学的事実並みの権威性があるかのようにふるまい、過剰に自分たちのふるまいを正当化しているからです」
と書いておきながら、「科学的事実以外のこと」の具体的内容が一切述べられていない。というか、むしろ巧みに避けられている。それはなぜか。

 私がニセ科学を問題にする時は、「嘘(や不確かなこと)を言いふらしてはいけない」という社会規範を前提としている。だから、blupyさんが言うところの「科学的事実以外のこと」=「嘘(や不確かなこと)を言いふらしてはいけない、というのは社会規範である」となる。で、私は、例外はあるとしてもこれを社会規範だと主張することが、「過剰な正当化」であるとは考えていない。そして、この場合の権威は、科学にあるのてもなく、特定個人にあるのでもなくて、社会規範そのものにあると考えている。

 この第二の権威の適用は独立に議論すべき論点だと言うのなら、議論すべきだと主張する側がまず「科学的事実以外のこと」とは一体何であると考えているのか、その中身を具体的に示さないと話が始まらない。1つでも2つでも例があればはっきりするのだが、なぜか例が出てこない。中身の特定を避けて、「科学的事実以外のこと」だけで済ますのは、一種のゴマカシではないのか。

 私は、既に、科学的正しさ以外の部分とは「嘘(や不確かなこと)を言いふらしてはいけない、というのを社会規範であるとすること」と特定した。これまでの議論でもそのように書いてきた。一方、「批判批判」を標榜する側は、科学的正しさ以外の部分を問題にすると言いつつ(あるいはそのようなそぶりを見せつつ)、批判の態度云々といった曖昧なところで済ませてしまって、具体的な中身をちっとも特定してくれない。このために話が先に進まなくなっている。

 もし、blupyさんの指摘通り、批判批判を標榜する人達が本当に批判したかったものが”科学的正しさ以外の部分について権威を正当化するという行為”であったとするならば、その内容を特定して具体的に批判しなければならなかった。にもかかわらず、科学的正しさ以外の部分とは何かという特定を怠った上に、批判者の態度などという本来の対象ではないものを批判して誤魔化し続けてきたことについては、今更弁護のしようがないと思う。blupyさんの主張である、批判批判者は科学に背を向けていない、ということを受け容れるのなら、なおさら、批判批判側が本筋でないことばっかり言い続けてきたという不誠実さが際だってくるだけはないか。

 「科学的正しさ以外の部分」を問題にするなら、例えば私が特定した社会規範について問題にするのか、それとももっと他のことを考えているのか、まずははっきりさせてほしい。これは、blupyさんに対してというよりも、他の、同様のことを問題にする人に対して求めたいことである。

【言及リンク用追記】
 このエントリーは、poohさんの「齟齬」に関連している。