環境ホルモン濫訴事件:ちょうど1周年

 ずっと被告の中西氏を応援している「環境ホルモン濫訴事件」が、今日でちょうど1年になる。1年前のこの日に、原告は訴状を提出し、同時にプレスリリースを行った。
 応援を始めた時は、1年では終わらないが2年程度で終わるだろうと予想していた。また、そのときの私の認識は、プレスリリースのあり方から、「環境ホルモン=絶対悪」でないと困ると思っている環境系市民団体がしくんだ訴訟による言論封殺ではないかというものだった。それが、口頭弁論を重ねるにつれて徐々に裏切られ、結局、原告の「失礼だ、謝れ!」しか実体がないということが見えてきた。どうも、原告と代理人の思惑が細部まで一致してないのではないかという疑いも出てきた。

 自然科学では、新規なことがらを主張する側が証明責任を負うというのが当たり前で、このことは、疑似科学を退ける時にも役立っている。トンデモ理論を主張しておいて、間違っているなら証明してみろというのはダメで、そのトンデモ理論を主張する側がそれが正しいことを証明しなければならない。
 民事の証明責任は、これに比べると回りくどい内容である。「ある事実が真偽不明である場合に、その事実を要件とする法律効果の発生を受けられない一方当事者の不利益をいう」というもので、裁判所の自由心証によっても真偽が不明である場合に機能する。これは、事実がわかりません→裁判できません、では、国民の裁判を受ける権利が侵害されるので、裁判の拒否を防ぐために導入されたものである。なお、主要事実についてのみ証明責任が適用される。

 もともと、名誉毀損訴訟は、力の無い側が力のある側(主にマスコミ)を訴えるということを想定していたようで、証明責任が被告にある。名誉毀損したと訴えられたら、それが名誉毀損に該当しないこと(そもそも名誉を毀損していない、名誉は毀損しているが公益性があるから責任を問われない、など)を被告が証明しないと裁判に負けてしまう。マスコミは取材力があることが前提だから、立証責任を課してもまあバランスがとれていたのだろう。これが、ネットの時代にはそぐわなくなってきている。被告のリスクが大きすぎるのである。

 インターネットの登場によって、普通の個人がメディアを手に入れることになった。ネットが登場する前までは、個人が安価に簡単に広く情報を伝える手段は存在しなかった。情報を伝える手段がマスコミに限られていたときは、発信する情報のチェックがあったり、ある記事を書いた記者が訴えられるときは会社も一緒だったりすることが多く、個人が名誉毀損訴訟の被告になるケースは少なかったのではないか。ところが、従来のメディアの数の力には及ばないとしても、今や誰にでも情報発信が可能となった。これに対応して、起きる紛争の方も個人対個人で名誉毀損訴訟をやるということになる。すると、従来の名誉毀損訴訟で想定されていた力の差が無いわけだから、被告にのみ証明責任を課すのは、被告にとってリスクが大きすぎることになる。このあたりのバランスを今後どうしていくかによって、ネットが表現の媒体として十分使えるものになるかどうかが決まってくるはずである。

 応援を始めるに当たって、利害と趣味で応援し、決して主義で応援しないということを考えた。応援の活動は広く知られるわけで、なぜ応援しているのかについて理解が得られないと失敗すると思ったからである。
 利害の方は、専門家同士の批判で提訴は冗談じゃないだろうということで、こんな訴訟で被告が負けたら、私がやっているネット上の表現活動にも支障を来すから今のうちにできることをしておく、というものである。
 趣味の方は、民事訴訟を丸ごと実況中継して見せたらどうなるか?という興味である。こちらの方は、ネット=メディア、という性質によって可能となった。民事訴訟の教科書はいくつも出版されているが、詳しい教材になるのは、有名な裁判や込み入った裁判であり、その場合でも証拠書類が全部載っている本は、そうそう出版されていない。大抵は、判例をまとめたり、法学者の先生が解説したりといった形になる。本であれば、出版と流通に物理的コストがかかるから、法学としてはありきたりの(失礼!)訴訟などを取り扱ってもペイしない。しかし、ネットになると話は別である。原告被告双方の書証や答弁書の全てを自由に読むことができれば、民事訴訟とはどんなものかを知る格好の教材になるはずである。たとえそれが、学者や法曹の目からみてありきたりなつまらないものであったとしても、現実にこの社会で動いている生きた紛争だから、得るものがあると思う。

 まあ、ずっと訴訟の事を考え続けなければならない当事者は、何かと大変に違いない。ともかく、1年お疲れ様でした>中西さん。

水伝批判記事リスト

 mixiのきくまこさんのまとめトピより。「水からの伝言」関連に対し、批判的な内容を掲載した書籍や雑誌などのリスト。

「トンデモ本の世界T」(2004、太田出版、藤倉珊さんの記事)
「Popular Science 日本版」(2005/1号、Trans World Japan、渋谷研究所Xのコラム)
「世界」(2005/7号、岩波書店、二村真由美さんの記事)
「AERA」(2005/12/5号、朝日新聞社)
「Forbes日本版」(2006/4号、ぎょうせい)
「しんぶん赤旗日曜版」(2006/2/26号、日本共産党中央委員会)

 あと、私に取材がかかった「第三文明」と、今日の別記事で紹介した「日本物理学会誌」の巻頭言。

 これもミクで知ったのだが、「水からの伝言」批判でなかなかしゃれてるなと思ったのが、「図書館に働きかけて水伝関係の本の分類を全部超心理学にする」というもの。国立国会図書館ではさすがに超心理学に分類されてた模様。
 確かに、本屋で、自然科学のコーナーに平積みになってたりするから余計に誤解するわけで、オカルトの書棚の前に平積みになっているのなら、まあいいのかも……。(いずれにしても学校で教えちゃまずいですけどね)
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今月号の物理学会誌

 今月号の物理学会誌の巻頭言に、共同研究先のお茶の水大冨永教授による「騙されないために」が掲載されている。ニセ科学に騙されないようにちゃんと理科を勉強しましょう、というのがその趣旨である。大学なら物理学会誌はいろんなところに転がってるし、企業でも持ってる人はいると思うので、ぜひ読んでいただきたい。
 英会話を身につけるといろいろ便利で得をするが、理科を学ぶということも、同じように便利で得をするものだということを、もっと広く認識してもらいたい。テストが終わればもうやらなくていいとか、大学では文系に行くのでもう用済みというものではない。生活していく上である程度は必要、というのが抜け落ちていると、科学っぽいニセモノに騙されることになる。

 何年か前に、「理科学習のススメ」について書いてwebで公開しようと思って、原稿を書き始めたけど結局他が忙しくて没になったのだが、その時に見出しとして考えていたものに「真理の追求はどうでもいい」というのがあって、これだけはどうしても入れたいと考えていた。
 昔、通っていた中学の理科室には「真理」「探求」などと筆で書いた紙が貼ってあり、そのときは何となく「かっこええなあ」と思っていたのだが、そういうことにあこがれるのはGeekだけで、普通の人にとっては、まあどうでもいいことである場合が多いのではないか。だから、普通の人に「ちゃんと科学を知ってください」と説得するには、真理の探究に価値があるというロジックではだめで、「いかに役立つか」を言わなければならない。ところが、科学(と技術)を利用した製品であれば日常使っているので、最低限マニュアルが読めれば、科学の知識が無くても十分便利に過ごせる。その経験をもとにして「科学が役立つのはわかるけど、何も自分が知ってる必要無いじゃん」と言われてしまったら、話がそこで止まってしまう。やっぱりそうではないんだよ、ということを言うには、製品に応用して使えるということだけではなく、知っていることそのものが役立つ、つまり英会話ができると便利だってのと同じレベルで説得しなければ、言葉が届かないのではないだろうか。
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