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需要と供給を無視するからいけない

Posted on 11月 5th, 2006 in 倉庫 by apj

 Yahoo経由、読売新聞の記事より。

就職難の博士たちへ、国立8大学が企業との交流サイト

 国立8大学が、インターネットの“社交場”と言われる「ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)」のウェブ・サイトを独自に運営することになった。

 就職難の博士たちを支援するためで、近く本格サービスを開始する。

 大学院博士課程修了者(ポスドク)は、「視野が狭い」「柔軟性に欠ける」などの理由で企業から敬遠されがち。東工大の調査では毎年、国内の約1万4000人の修了者のうち、5割程度しか就職できない。

 北大、東北大、東大、名大、京大、阪大、九大と東工大の工学部が開設する「大学SNS」は、交流によって“浪人博士”たちの関心の幅を広げ、企業との接点を増やすことを狙う。
(読売新聞) – 11月5日12時49分更新

 「5割程度しか就職できない」といっても、その5割のうち、任期なしの職を得ているのは一体何割なのか。任期付きのポストだったら、任期が切れればまた無職に逆戻りだから、数年後には就職できない方にカウントされることになる。まず、数字として「5割」は多すぎではないのか。
 こんなことになったのは、大学院重点化を政策的にやって、需要もないのに供給だけ増やしたからだろう。重点化の前頃には、OD問題は大体解消していた。それを政策的に復活させたのが大学院重点化である。
 企業は必要な人材なら採用するだろうから、博士課程の定員増が、もし「博士取得者の企業採用増→大学や研究機関のスタッフの確保が難しくなる→博士課程の定員増」の順番で起きていて、定員の増加が適切であったなら、こんな問題は生じなかったはずである。実際には、企業側は景気の変動もあってそうそう採用はないし、大学は少子化で定員削減がかかり続けているし、独立行政法人の研究所も定員削減の方向にある。
 どう考えても定員増を決めた時の需給見通しが大甘だったわけで、今困っている人達の救済策は別に行うとしても、当分の間供給側を絞る以外に、解決する道はないのではないか。

 博士の就職支援のサイトに「博士の生き方」というのがある。タイムリーに「第40回:学部生の就職と大学院生の就職」「第41回:博士の望む就職先」が掲載されている。40回からいくつか引用してコメントしておく。

 博士課程に関しても、それが大学教員・公的機関の研究者の養成課程となっていることについて、そのことが毎年1万人以上の人たちをひき付けている(全員とは言わないまでも大学に残りたいと思って入学してくる人は私の実感としても、次回に示すアンケート調査の結果を鑑みても、多いと感じております)ことを考えると、そのことが博士課程の魅力なのではないかと考えることもできるのではないかと思います。

 その「魅力」を判断する際に、「十分な情報が与えられていたか?」は問題にすべきだろう。

博士課程の現在もっている魅力をより高めるために、現在、大学教員になるためのしきいはきわめて高くなっているとは思うのですが、そのしきいが本当に高いということを明確し、それにチャレンジすることは人生を損ねることではないしすばらしいことなんだと示すことが一つの方法なのではないかと感じております。

 というのはもっともだが、博士課程に進学を希望する学生に対して、この厳しさをきちんと数値で示している人がどれだけ居るのか。今、研究室を主催して博士課程の院生を指導しているのは、おそらく私より数年上以上の世代だろうが、その世代はちょうどOD問題が解決に向かう頃に大学に職を得た人達で、今の状況に対する認識が甘いのではないかと思う。自分たちが就職できた頃の成果やら業績やらを基準にして、安易に進学を薦めているのではないか?

自分で人生を選んできた方々に対していまさらいろいろな可能性があるんだよと説くことは余計なおせっかいなような気もしますし、可能性として示されている職業がそれほど魅力的に映らない場合が多いという問題もあるように思います。博士課程の学生が多様なキャリアパスを歩まないといけないということは、そのこと自体が博士課程の魅力を減じてしまうことにもつながってしまうのではないかと危惧をいたします。

 人生を選ぶにあたっての情報が十分に示されていれば、いろいろな可能性があると後から説くことはお節介かもしれない。しかし、私にはそうは思えない。大学院重点化の時のふれこみは、教員や研究者に特化した人材を養成するというものでは無かったはずだ。むしろ多様なキャリアパスを選ぶこと、それが主に企業への就職だったり起業だったりするということが前提とされていたのではないか。そのことが十分伝わっていなかったから、相変わらず理学系と農学系で研究者・教員指向が続いているということではないのか。つまり、十分な情報が伝わっていないから現状のようなこことになっているという理解も可能である。もし、多様なキャリアパスを歩まなければならないという理由で博士課程の魅力が減るなら、それはそれで最初の重点化の狙いに一致するのだから、問題はないと思う。それで進学者の数が減れば、需要と供給は一致する方向に向かう(勿論、初期の頃に進学して職を得られず不安定なままおかれている人達への救済策は必要だろう、政策的に作り出されたものだから)。
 41回で述べられている、アンケートからまとめた望ましい就職先の平均像は

まともな研究開発のできる大企業か中規模の企業で、給料は修士卒同年齢よりも高めかせめて同程度、職種としては研究開発職、仕事内容としては、興味の持てる仕事か専門性の生かせる仕事、そして雇用条件としては終身雇用という形が得られます。

 と、まあ尤もなものになっている。
現状では、平均より3年余計に学費を払い、その間の収入は一部(学振など)を除いて無く、修了してからは任期制の職ばかりで3年に一回転職を強いられ続け、アカデミックやら研究機関やらに職を得られるのはそのうちの一部だけ、残りは企業への就職を考える頃には企業の好む年齢をとっくに超えていることになる。途中でケガや病気をしたら、社会保障が弱い状況に置かれているので大ダメージ必至である。それでも「高学歴」「好きでやっているから」「意義があるから」という価値観でもって研究に邁進する……というと聞こえはいいが、雇用という面から見ると、ちょっと前に紹介した、バイク便ライダーの世界とちっとも変わらない。やってることが、体を使ってバイクを転がすか、頭を使って研究をするかの違いだけに見える。イヤなことに、脱落した人間が完全にその世界から消え去るというところまでそっくりである。「人材流動化」「研究の活性化」を謳うときに「雇用問題である」ということが表だって出ないように誘導されたのは、やはり意図的にやられたことなんだろうか。

とりあえず山形に戻った……

Posted on 11月 3rd, 2006 in 倉庫 by apj

 大ドジ踏んだ経過報告。結果的に下のエントリのコメントののnaka64さんの情報がヒットした。
 昨日やってもらった応急処置は、足の後ろ側から、中に針金が入っているウレタンマットみたいなのを曲げて当て、包帯で固定しただけだった。その状態で一晩過ごすと、骨折の場所よりもむしろ、針金が踵に当たっている部分の方が痛み出して寝てられないことがわかった。また、本当に応急処置なので、そんなに頑丈ではなく、次に動かしたりぶつけたりしたら入院コースまっしぐらなのは目に見えていて、そのまま動き回るのは危険である。それで、できれば今日中に固定しなおしてもらうことを考えた。
祝日診療している病院に絞って探したら、近場の練馬総合病院が整形外科もやってた。最初にそこに電話したら、当直の先生が整形外科専門だということで、一応くじ運は良かったっぽい。電話予約を入れて、タクシーを拾ってたどり着いた。もう一回X-ray、折れたところがずれてないことを確認して、今度はきちんと固定。医療用材料が良くなってるのか、シート状のものを裏から当てるだけで数分で完全に固まる(しまった、何使ってるのか訊いてくるのを忘れた)。とりあえず動かなくなり、中で当たって痛いということもなくなり、移動しても大丈夫な状態に。
 とにかく今回は情報提供をありがとうございました>皆様。
 で、同窓会に出ようかどうしようか考えたのだが、筋力が足りずに断念した。そのまま山形に戻るのがやっとだった。
 普段の私の東京行き装備は、背中に本やらパソコンやら筆記用具、電子辞書、電卓といったものを背負い、充電ケーブル一式、テーブルタップ、iPod、着替えなんかを別バッグに入れている。バッグの方は、おやつやら飲み物やらDVDやらさらに追加の本(最近はイタリア語の辞書と単語帳であることが多い)が入っている。両足が使える状態なら、普段からこの程度のものは持ち歩いているので歩いても何ともないわけで、要するに、両足、腰、背筋あたりが適当に鍛えられているらしい。それが片足で両手に杖になると、荷物+体重を両腕で支えて持ち上げることになる。すると、腕で突っ張ってものを上げるための筋肉を使いまくるのだが、普段の自転車通勤ではそこちっとも鍛えられていない。結果、ちょっと歩くと息が切れる上、無事な方の左足が怠くなって身動きがとれない。体重+筆記用具と雨具程度なら、ちょっと慣れれば何とかなりそうだが、PowerBookG4を背負うのは私の筋力ではちょっと無理かな、と。
 まあとにかく今回は、荷物込みの移動がえらく大変だったので、車椅子をちょこっと借りたり、JRの案内の係の人に荷物を運んでもらったりして、随分あちこちでお世話になった。話をしてみると、私と同様な失敗を旅行に来た先の駅の階段でやっちゃう人も珍しくはなく、もともと車椅子で移動してきてる人以外にも対応することがあるのだそうだ。このへんのサポートの設備も体勢も結構充実している(ことが使う側になってみて初めてわかった)。とにかく、今回お世話になった方々には(それが職務であったとしても)この場を使ってお礼を申し上げたい。ありがとうございました。
 あと、元気な時には気付かない一人暮らしのポイントがいくつか……。まず、アパートは一階か、上の階ならエレベータで階段無しで部屋まで到達できる物件を選ぶべし。私の東京定宿のように狭い螺旋階段しかないと、帰ることもできない。トイレは洋式に限る。和式なら即アウトである。家具として、転がして移動できるワゴンでも椅子でも1つは置いておくこと。部屋の中の移動は這ってでも片足ジャンプででも杖でも何とでもなるが、とにかくお茶やら料理やらを運ぶのを一人でやろうとすると、「台車方式」が最も安全である(そうでないと、さらに火傷を追加する羽目になる)。

骨折しました・ラブホに居ます

Posted on 11月 3rd, 2006 in 倉庫 by apj

 既に日が変わって3日になってしまったのだが、今日は千葉大の時の同窓会があるので、昨日の夕方仕事が終わってから東京に出てきた。で、初めて入った店で遅い夕食を食べて、さあ帰ろうとしたところで、店の入り口の10cm程度の段差を忘れていて、右足をひねってコケた。何とか起き上がれたものの、直後に貧血みたいになって目の前が真っ暗になって冷や汗が出て動けず、店に寝かされて救急車で近くの病院へ。貧血症状は10分程度でかなり落ち着いたのだが、右足は痛くてまったく地面につけられない状態になった。パルスオキシメータを使われたのが初めてで珍しかった(つか、1つ欲しいと思った)。脈拍と酸素濃度同時測定できて便利。血圧は、東京消防庁のも行った先の病院のも、上衣の上からでも測れるものが使われていた(学生の頃に聴診器をかまえて水銀柱の懐かしいアレで測ったことがあるけど、今は便利になっている)。救急隊の人、除細動器持ってきていた。誰かが倒れたというときの定番の装備なんだろう。
 X-rayの結果、右足首のところを骨折してた。骨はズレてないのでとりあえずサーネ固定されてる。明日か明後日のうちに整形に行って診てもらわないといけないのだが、休日だし、診療してるところはあるかな?(歯科だと東京医科歯科がやってるはずなんだが……)とにかくあんまり動き回れない。今は大丈夫だけどしっかり折れてるので、骨がずれたら手術するしかない、だから早めに整形に行ってきちんと処置しろと医者に申し渡された。
 松葉杖無しで歩けない&東京定宿の狭い階段は危険過ぎてとても無理、という状態なので、とりあえず病院までタクシーを呼んで、近くのそこそこ安いホテルを探してもらったら、運転手さんが知ってたのがたまたまラブホしかなかった……。
 背に腹は代えられないし、この際エレベータで上がれりゃもう何だっていいや、ということで、普通はこの手のホテルは一人ではダメなんだろうけど頼み込んで交渉成立。おかげで、練馬のラブホで一人で泊まっている。
 珍しいので部屋の中をじっくり眺めてみた。ベッドはそんなに広くない。シングルより若干広めかもしれないが、この間プラハで泊まったのシングルと変わらないので微妙。枕はもちろん2つある。風呂はユニットじゃなくてバス・トイレ別になってる。風呂場は普通のアパートの風呂場と変わらない。内装も地味で、普通のビジネスホテルと言っても違和感はまったくない。洗面所も、使い捨て歯ブラシ、安全カミソリ、シャワーキャップなど、ビジネスホテル定番の品が置かれている。まあ、目立った違いといえば、普通のホテルなら自販機でこっそり売ってるはずのスキンが、堂々と灰皿の横に配置されている位かな。フロントは最低限しか窓が開いて無くて、係の人と顔を合わせず入れるようになっていた。とにかく、この手の所に来たのは初めてなので、予想外のアクシデントとはいえ見識を深めましたよ……orz(←これが今回は単なる記号では済まず、今現在杖がないとこういう姿勢でしか部屋の中を移動できない)。

 さて、休日で整形やってるのって、都内ならどこだろう。山手線沿線&内側なら到達可能。ネット使って探すか。もしおすすめのところがあったら教えて欲しい。とにかく明日か明後日にはちゃんと処置しないとまずい。

 そういえば、自転車で段差でコケて顎を7針縫ったのって去年の今頃だったな。秋口の段差は私にとって鬼門らしい。何か年々ダメージが大きくなっていく気がして、来年迎えるのが鬱なのだが。

読売社説より

Posted on 11月 2nd, 2006 in 倉庫 by apj

 酔うぞの遠めがね経由、読売の社説より。赤字部分は私がつけた。

[必修逃れ救済]「“騒動”で見えた高校教育の課題」

 原則70回の補習で救う――。
 全国540に上る公私立高校で、生徒が卒業に必要な科目を履修していなかった問題で、政府の救済策がまとまった。
 履修漏れが2単位(50分の授業で70回分)を超える生徒でも、70回の補習とリポート提出などで単位取得を認める。2単位以内の生徒には、一部の補習免除など弾力運用を認める。卒業生の過去の履修漏れは不問に付す。
 これらの救済策を検討する過程で、与党内からは、履修漏れの3年生の7割以上を占める2単位不足の生徒について、補習の負担を50回まで軽減すべきだとの主張も出ていた。
 文部科学省は、学習指導要領の法的拘束性やルール維持にこだわった。「生徒に罪はない」という声に、なし崩し的妥協をすれば、自ら指導要領の拘束力を否定することにもつながりかねない。
 受験を控えつつ、きちんと必修科目を履修してきた生徒たちにも不公平感を生む。譲れぬ最低ラインとして「70回」を強調した。「弾力運用」を認めたのは、救済の「スピード」を意識しつつ与党側との着地点を探った結果だろう。
 これ以上、生徒たちの動揺、受験への不安感が募らないよう、関係者は十分に配慮してほしい。
 今回の騒動は一体何だったのか。その検証作業が必要だ。
 必修逃れは5年ほど前にも広島、兵庫などの高校で発覚した。文科省は各教委の担当者を集めた会議で口頭指導するだけで、全国調査などは行わなかった。
 必修逃れは、多くの高校で「公然の秘密」として次年度に引き継がれ、教委には虚偽の履修届が提出されて来た。
 その教委も「知らなかった」では済まされまい。必修逃れの高校の校長が後に教育長になったところもある。
 規制緩和の一環として、教委の廃止論も出ていた。今回、必修逃れや「いじめ自殺」への対応のまずさが露呈したことで、教委の監督機能や問題対応能力を高めるための検討が「教育再生会議」で始められることになった。教委の役割を、根本から議論してほしい。
 学習指導要領をどう見直すか。受験偏重の今の高校教育をどう改善するか。行政と現場に突きつけられた課題だ。
 「大学入試が高校以下の教育内容を決めている」。そう言われるほど、「受験」をゴールとした教育の道筋が敷かれてしまっている。
 そこに生じた「ひずみ」の一つが、今回の必修逃れだったと言えよう。
 大学入試制度を見直すための、腰を据えた論議も必要だ。
(2006年11月2日1時55分 読売新聞)

高校教育が受験偏重になっているのは確かだろうが、それが大学のせいだと言われると、ちょっと待てといいたい。大学入試を規定しているのは、大学ではなく、現実には高校教育の内容である。このことを知る良い例が、日本化学会の学会誌「化学と工業」を見ることである。ここ数年、大学入試が終わった頃に「化学の大学入試問題を考える」という特集が組まれ、いろんな大学の出題が大学入試問題としてふさわしいかどうかが議論されている。その時に厳しく突っ込まれるのが「高校で学習する範囲の逸脱」「指導要領からの逸脱」である。さらに、「特定の教科書にしか出ていない内容」は不公平を生じるので望ましくなく、「多くの教科書が共通して取り上げている内容」が望ましいとされている。これでは、出せる問題の範囲もパターンもきわめて狭くなるのは、誰が考えたってわかることだ。にもかかわらず、うかつに過去の問題と似た問題を出したら批判される。
 自然現象は化学的なものだけが単独で起きるわけではない。物理現象とからんで起きるのが現実である。しかしそういう題材を出題しようとしたら、化学の範囲を超えているといって、化学会に批判される。自然現象を人工的に分断して考えさせようとしているのは一体誰なのか。
 こういうことに化学会は学会をあげて取り組んでいるが、おそらく他の分野も縛られ具合は同様なのではないだろうか。
 どうしてここまで高校教育の内容に大学入試が縛られなければならないのか、というのが、私個人としては非常に納得できないところである。私は、「受験勉強が無意味になるような問題」「事前に対策が立てられない問題」で本人の資質を見るのが一番いい大学入試問題だと考えている。たとえば、高校の範囲は逸脱してもいいかわりに、無闇な暗記は要求せず、考える手掛かりになるより進んだ(大学で使うような)教科書の一部を与えて読ませ、その理解をその場で問うといったことをすれば、事前の受験勉強は無意味になるだろう。大学に入ってからは、膨大な範囲について同様のことをしないと単位がとれないわけだから、大学の講義をフォローできるかどうかを見るには、むしろこのほうが良い。しかし、指導要領・教科書に取り上げられている物質と現象にガチガチに縛られているため、そういう出題ができる日が来るのは夢のまた夢である。実際には、範囲から逸脱すれば、その途端、マスコミと予備校の餌食にされてしまう。
 大学には入学定員があって、それを充足しなければならない。難問過ぎて受験者が誰も手出しできなければ、問題で差がつかず、選抜できないわけだから試験は失敗となる。範囲を大幅に逸脱して誰もわからなくても同様。「選抜の役に立つ」ということが要求され、競争試験である限り、本来なら何を出したっていいはずだ。
 ここまで書けばわかるはずだ。大学受験が高校のカリキュラムに影響を及ぼしているのではない。大学入試を、高校の指導要領が縛り付けているのだ。読売の社説とは、話は全く逆である。

重たい話

Posted on 11月 1st, 2006 in 倉庫 by apj

 「高校生の通学カバンは15kgもある」より。大学だとどうなるかちょっと考えてみた。
1位:医学部 教科書はどれも大判、分厚い、高密度な光沢紙の三重苦。
2位&3位 The CELL + ハーパー生化学の生物系と 、アトキンス(物化)+モリソン・ボイド(有機)+シュライバー(無機)+ヴォート(生化) の4連コンボの化学系の戦い
4位 法学部 (但し模範六法を紙で持ち歩いた場合)

分厚くてしょうがない教科書って、物理系じゃあんまり見かけないなぁ。輸入物の原著だと時々あるけど。