結局制度設計の問題になる

 「ニセ科学と向き合う」シンポジウムと、協同研究者の一般講演が終わって、春の物理学会の日程は個人的には終了した。シンポジウムは、田崎さんの司会で終了が30分伸びる盛況だった。なお、物理学会で使われているタイマーは、長時間を設定すると時計よりもちょっとだけ遅れる癖があるようだ。一般講演の15分では問題がないが、シンポジウムの40分となると気がつく程度には遅れる。タイマー全部がそうなのか、たまたま今回使ったものだけがそうなのかはよくわからない。
 発表で足りなかったところや、発表後に整理した点についていくつかメモをしておく。

 ニセ科学と向き合う方法(たとえば、教育活動でいくのか、批判するのか)、具体的に何をとりあげるのかは、それぞれの個人に任されている。他のもっと重要な○○を取り上げないのはよくない、といった批判は無意味である。

 ニセ科学を批判する、という活動をするのは良いが、それが権威になってしまうとまずい。「ニセ科学だ」と言って批判したがそれが間違っていた場合どうするのか、批判活動が独善に陥らないためにどうするか、という問題がある。

 現状での私の考え方は、

・研究者の情報発信の内容について、ねつ造を除いて大学に介入させてはならない
 ∵運営側の利害に反することがある。特に、運営側が企業や権力者に迎合しない保証はない。
・その裏返しとして、批判活動をするとしても大学に守ってもらうことは考えない
 ∵大学に権限を与えたら規制の口実も同時に与えることになる。具体的なトラブル処理は、最終的には法的手続きということになるが、大学の利害と研究者の利害が完全に一致するとは限らない。
・独善に陥らないために、直接社会とつないでおく。出した内容が損害を与えた場合はその情報を出した人が直接の責任を(学外の社会に対して)負う。つまりは訴訟のリスクを負え、ということ。批判なら何をやってもいいわけではないし、最終的に線を引くとしたら、法的責任のところになる。
・司法が信頼できるのか?→信頼が前提ではない。信頼を担保するため、対審を公開することになっている。みんなの目でチェックできる。
・大学は信頼できるか?→司法の信頼と同じ意味では全く信頼できない。情報が隠される場合が多すぎるし、隠される範囲も広い。

 当分の間、こういう考え方で進んでみたい。そのうちまた別の問題点も見えてくるだろう。
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