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懲戒処分の記載内容

Posted on 3月 29th, 2006 in 倉庫 by apj

 京都大の白川太郎教授が懲戒解雇された件について。金銭の管理にしくじったのなら処分は仕方がないが、それ以外の部分で少し気になったので、全文引用してコメントをつけておく。なお、○に数字は画像で埋め込まれていたので()に数字に変更した。

2006年3月28日
京都大学大学院医学研究科教授の懲戒処分

1.事案の概要
  本学の教授が、平成15年9月から同17年12月までの間、以下の行為を行ったことは、国立大学法人京都大学教職員懲戒規程第3条に規定する懲戒処分の事由である「信用失墜行為」及び「その他(大学の教職員としてふさわしくない行為をしたとき。)」に該当するものであり、これらの事実を総合的に判断して、本日、京都大学教職員就業規則に基づき懲戒処分を決定した。

(1)A社に対して、京都大学教授の肩書き及び顔写真が付され科学的根拠の少ないコメントを広告に使用することを許可し、これが平成16年8月30日(月曜日)の新聞朝刊の折り込み広告として配布されたことについて、同年11月11日(木曜日)に医学研究科長から文書による厳重注意を受けたにもかかわらず、その使用を停止させるための有効な措置をとらず、平成17年6月及び同年10月にいたっても同様の内容が同社のパンフレットに記載されて顧客に配布された。

(2)B社のホームページに平成17年3月頃、兼業許可を受けることなく、同社顧問として、京都大学教授の肩書き、顔写真、履歴及び業績を掲載させた。

(3)兼業先のC社から、平成16年7月8日(木曜日)に無利子で1,000万円の供与を受けた。

(4)D社からの回答によれば、同社から平成15年9月に研究開発費用として2,500万円、同16年1月に実験費用として1,000万円をそれぞれ受領したにもかかわらず、大学で定める正規の研究費受入の手続きを行わなかった。

(5)医学研究科は、平成17年6月10日(金曜日)に研究科長、同月23日(木曜日)に医学教授会が事情聴取を行い、金銭に関わる、(3)(4)の事項は重大であるので、その後も繰り返し事実を解明するため説明を求めたが、上記事情聴取において自ら述べた(3)、の(4)金銭の受領につきその確認が拒否される等、十分な回答がなされなかった。
 このため、医学研究科長は、最終的に、(4)の事項に限定して、平成17年11月22日(火曜日)及び同月30日(水曜日)に業務命令により回答書及び関係書類の提出を求めたが、これにも応じなかった。

2.懲戒処分の内容
京都大学大学院医学研究科 教授(50歳)      懲戒解雇

3.処分の決定日
   平成18年3月28日(火曜日)

 経理に不審なところがあれば、処分の対象になるのは当たり前だが、引っかかったのは(1)の項目である。健康がらみの宣伝で大学教授の名前や顔写真が使われるというのは良くあることだし、望ましいことではない場合が多いが、それを大学が注意していいのか?
 大学は産学連携や社会貢献を進めたがっており、「貢献してまっせ」という内容が世間に出ることをむしろ歓迎している。文書の中には「科学的根拠の少ないコメント」とあるが、一体どこで線を引くのかがあらかじめ明確でない限り、教員としては動きようがないし、萎縮効果をもたらすのではないか。コメントは編集されるから、ばっさり省略された挙げ句科学的に曖昧なものになることだってあり得る。
 大学が教員の活動内容のうち、情報発信の内容について規制することは、学問の自由との関連においても大きな問題を引き起こす。学問の自由の保障というのは、時の権力者や企業の利害に反しても真実を述べることを制限しないということである。これが必要だということは、歴史から学ぶことができる(憲法学の教科書が役立つだろう)。学問の自由を制度的に維持するには、怪しい情報が発信されることを規制できる制度やしくみを大学内に作ってはならない。なぜなら、怪しいか怪しくないかの判断それ自体が、時代や状況によって恣意的になされるおそれがあるからである。より大きな利益をもたらす「学問の自由」を維持するためには、怪しい話が混じるリスクを許容するしかない。
 私はこれまで、企業の怪しい宣伝に研究者が登場することを批判してきたし、その立場は今後も変わらない。しかし、大学が、研究者が怪しい宣伝のお先棒を担ぐことを規制するのは、どんな形でなされることであっても反対する。おかしな宣伝に荷担した学者は、言論の場で批判すればいい。現実の損害が発生した場合は、司法の場で責任を問えばよい。研究のねつ造のような、大学内で白黒つけられる場合はともかく、表現が絡むような曖昧な事案については、裁判所のような事実認定機能を持たない大学が手を出すのは避けるべきだろう。
 今回の処分は、(1)が無くても可能だったはずである。(1)の内容を文書に入れたのは、一見社会に対する責任を果たしているように見えるが、別の意味でまずいのではないか。