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教育の価値はずっと後にならないとわからない

Posted on 10月 18th, 2007 in 倉庫 by apj

(消失したエントリーを、渋研Xの亀さんが手元のRSSリーダーからサルベージしておくってくださったので再掲。ありがとうございましたm(_ _)m)

 久しぶりに高校の時に親しくしていただいた先生に電話をした。近況報告の後で、高校の時の教育が役立っているという話をした。
 私が通っていた高校(滋賀県立虎姫高等学校)は、私が在学していた頃は、理系文系問わずに可能な限り広く知識を詰め込む方式だった。だから、理系だったにもかかわらず社会科は全科目履修(当時は現代社会、日本史、世界史、地理)したし、理科も4科目のうち物理・化学は全部、生物・地学は全内容の半分程度は履修した(当時は、理科I+理科4科目)。
 で、卒業して20年近くたって、法哲学やら法社会学といった法学基礎という分野の本を読むことになって、社会科フル履修がもろに効いていることがわかった。細かい年号やら人名やらは忘れていても、大体の流れは記憶に残っているわけで……。高校の範囲の思想史やら世界史やらをやってなかったら、ローマ法から続く法の歴史をたどるのはかなり敷居が高かっただろう。
 話をした先生は社会科の先生つまり文系コースを過ごした方だが、やっぱり虎姫高校出身で、カリキュラムには無かった微積分を教わった。入試には役立たないがこういう考え方があることも知っておいた方がいいだろうということで授業が行われたとのことだった。その後使うことは無かったが、別の世界があるということを知ったとおっしゃっていた。
 何でも、虎姫高校には伝統的に「○全」という考え方があったとのことで、とにかく広く教養を叩き込むべきだという一種の思想が共有されていたらしい。何だか旧制高校みたいなイメージだなぁ。
 まあ、在学当時はサボリだったから、社会科は面倒な暗記科目だとしか思っていなかったが、今頃になって、自分の専門外の分野に手出しするときの基礎体力(基礎学力と呼ぶべきかもしれないが、あえて体力といいたい)になっていることを実感してしまった。サボリの私にも有効なんだから、マジメな人だったらもっと有効に違いない。
 
 ゆとりにして科目選択制にして未履修の部分を増やすというのは、生徒をスポイルする結果にしかなっていなないのではないか。ただ単に生徒の将来の可能性を奪い去っているだけではないか。目先の大学入試だけどうにかすればいい、といったことでは教育の価値など測れない。大学に入ったら、一応は共通教育があるが、アラカルト方式でどうしても内容が偏るし、4年間は専門に特化したことを学ぶから、他のことをする余裕はない。その後、専門だけでは手に負えなくなって、何か新しいことを身に付けようとしたときには、高校の教育内容のあたりに戻ることになる。このとき、高校の履修内容が少なくて、中学まで戻らなければならないということになったら、対応するのがかなり難しくなる。
 高校の教育で自由度が広がったことを知るのは、おそらく卒業して10年以上経ってから、つまり社会に出て仕事をして、大学でやったことだけでもまだ足りないということになってからで、そこまでいかないと自分の受けた教育の価値はわからないし評価もできない。

 ということで、虎姫高校には、今後も可能な限り理系文系問わずに広い範囲を教えるようにしてもらいたいし、大学合格率なんかただの途中経過に過ぎないというスタンスでいてもらいたい。平気で未履修をかます高校が増えているのだから、目先の結果にこだわらずに教養を叩き込むことに意味がある、という価値観を維持することそのものの重要性は以前より増していると思う。

【追記】
 ここしばらく、時々サーバが激重になってます。思ったよりもblogのスクリプトの負荷が大きかったらしいし、他にもいろいろ増えたので、サーバ増強を計画中です。当面の対策として、全くつながらなくなるよりはマシということで、定期的にhttpdを上げ直していますが、tb書き込みによるファイル書き換えとぶつかったりすると、たまに中身が消えることもあるようです。


ここからは旧ブログのコメントです。


by 杉山真大 at 2007-10-18 06:50:18
Re:教育の価値はずっと後にならないとわからない

論旨には肯ける面があるのですけど、それが果たして現下の”学力低下”の問題に於いて如何程の有効性があるのでしょうかねぇ?

多分(全)なんて思想でやっていけるのは、その学校が”名門校”で優秀な学生を集めることが出来るという前提あってこそて気がするんですよね。仮にも学力が追いつかない人間にとって同じような(全)をやられて、結果大学進学での「差」→将来性の「差」→格差なんてなれば何の慰めにもなりません。しかも、そうした”名門校”に入るには(東大生の親が年収の多い層に偏っているという事実からして)相当の教育投資が必要になってくる。これでは社会階層がそのまんま学力更には学習意欲の差に影響するという問題点に何ら資さないんじゃないかと。

そもそも専門分野で得意になって面白がっている面子が、興味どころか苦手意識満々の人間相手に興味・関心を押し付けていることに問題があるんじゃないかと個人的には思っているのですが如何っすかね??


by miya.h at 2007-10-37 07:44:37
Re:教育の価値はずっと後にならないとわからない

 発言には多くの部分で賛同します。そして、ついたコメントも予想通りでした。もっともな部分があると思います
 要はバランスの問題でしょうか。

>仮にも学力が追いつかない人間にとって同じような(全)をやられて、結果大学進学での「差」→将来性の「差」→格差なんてなれば何の慰めにもなりません。

 バランスよくカリキュラムを形成することと、進学指導をすることはある程度両立が可能だと思います。
 ではなぜあえて受験に特化する「生徒のため」の偏ったカリキュラムが、しばしば組まれるかというと、私は「あまり保護者に受けない」からだと思います。「のんびりしている」というレッテルは中位以下の普通科進学校にとっては、命取りになりかねないのです。
 私は「『ドラゴン桜』の本音」と呼びますが、(程度の差こそあれ)普通では不可能な高偏差値の大学に入れる(押し込む?)力量が、高等学校の価値であるという風潮は存在しますし、多くの人のコンセンサスを得ています。少なくとも私はそう感じています。(ただし、その評価基準には疑問を持ってはいますが)
 学校は生徒の将来を幸せにするたまに存在するのだから、現場の人間としては、うまくバランスをとって将来を(いろりな意味で)保証する道を考えるべきだと思います。


by apj at 2007-10-44 23:33:44
Re:教育の価値はずっと後にならないとわからない

杉山真大さん、

>多分(全)なんて思想でやっていけるのは、その学校が”名門校”で優秀な学生を集めることが出来るという前提あってこそて気がするんですよね。

 というよりもその地域の文化だと思います。私が行ってた所は、地方の進学校はあったけど普通の県立高校でしたし。教育投資ったって当時はそもそも通える範囲に進学塾っぽいものすら無かったし(習字、そろばん、公文式くらいはぽつぽつとあった)。

>仮にも学力が追いつかない人間にとって同じような(全)をやられて、結果大学進学での「差」→将来性の「差」→格差なんてなれば何の慰めにもなりません。

 スタートラインで「できることはこれだけしかなくてこれが精一杯です」って人と「いろいろそれなりにできるけどそのうちのコレを選びました」って人では、大学のカリキュラム内容の理解どやら後の到達点がかなり違うのでは。
 心配しなくても、周辺ゼロな人とそうでない人は、社会に出てから選別される機会(他人によって、だけじゃなく環境によって、といった広い意味で)はたっぷりあるんじゃないかと。

 専門分野云々は邪推では。
あと、学力低下云々の話じゃなくて、「ゆとりで内容を学ぶ機会そのものが最初から無い」ことの方を問題にしてます。全科目履修させたって、勉強しなければ学力は低下しますし。


by apj at 2007-10-22 23:41:22
Re:教育の価値はずっと後にならないとわからない

miya.hさん、

>バランスよくカリキュラムを形成することと、進学指導をすることはある程度両立が可能だと思います。

 バランスがいいと、いろんなところを受験できて便利ですよね。迷っている場合は後になって進路変更したくなったりするけど、その場合でも対応できる。
コース分けして早いうちから履修科目を減らしてしまうと、途中から進路変更したいと思っても事実上できないか、難しい。
 古典の授業が高校でまともになくて、途中から国立受験に切り替えた人だと、高校在学中なのに別途予備校に通って古典をやるはめになったり(実際に聞いたケースです)。こんな場合と、経済状態などで予備校に通えない人は進路変更不可能になっちゃいますし。

 ゆとりで科目選択制にした効果は、早い時期に受験先を決めなければならず(つまりどれを学ぶか選んだ時点で受験先が決まってしまう)後の変更が大変、という形で生徒にはねかえっているんじゃないですか。現場の先生の意見を知りたいところですが。


by 杉山真大 at 2007-10-48 05:21:48
Re:教育の価値はずっと後にならないとわからない

>というよりもその地域の文化だと思います。私が行ってた所は、地方の進学校はあったけど普通の県立高校でしたし

「普通」って言ってみても、以前と現在とではレベルが違って来ちゃうのでは?進学率の向上という前提も考えないと、単純に「普通」させて実際の格差問題を隠蔽しては意味が無いでしょうに。

>教育投資ったって当時はそもそも通える範囲に進学塾っぽいものすら無かったし(習字、そろばん、公文式くらいはぽつぽつとあった)。

これも目に見え難かったんじゃないかと個人的には思いますね。進学率の向上=余裕があれば高校進学とも言えるし、更に恵まれていれば他所の”一流校”に進むって選択肢もあるんだし。
昔は「普通」に(全)だったって言われても、限られた恵まれてる人間だけが集まってたて印象を拭えません。色々と背景を考えちゃうと。

>スタートラインで「できることはこれだけしかなくてこれが精一杯です」って人と「いろいろそれなりにできるけどそのうちのコレを選びました」って人では、大学のカリキュラム内容の理解どやら後の到達点がかなり違うのでは。

って、その高校教育の初っ端で「できることはこれだけしかなくてこれが精一杯です」て問題があるんじゃないかって話なんで。そうした方々に「いろいろそれなりにできるけどそのうちのコレを選びました」って前提でモノを言っても、本当に「できることはこれだけ」って方々の苦悩を解決できるとは到底思えないんですよ。「いろいろそれなりにできる」術が見つからないのですから。

しかも「心配しなくても、周辺ゼロな人とそうでない人は、社会に出てから選別される機会(他人によって、だけじゃなく環境によって、といった広い意味で)はたっぷりあるんじゃないか」って・・・・・機会不平等も仕方無いからそれだけ努力しなさいって言うんですか!?そもそものスタートラインの不平等を解決できなくて、そんなこと言われても偽善としか思えないのですが。

>専門分野云々は邪推では。

そうとも言い切れないのですよ。学生時代に矢野健太郎氏の数学エッセイを読んだことがあるのですけど、「日本の数学教育の不幸なところは数学教育が理工系によって担われていて、理工系の興味関心で文科系になで数学を教えているからだ」って指摘に、文系志望の自分は妙に納得したものです。「火の玉教授」の『「文科系」が国を滅ぼす』でも理系の文系就職を嘆く場面が出てくるし、『理系白書』でも吉川弘之が同様に嘆いたりして、専門分野の興味関心を押し付けることが却って学生の離反を招いてるってことは、あながしハズレとは言い切れないんじゃ。

>あと、学力低下云々の話じゃなくて、「ゆとりで内容を学ぶ機会そのものが最初から無い」ことの方を問題にしてます。全科目履修させたって、勉強しなければ学力は低下しますし。

えぇ、でも機会があったからって意欲を無くす様な興味関心の押し付けでは、教育というか知育の意味が無いのでは?現実の社会にどう役立つかって意味をも含めて教えないと、現に競争に晒されている学生には何の説得力を持たない気がするのですが。


by apj at 2007-10-36 06:42:36
Re:教育の価値はずっと後にならないとわからない

杉山真大さん、

>進学率の向上という前提も考えないと
 高校進学率についていえば、私が在学中の時代で9割越えていたと記憶しているので、さらに増えたとしても劇的な変化ではないと思います。

>昔は「普通」に(全)だった
 普通に、とは書いてませんよどこにも。私が通っていた県立高校が、とは書きましたが。

>そもそものスタートラインの不平等を解決できなくて
 このスタートラインってどこですかね?幼稚園?小学校?中学校?
走るのが速い人遅い人がいるのと同じで、勉強向きの人とそうでない人が居るのは当たり前なので、厳密な意味で不平等の解決は不可能と思いますよ。
 努力次第である程度はカバーできるといったところでしょうか。走るのが遅くてもきちんとトレーニングして練習すればクラスの上位には入れるかも知れないけど、全日本ナントカに出るような選手になるのは無理、という感じでしょうか。で、そもそも走る練習をする機会が与えられないのは機会不平等だけど、機会があれば、それなりにうまくなるチャンスになるはずでは。

>限られた恵まれてる人間だけが集まってたて印象を拭えません。

 勉強することに割と向いているという意味で恵まれた人が集まっていたというのはあると思います。経済的には……わからないです。塾などに行く人が少ないし、層に別れるほど塾のキャパも無かったような。小中高と通える範囲にほとんど公立ばっかりしか学校が無かったから、経済的格差がそんなに効くとも思えない。

>「いろいろそれなりにできる」術が見つからないのですから。

これは、十二分に努力した上での話だと理解していいですか?
自分なりにやりましたって自己満足レベルの努力じゃなくて、他人と比べて十分に、の意味ですが。
#この部分、多少厳しい態度になってます。落とした人が多かった講義のフォローのために特別開講していたら「ついていけそうにない」と1回目でギブアップした学生を見たもので。「術が見つからない」のが本当なら仕方ないですが、「面倒だから術を見つかけるのやーめた」は違うだろうと。

>その高校教育の初っ端で「できることはこれだけしかなくてこれが精一杯です」て問題があるんじゃないかって話なんで。

それを高校の間に解消するということを目指す学校がもう少し増えてもいいんじゃないか、というのが私の意見です。そうでないと「機会不平等」が高校の間も維持され続けることになる。全ての高校でそれができるとは思っていませんが。
つまり、
いろいろルート:「いろいろできる高校」→大学でもいろいろできて専門の到達も良い→社会に出てからも専門+αができるプロとして扱われる
限定ルート:「内容へらしまくった高校」→大学では何とかついていけたが見通しが悪い→社会に出てから実力不足がバレる、いろいろできるルートからやってきた人と比べられたら不利
になりかねないので、「機会不平等」が高校在学中に固定される方向にいきかねないなぁ、と。


by 杉山真大 at 2007-11-32 08:32:32
Re:教育の価値はずっと後にならないとわからない

>走るのが速い人遅い人がいるのと同じで、勉強向きの人とそうでない人が居るのは当たり前なので、厳密な意味で不平等の解決は不可能と思いますよ。
>努力次第である程度はカバーできるといったところでしょうか。走るのが遅くてもきちんとトレーニングして練習すればクラスの上位には入れるかも知れないけど、全日本ナントカに出るような選手になるのは無理、という感じでしょうか。

そりゃ素質の不平等まで埋め合わせろというのは土台無理な話かも知れないでしょうけど、ただ素質の差が下手したら格差に繋がってしまうてのはチト問題じゃないかと思うのですが。
つい先程中教審の答申で授業数を増やすとか出ていたんですけど、理数系は以前の水準に戻る一方で社会科は体育以下の扱いなんですよね。これでは理科に興味がある人は素質が無くても救われるが、社会科に興味がある人は救われないってことになるんじゃ?そうした意味での「スタートラインの平等」と自分は考えていたのですが・・・・・

>経済的には……わからないです。塾などに行く人が少ないし、層に別れるほど塾のキャパも無かったような。小中高と通える範囲にほとんど公立ばっかりしか学校が無かったから、経済的格差がそんなに効くとも思えない。

でも相当恵まれていると、遠方の私立や名門校へ下宿したり寄宿舎に入ったりしててのはあったんじゃないですかね?自分のいた小学校でも、一人や二人そんなのが存在していた記憶がありますし。ただ昔は絶対数が少なかった分だけ判り難かったというだけではないかと。

>自分なりにやりましたって自己満足レベルの努力じゃなくて、他人と比べて十分に、の意味ですが。
>#この部分、多少厳しい態度になってます。落とした人が多かった講義のフォローのために特別開講していたら「ついていけそうにない」と1回目でギブアップした学生を見たもので。「術が見つからない」のが本当なら仕方ないですが、「面倒だから術を見つかけるのやーめた」は違うだろうと。

これで思ったんですけど、出来る人に幾らでも能力を伸ばす術が差し伸ばされていて、解らない人間にそれに追いつけと言っている中では「面倒だから術を見つかけるのやーめた」ってなっちゃうのは解らないでもないなって気がするのですが。努力して逆転可能というなら努力し甲斐があっても、努力しても報われずさりとて他の分野で頑張っても活かされる術が無い、これでは努力を放棄してしまう気になってしまうのでは・・・・・

>いろいろルート:「いろいろできる高校」→大学でもいろいろできて専門の到達も良い→社会に出てからも専門+αができるプロとして扱われる
>限定ルート:「内容へらしまくった高校」→大学では何とかついていけたが見通しが悪い→社会に出てから実力不足がバレる、いろいろできるルートからやってきた人と比べられたら不利
>になりかねないので、「機会不平等」が高校在学中に固定される方向にいきかねないなぁ、と。

それは一概に言えないんじゃないでしょうか?得意な分野に限定した結果、その分野に特化して専門性が身につき、その上で実績と自信がついたら他の分野への知的関心も出てきてもう一度再チャレンジ、ってルートもあるんじゃないかと。専門限定を早くから決めるのが必ずしもマイナスと言い切れないんじゃないし、むしろそれに適した生徒のためのキャリア・パスガ確立されていないって問題が大きいんじゃないかと考えてます。
#そう言えば、”ゆとり教育”の”戦犯”として兎角批判の矢面に晒されてた寺脇研氏も、職業高校(=限定ルート!)の教育を再評価していたんですよね。天羽様が職業高校についてどんな見方をしているのか個人的には気になります


by apj at 2007-11-43 07:59:43
Re:教育の価値はずっと後にならないとわからない

杉山真大さん、

>これでは理科に興味がある人は素質が無くても救われるが、社会科に興味がある人は救われないってことになるんじゃ?そうした意味での「スタートラインの平等」と自分は考えていたのですが・・・・・

 了解です。その部分、おっしゃりたいことを私が誤読してしまったようです。
普通科高校では、理科に限らず、将来の進路にかかわらず全分野をまんべんなくやれ、というのが私の意見です。

> 遠方の私立や名門校へ下宿したり寄宿舎に入ったりしててのはあったんじゃないですかね?

 そもそも自宅が山の中過ぎて、田んぼの真ん中の高校にも通えないという人がクラスに居まして、下宿していましたよ……。
 多分、遠方の私立や名門校へ、という人は居たかも知れませんが、中学の1学年に1人とか2人とかの例外的な存在だったはずです。

>他の分野で頑張っても活かされる術が無い、これでは努力を放棄してしまう気になってしまうのでは・・・・・

 大学まで来れば、すでに分野ごとに別れた後なので、その分野内では頑張れと言ってもいいんじゃないかと。というかがんばれない分野なら最初から選ぶなと。

>職業高校についてどんな見方をしているのか個人的には気になります

 職業高校についてはかなりポジティブに捉えています。高校で教えた経験はないのですが、高専で教えていたことはありますし。
 普通科の高校というのは、将来を絞り込めない人あるいは将来何が必要になるか分からない人が来るところなんですよね。だから全部やれという話になる。
 工業高校など、ある専門に早いウチに特化するのであれば、普通科でやることの一部を削ってでもやる意味があると思います。
 普通科の高校で、選択制で内容を減らすと、ちゃんとやっているところと比べるとマイナスにしかならないけど、減らした分別に専門を教えるのなら、それはプラスになるんじゃないですか。
 今時のことなので、工業高校3年間では十分な知識を身につけるのには少々時間が足りないんじゃないかと思いますが、高専の5年間はかなり充実しているようなので、もっと高専を活用してはどうかと思いました。
 また、高専は工学系に特化しているので、文系の高専のようなもの(経営学とか会計学とか法学を教える)があってもいいんじゃないでしょうか。


by 石田剛 at 2007-11-36 23:18:36
Re:教育の価値はずっと後にならないとわからない

>  また、高専は工学系に特化しているので、文系の高専の
> ようなもの(経営学とか会計学とか法学を教える)があっても
> いいんじゃないでしょうか。
面白い提案ですね。石田もあっても良さそうな気がしてます。

石田も実は 高専(工業に関する学科) を出ています。大学全入の時代に高専が生き延びるのは難しそうな気もしてるんですが、高専の良さが、もっと評価されて欲しい気はしています。(もっとも、石田はダメ学生でしたが…)

ところで、 高専(商船に関する学科) ってのがあるって事実は、もはや「トリビア」の域なんですかねぇ。まぁ、ちょっとしか無いんで、 高専≒工学 って認識でも良さそうな気はしてます。


by 杉山真大 at 2007-11-27 00:21:27
Re:教育の価値はずっと後にならないとわからない

>また、高専は工学系に特化しているので、文系の高専のようなもの(経営学とか会計学とか法学を教える)があってもいいんじゃないでしょうか。

てか、専門教育の初級クラスなら高専主体でいくべきなんじゃないでしょうか?
高校の看護学科なんか高卒で取れる准看護師の求人が少ないので、専攻科を同時に併設して5年一貫=実質高専教育と同じになっていますし、農業・商業更には情報や福祉なんかも職務内容が高度化・専門化している中では5年一貫で集中的に教えた方が好いのではって気がします。
#そう言えば広島の立志館大学の閉学の一件も、無理に4年制にせずに高専にした方が良かったんじゃないですかねぇ?やはり教育関係者には4年制大学のステータスが未だ信じられてるんでしょうか??


by 杉山真大 at 2008-04-43 07:10:43
Re:教育の価値はずっと後にならないとわからない

教育の効果、ってのとは違うかも知れませんが、なかなか示唆深いニュースがZAKZAKに載ってますね。

http://www.zakzak.co.jp/top/2008_04/t2008041536_all.html

能力があるって早期教育で伸ばしても必ずしも当人の利益になるとは限らない、ってこととは違うのですかね?親の過大な期待ってのも絡んでるし・・・・・