Feed

「信じるだけ」って前提が意味をなさない

Posted on 11月 21st, 2008 in 倉庫 by apj

 「信じる自由は内心の自由」でも書いたのだけど、もうちょっとわかりやすい例で。

 あるニセ科学言説に対する批判は、それが他の人の目に触れる(例えばblogに書かれて私が読める状態になっている)から可能になる。どこにも書かれていない、ある人が心の中だけで信じているニセ科学言説は、他人の目に触れることがないから批判されることはない(現実問題として批判は不可能)。
 すると、ネットで時々出てくる「ニセ科学を信じるのは個人の自由」という主張は、批判がネット上にある言説に対して行われている場合には成り立たない。ネットで批判の対象になっているということが即ち、「信じる」だけにはとどまっていなかったということだからである。
 「私は「水からの伝言」を信じています」とblogに書いただけで、他の誰かに対して薦めるようなことは何一つ書いていなかったとしても、何を信じているか「書いて他人が読める状態にした」行為は「信じる」行為とは別である。

 たとえば、私の知り合いに○川△郎という人が居たとして、私が個人的に○川△郎に対し「スケベ、変態、金にルーズ。幼女のヌード好き。あの様子じゃ職場で使い込みとかもしてるよなきっと。脱税だって………(以下略)」などと思っていたとしよう。私が内心でそう思っているだけなら問題はない。客観的事実と一致してなくたって、ただの個人的偏見に過ぎない。まあ、○川△郎を避けたり、見る目がきびしくなったり、よそよそしくなったりはするだろうが。
 しかし、「………(以下略)」の内容をたとえばここのblogに書いたら、名誉毀損やら侮辱やらで、刑事でも民事でも責任を問われる。ここを見に来ている人だって「その書き方はあまりに品位がない」「違法」等というコメントを残すだろう。

 単に「ニセ科学を信じる自由」と、実際にネット上で批判が行われているという状況の違いは、「………(以下略)」ををせいぜい個人用の日記帳に書いてそのへんの本棚にでもしまっておくことにしたか、「………(以下略)」をblogに書いて広く人目にさらしてしまったかの違いと同じである。

 「公然性」を持ってしまった時点で、個人的に信じる自由の範囲は越えてしまうということである。越えた分については、他人に影響を及ぼしうるので、批判なり議論なりの対象になっても仕方がない。

【注意】
 文中の○川△郎は、架空の登場人物であり、現実に似た名前の人が存在しても全く無関係です。うかつに○や△の所に甲とか一とかを入れてしまうと、偶然、実在の人物の名前に一致したとき、大変失礼なことになると思い、絶対存在しない名前っぽいものを書きました……ってそこ、○や△に穴埋めするんじゃない!!^^;)

尋ねられたんで答えてみる

Posted on 11月 21st, 2008 in 倉庫 by apj

 わかった気がする……なぜ疑似科学批判の連中にイラッとするのか……に言及。

「鰯の頭も信心から」という諺である。
プラシーボ効果を許さないのか、と言い換えても良い。
実際に信心を持って、偽薬を薬と成した人に、
それは「薬ではない」と宣言して、その効果を打ち消すことが
果たして本当に正義なのだろうか?
疑似科学は、本当に悲劇しか齎さないのであろうか?

 その人個人が治ったのはそれでいいけど、他人に対して「信心で偽薬を薬と為しましょう」と誘うのはまずい。信心の仕方というか強さは人それぞれだし、偽薬で済む状態の人もいれば、信心+偽薬ではどうにもならない、それどころかできるだけ早く医者の手当てを受けないといけない人だっている。その人が偽薬を信じているなら、それは内心の問題にとどめておくべきである。誰かに向かってそのことを言えば、それに影響を受ける人が出る可能性があるから、その話はまずいよ、と言わなければならなくなる。
 今、批判されている人達は、blogに書いたとか、新聞や雑誌などのメディアに登場したとか、水伝のように他人に向かって授業をしたとか、少なくとも、「外から見てわかる」形で「ニセ科学を広める」行為をしている。
 逆にききたいのだけど、信心で偽薬を薬と為し、かつ、その信心を内心のみにとどめている人に対して、批判が行われると本気で思ってるのかなぁ。第三者から認識されない信じ方であれば、批判の対象にはならないはずなんだけど。

マイナスイオンのドライヤーを買って、髪の毛がサラサラになって少しかわいくなった気がする、勇気を出して家から出てあの人をデートに誘ってみよう!とキラキラした目をしている女性に向かって「いや、それ錯覚ですから! あなた不細工のままですから! 残念!」
と一刀両断することは本当に絶対的な正義なのか?

 「マイナスイオンは無関係の可能性が高いけど、髪の毛がさらさらになったのなら、いいドライヤーなんだね。良い買い物をしたね。行ってらっしゃい」

また、例えば、飲み会の席などで気になる異性に話しかけたいとしよう。うわべの会話でなく、相手の性格をもっと知りたい。そんな時に会話の端緒として「血液型、何型?」と訊くのは、これだけ血液型に対するコンセンサスがある日本では、実際にかなり有用なことである。
「○○ちゃん、何型? そうなんだ、××な性格って言われない?」
「えー、うち、そんなことあらへんよう……けっこう、落ち込みやすい性格やと思ってるんやけど……」(ぼくが萌えるので便宜的に関西弁風女子とさせて頂いた。意味はない)
そこからフォローするなりアドバイスするなり裸で向き合い本当の性格をキャストオフさせてあげるなりワンナイトカーニバルを決めるなりはあなたの腕の見せ所だ。
少なくとも「血液型何型?」と訊かれて「そんなのは疑似科学なんだ。それよりアインシュタインがどうやってブラウン運動からアボガドロ定数を求めたか知ってる?」と返すよりは仲良くなれるだろう。

 私は女だけど、で、飲み屋で口説かれる可能性はまずないけど、男性から「血液型、何型?」と訊かれたら、コイツ大丈夫かいな、と思うだけだが。まあ、これだけ血液型に対するコンセンサスがあるし、その場で喧嘩をするのも大人げないと思ったら、「社会性」の範囲で適当に合わせるだろうが……。

「嘘も方便」こういう諺もある。
差別に使われるかもしれない。でも人を救うこともあるかもしれない。実際、血液型云々は、会話の潤滑剤として現代の社会ではまだ充分に有益なものなのである。

 それ、血液型が原因で会社に採用されなかった人の前で口に出せるの?現実に差別されている人の前で「社会ではまだ充分に有益」などと主張するなら、科学云々以前に、人間性を疑う。
 「嘘も方便」の意味を激しく間違ってるのでは。

普通の人はまず「言葉」から理解しようとする。
人を説得するなら説得するなりの、言葉や態度というものがあるのだ。

 で、血液型で差別された人が「社会ではまだ充分に有益」で納得するか?私には、「おまえが言うな」としかコメントのしようがない。

常識的な考え方の例

Posted on 11月 21st, 2008 in 倉庫 by apj

  msn産経ニュースより。ジャパンスケプティクスの安斎会長の記事。

疑似科学やオカルト… なぜ、だまされるのか? (1/3ページ)
2008.11.21 08:09

 霊視や前世占い、占星術といった「スピリチュアル(精神的な、霊的な)世界」がブームだ。それらを扱うテレビ番組は軒並み高視聴率を獲得し、ベストセラーになる出版物も多い。だが、中には疑似科学やオカルト現象を妄信し、だまされて被害にあう人もいる。科学の視点で批判してきた立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長の安斎育郎さんは「『思い込み』と『欲得ずく』が錯誤への落とし穴」と注意を呼びかける。(伐栗恵子)

■「欲得ずく」「思い込み」が落とし穴

 今月中旬に大阪市内で行われた関西消費者協会の講演会。安斎さんは趣味の手品を生かしながら、超能力やオカルト現象のトリックを暴いていく。

 例えば、スプーン曲げ。丈夫な金属のスプーンを指で軽くさすっているうちに、ぐにゃりと曲がり、客席からは驚きの声が上がる。だが、これは支点、力点、作用点をうまく利用しただけ。要領さえつかめば簡単に曲がるという。

 「目の前で自分の理解を超えたことが起こったとき、超能力と思わずに、なぜ、こんなことが起きるのか、と考えてほしい」と安斎さん。「人間は、だまされやすい」ということを肝に銘じるのが大切であって、一番危ないのは「私だけは、だまされない」という「思い込み」と指摘する。

 「あの人の言うことだから、本当だろう」という主体性の放棄も、自らの心をだます行為だ。「自分の目でしっかり確かめ、自分の頭で判断する習慣を」と呼びかける。

 不幸に陥ると、その原因を霊に求める人がいる。問題の根本的な解決にはならなくても、「悪霊(あくりょう)のたたり」などのせいにした方が心の平安を得られやすいからだ、と安斎さん。「霊は、人の不幸の消しゴム係」と絶妙の表現をする。

 もし霊が目に見えるのならば、霊そのものが光を発しているか反射しているはず。「たたる」には記憶や認識といった高度な仕組みを持った有機体でなければならない。霊を信じるかどうかは個人の自由だが、「科学的な意味では存在し得ない」と断言する。

 科学技術が進歩したこの時代に、人はなぜ、「スピリチュアル」にはまるのか。安斎さんは、それこそ、「なぜ」と問う力が弱まっているからだと嘆く。

 例えば、携帯電話やDVDの仕組みは、説明されても理解するのが難しい。科学が進歩したがゆえに、人は自分の理解の範疇(はんちゅう)を超えたものをそのまま受け入れてしまいがちで、それが超能力などを簡単に信じる傾向となって表れていると説明する。
 「ささいなことでも、『なぜ』と意識的に問い直してほしい。その背景には必ず理由があるのだから」

 さらに、“インチキ”を見破るには、「そんなことができるのなら、どうしてこうしないのか」と考えてみることが大切だと言う。

 スプーン曲げができるのならば、どうして金属加工技術として役立てないのか。そんな能力をもった人を生産ラインにずらりと並べれば、次々と金属加工が施され、たちまち製品が出来上がる。簡単に大もうけができる話なら、その勧誘員自体が大金を手にしているはずであり、そもそもそんなおいしい話を他人に教えるのか。「3週間で英語がペラペラになる教材」といった宣伝文句が本当なら、なぜ、その販売員はペラペラではないのか…。そう考える心のゆとりが必要だ。

 楽して得を取りたいという「欲得」と「思い込み」、それに「非合理的思考」が結合するとき、人はとめどもなく危うい「だまし」の深みにはまっていく、と安斎さんは警告する。

 楽して結果だけほしいという傾向を、紀藤正紀弁護士は「インスタント指向」と呼んだ。
 以前「ありがとう」というラベルで米がカビないという話が出てきた時は、「それが本当なら、どうしてコンビニのおにぎりの賞味期限ラベルのかわりにありがとうラベルが使われないのか?」とツッコミを入れた。
 「それが本当なら、もっとうまい利用方法があるのに、使われていないのはなぜか」と考えることが、欺されないためのストッパーになるかもしれない。

国籍法以外にもいろいろスルーしてるんじゃないの?

Posted on 11月 21st, 2008 in 倉庫 by apj

 産経msnの記事より。

国籍法改正 誰も理解せぬまま参院も審議入り
2008.11.20 19:42
 未婚の日本人の父と外国人の母の間に生まれ、出生後に認知された子の日本国籍取得要件から「婚姻」を外す国籍法改正案は20日、参院法務委員会で趣旨説明が行われ、審議入りした。法務委は同日の理事懇談会で、26日に1時間45分の参考人意見聴取、27日に4時間の一般質疑を行った後に委員会で採決することで合意。このため、改正案は28日の参院本会議で成立する見通しとなった。

 衆院法務委がわずか3時間の審議で改正案を採決し批判を受けたことから、参院側は「慎重な対応をしたい」(自民党国対幹部)として倍近い審議時間(5時間45分)を確保した形だ。だが、これで懸念される偽装認知への歯止めをどうするかなど、十分な議論が尽くせるかどうかは疑問だ。

 「この中で、国籍法改正案を全部理解している人は手を挙げてください」

 20日昼の自民党津島派の総会で、戸井田徹衆院議員はこう呼びかけたが、手を挙げた議員は1人もいなかった。改正案は国会議員も内容をよく把握しないまま、成立へと向かって突き進んでいるようだ。

 改正案は今月4日に閣議決定されたが、国会議員らが問題点や危険性に気付いたのはその後のことだった。無所属の平沼赳夫元経済産業相は19日の「国籍法改正案を検証する会合に賛同する議員の会」で、こんなエピソードを紹介した。

 「現役閣僚から『とんでもない法律が通りそうだから何とかしてくれ』と電話があった。『あなたはそれに閣議でサインしたんだろう』と言ったら、『流れ作業で法案の中身は分からなかった』と話していた」

 自民党では、改正案が衆院を通過した18日の役員連絡会や参院執行部会で問題指摘が相次いだ。執行部会では、国対幹部が「運用で(犯罪に)歯止めをかけていく工夫が必要だ」と述べ、尾辻秀久参院議員会長も「もう一度検討した方がいい」と語ったが、成立の流れを押しとどめるまでには至っていない。

 一方、改正案を問題視する民主党議員からも「うちの法務部会(部門会議)も、『次の内閣』会合も通っちゃっているんだよな」との嘆息が漏れている。

 国籍法の問題点以前に、法案成立に至る過程で、議員がまともに中身を理解せず、ヘタすりゃまともに読まずにサインしてスルーしているということが判明したことの方が大問題だと思うが……。

 こういう成立のさせ方をしているのが、国籍法改正のこの1件だけとは思えなくなってきた……orz。法律改正が盲判レベルってのはイヤ過ぎるぞ。わが国の立法府って一体……[:泣き笑い:]

現代の知識で過去の行動を判断する愚

Posted on 11月 21st, 2008 in 倉庫 by apj

 擬似科学発見テストだそうですが。

 ウィキペディアの以下の項目に含まれている引用部分は、極めて偽科学的説明である可能性が高い。科学的説明の逸脱とその理由を説明しなさい。

 はっきり言ってピント外れの出題にしか見えない。 

まず、引用されたウィキペディアの文章

江戸時代の江戸では、富裕層のあいだで玄米に替えて精米された白米を食べる習慣が普及し、将軍をはじめ富商など裕福な階層に患者が多かった。江戸時代末期には一般庶民も発症し、江戸患いと呼ばれた。大正時代以降、ビタミンB1を含まない精米された白米が普及し、副食を十分に摂らなかったことで非常に多くの患者を出し、結核と並んで二大国民病とまで言われた。

高木は海軍において西洋式の食事を摂る士官に脚気が少なく、日本式の米を主食とし副食の貧しい下士卒(兵曹および兵。のちの下士官兵)に多いことから、栄養に問題があると考え、明治17年(1884年)軍艦筑波に、この前年別の軍艦が行なった遠洋練習航海と食生活以外は全く同じ内容で遠洋練習航海を行なわせる試験案を上策し、それが採用され、結果として西洋食の艦において脚気患者が出なかった。このことから栄養障害説を確信したとされる。下士官兵にはパン食は極めて不評であったので、西洋食(パン食)から、同じ麦を食材とした麦飯に海軍の食料は変更された。これによって、海軍における脚気は根絶された。

 は、過去の出来事を現代の知識を踏まえてまとめたもので、歴史の解説であって科学の解説ではない。Wikipediaの文章の中で、現在の科学に照らし合わせて判断できる記述といえるものは、「ビタミンB1を含まない精米された白米」くらいしかない。ところで、「胚芽米のすべて」を見ると、

しかし、筆者の大学で分析した結果、「第三世代胚芽米」コシヒカリのビタミンB1含量は、一般の胚芽米(五訂食品標準成分表)のほぼ1.5倍(精白米の4倍)、ビタミンE含量は、ほぼ1.2倍(精白米の6倍)であった。驚異的な数値である。カリウム、マグネシウムなども高い数値を示した。胚芽の一個づつは小ぶりでも、まんべんなく着芽しているためである。

とあるので、精白米にビタミンB1が全く含まれていないというわけではなさそうである。食品成分データベースから、穀類→米、とたどって、精白米を調べると、詳しい成分まで見ることができるが、ビタミンB1含有量はゼロではない。従って、「ビタミンB1を微量しか含まない精米された白米」とでも修正するのが、今の科学に照らし合わせた正確な記述ということになる。

 残りの部分は、歴史の記述であって科学の記述ではないから、この中に史実と違う内容や誤りが含まれていたとしても、擬似科学とは呼べない。

 また、当時は存在すら知られていなかったはずのビタミンB1という物質が登場するが、Wikipediaの記述は江戸時代に起きたことを現代の知識を背景にして記述したものであり、江戸時代にビタミンB1が知られていたという誤解を招く余地は(よほど曲解しない限り)無いだろう。

 高木の推論も、歴史的事実としてそのように考えたという話に過ぎず、現代の科学についての誤認をさせるものではない。この部分の記述が歴史的事実と違っていたとしたら、それは、Wikipediaの筆者が歴史について調査不足だったとか間違えたといった話に過ぎず、「間違った科学史の記述」ではあっても擬似科学とは呼べない。もし、高木の推論の仕方や試験への持って行き方が、今の知識を基準とした場合に何か問題があるものであったとしても(同じことを今実行したら擬似科学と呼ばれるものであったとしても)、それは当時の実験医学の水準の限界によるものであり、現代の科学の知識を元にして批判すべき対象ではない。

 なお、「スキャンダルの科学史」には、史実としての記述として、高木が、「脚気は栄養のバランスの問題」であると考えるに至った理由として、監獄食と海軍食の比較からだと書かれている。が、これも、史実をどう確認するかという問題であり、擬似科学の問題ではない。

 脚気が、食物摂取におけるビタミンB1欠乏以外の理由で起きるかどうかについては、私も知識が無いのでわからない。何か、代謝異常を起こすような病気があれば、脚気を発症することがあっても不思議ではないが……。しかし、当時問題になっていた、広く国民の間で発症していた脚気の原因は、ほとんどがビタミンB1欠乏によるものであったと考えられるので、まれに発症する別原因による脚気があったとしても、この文脈において考慮する必要はない。

 何て言うか、できの悪い準備書面に対する反論を書いている気分。関係無い論が展開されている部分を指摘して、「その主張は本件訴訟に関係がない」と、さくっとスルーしてるみたいな。あるいは、準備書面と関係のない証拠が出てきて、その証拠は主張に関係がない、と一蹴する感じというか。

探索中:手品の本

Posted on 11月 20th, 2008 in 倉庫 by apj

 タイトルも出版社も失念してしまったのだが、確か数巻セット、1巻がそれなりに分厚かった手品の本を探している。
 20年くらい前に、神田の交差点から水道橋駅に向かう道に面した小さな本屋で売っているのを見かけた。同じ頃、東京ディズニーランドの土産物売り場のマジックの種とかを売ってるところにも置いてあった。当時は貧乏で買えなかったのだが、そのうち、と思っているうちに何だったか忘れてしまった。本には、日本図書館協会選定図書と書いてあった。
 どなたかご存じないでしょうか?教えて頂けると嬉しいです。

【追記】
 ターベルコースという高価なシリーズがあると教えていただきました。金額と装丁を見た限り、どうもこれらしいです。いろいろ情報をくださった皆様、ありがとうございました。昔から一度読みたかったものなので、ちょこちょこ買っていきたいと思います。不器用なので手品の習得を目指してもまず無理でしょうけど。

元厚生事務次官のところが襲われた件

Posted on 11月 19th, 2008 in 倉庫 by apj

 Yahoo経由産経の記事

しかし、現在のところ、テロ事件で犯行を誇示するために容疑者が報道機関へ送る声明は届いておらず、インターネット上での予告も確認されていない。

 誇示するのは自己満足だったりプロパガンダのためだろうから,実行して終わりだという犯人なら声明は出さなさそうな。

 作家の江上剛氏は「犯人への怒りは禁じ得ないが、もしテロなら、政治不信、官僚不信が極まれりということではないか。昭和初期の血盟団事件のように、世直しと称して『官僚一人一殺』という形で動く組織が現れたのかもしれない」と話した。

 これからのテロは、組織じゃなくて「個別の11人」だという方がむしろしっくり来るんだけど(「我々は個別の11人。ここで我々が倒れようとも、個別の自我が我々の意志を引き継ぐ。よって我々にとって死は意味を持たない。」攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG)。連帯するのも徒党を組むのも、昔に比べると流行らないし。
 izaの記事には細かいツッコミを入れたくなった。

 ある職員が「恨まれるとしたら、心当たりが多すぎる」というほど、最近の厚労省への世間の風あたりには激しいものがある。直近1年だけでも、吉原さんと山口さんの経歴が重なる年金問題の不祥事にとどまらず、薬害C型肝炎、医師不足、後期高齢者医療、派遣労働者問題…。所管するあらゆる分野が、国民の大批判を浴び続けている。

 問題が噴出するたびに舛添厚労相が直属のプロジェクトチームを立ち上げて、対応策を検討するが、批判は収まらない。

 検討する*だけ*だったからってオチでは?さっさと実効性のある解決策を出して実行していれば大批判だっておさまると思う。問題が起きてるのにしつこくいつまでも認めようとしないという態度が余計に反感をかっているんじゃないかと。

 特に仕事で失敗してなくても経営者の都合で簡単に切られる派遣と、仕事で大批判されても平気で昇進してるっぽい官僚の身分保障を比べると、「殺す以外に官僚をクビにする方法が無い」という考えを抱く人が出てきてもおかしくはない気がする。「死が二人を分かつまで」で結婚して離婚を認めないと、妻殺し夫殺し以外に別れる方法がなくなるというのと同じで。逆に、政治家は落選させればそれでクビにできるから、テロの対象にする必要がなくなる。かなり嫌な発想だけど。

信じる自由は内心の自由

Posted on 11月 18th, 2008 in 倉庫 by apj

 TAKESANさんのところのエントリー経由。lifecrack – Blogの「ニセ科学を信じることを許してはならないか?」について。

「ニセ科学を信じること」や「ニセ科学を信じることや、ニセ科学を信じている人を『まぁ、害がないなら良いんじゃないの』と許容すること」それらは許してはならないことなのでしょうか?

 向こうにもコメントを残して来たのだけど、こちらでもまとめておく。
 ニセ科学の害は、ニセブランド品の害と同種のものだし、向こうの例に出ている偽札の害とも同種のものである。つまり、他人に「流通させる」(結果として影響を及ぼすことまで含む)のがまずいのである(刑法の通貨偽造の話とはちょっと違うが、それはそれとして大雑把に言えばだけど)。
 だから、「信じる」が、あくまでも個人の内心のみにとどまっている限り、害が発生したとしても他人には及ばない。また、内心のみにとどまっているのであれば、第三者からは、その人がニセ科学を信じているかどうかがわからないため、批判の対象になることは考えがたい。
 しかし、信じているニセ科学の内容に基づいて何らかのアクションを起こせば、他人に被害をもたらす可能性が常にある。他人に話せば「流通」させたことになる。例えば怪しい治療法を優先して病気を悪化させれば、一番苦しむのは本人だとしても、周囲にだって影響は及ぶだろう。そして、アクションを起こせば、その人がニセ科学を受け入れているということを、第三者から認識することが可能になる。
 このように考えると、「ニセ科学を信じている(ことが第三者からわかる)」場合には、程度の差はあるとしても「害がない」とはならないだろうということがわかる。
 第三者の視点から見た場合、上に引用した言明はそもそも成り立たないのではないだろうか。

理解しないという対応

Posted on 11月 17th, 2008 in 倉庫 by apj

 狐の王国の「似非科学対策としての「なんちゃって理解」を実現できないか」を読んで。

 実は、昨日の講演の最後で、「理解しないで済ませる」というのを話してきた。
 大抵のインチキ宣伝は、「ニセ科学で分かりやすく説明→ものすごい効果があって大変お得」や「ニセ科学で分かりやすく説明→今すぐ買わないととっても損(今のままだと病気になる、などという脅しがセットになっていたり)」という形をとっている。これに対抗するには、「みんな(向こう三軒両隣とか親戚筋とか職場の仲間とかマイミクさんとか)が使い始めて評価が決まるまで、半年か1年待て」が有効である。
 ダイエット法だとこんな具合だった。大評判になった朝バナナダイエットや納豆ダイエットは、1ヶ月くらいで終息した。健康被害を出した白インゲン豆ダイエットは、すぐに飛びつかずに様子見していれば、誰かが中って危険なものだとわかったはずだ。健康雑誌に出てきたあまたの健康食品で、長期に渡って生き残ったものはごくまれである。
 ニセ科学で来ようが科学で来ようが、慌てて飛びつかなくても消費者はほとんど損をしない。ってか慌てて飛びついて損をする場合の方が多い。だから、ややこしい科学もニセ科学も理屈はともかくとして、みんながどうするか、半年から1年様子を見ようよ、というのが、考えたり理解したりしなくても済む対応である。商品が本物なら、半年1年経てば、良いものになったり値段が下がったりして一層お買い得になる。危険を煽るだけのニセ物なら、待っていれば勝手に消えていくから買わなくても済む。
 早い話が、他人を実験台にして使用実績を見て判断しよう、ということである。流行が始まったばかりの時は、飛びつく人が多いかもしれないが、そういう人は、本物でなければいずれ飽きてしまう。半年後1年後にすっかり忘れているようなら、理屈はともかくその商品は大したことがなかったという結論が出る。
 消費者の全員がこの戦略をとると、何だか、合成の誤謬になりそうだ。しかし、世の中の「慌て者」がゼロになることはないだろうから、最初のテストは慌て者に任せて、残りの人はみんなでのんびり様子見するというのはそんなに無理な話ではない。これで100%ニセを却下できるというわけではないが、それなりのフィルタリングは可能ではないか。
 科学を勉強してニセ科学を見抜くことの費用対効果を感じられない人や、科学が権威ぶってて気にくわないという人には、プロの科学者としては、この「ぐうたら戦略」をとることを薦める。

 本当は、このテスト役はプロの科学者が務めるはずだったんだけど、わかりやすいニセ科学の方が良いという人や、ニセ科学の方を商売に使いたいという人や、無意味に科学を敵視する人が増えてくると、そんならうまいことお互いにテストし合う方法を考えようや、という解決策だって考慮に入れておかないと、苦労ばっかり増えそうな気がする。

ヴィトンのバッグに置き換えろ

Posted on 11月 17th, 2008 in 倉庫 by apj

 chnpkさんの「科学とニセ科学の違いってそんなに重要か?」「宗教と科学と疑似科学とニセ科学について」に言及。

宗教も科学も、人間にあたかも世の中に客観的な真理があるかのように思わせる手段に過ぎない。

 科学には客観性があるけど、自然の「近似」であって「真理」ではない。それも、大勢の人が莫大な手間と資源をつぎ込んでどうにかこうにか今の精度にまで持ってきた近似。

私の認識では巷に溢れかえる擬似科学批判は単なる科学信仰に過ぎない。

 そりゃ、認識が甘い。他の人はともかく、私の場合は対悪徳商法の面がかなりある。 

非<環境>であるところの不確実で未決定な<世界>の中にあって、我々は、<世界>を確定させる客観的な事実であったり、秩序を欲する。それが神や科学ではないか。

 科学はあくまでも「近似」だから、もっと確かなものが欲しいと思った人が神の方へ行くのだろう。 さて、本題。「科学」を「ヴィトンのバッグ」に置き換えて考えると、議論のどこが変かがよく分かる。後半三分の1あたりでやってみる。

我々のあるべき振る舞いとしては、個別の情報について科学的な検証を行うことではなくて、むしろ科学的な無知に開き直ったうえで信用に値する人物や権威を道徳によるなり利害によるなりして見極め、そこから生じる情報を自身の利害に基づいて利用することを選択する以外にはありえないのではないか。そして、そうした態度を選択した場合において、科学と疑似科学の間の科学的な区分は、まったく重要性を持たない。これこそが、前回のタイトルに込めた意味であって、科学と疑似科学(と宗教)の区別に固執する意味が「わからん」と述べた趣旨である。

 個別のバッグが正規なヴイトンの工場を出たかどうかなんて、店頭で見て買うだけの我々にはわからないから、売っている百貨店のネームバリューとか、既に購入した信頼できる友人の口コミによって見極め、バッグを買うかどうかを選択する以外にありえないのではないか、ってことだな。確かに、バッグを買うにはそうするしかない。だからといって、「正規品のヴィトンのバッグとニセヴィトンのバッグのブランド品としての区分は全く重要性を持たない」とは、普通は思わないんじゃないの。「知らぬが仏」って言うけどさぁ……。

しかしよく考えればすぐ分かることだが、この一見すると完全に見える「ニセ科学批判」は、「悪意」という道徳的区別を準用しているに過ぎない。ここでも脱魔術化による魔術的な負担を魔術的に免除しているわけだ。

 ニセ科学の批判なんて、ニセヴィトンのバッグを売るなと言うのと変わらないわけだから、「ここでも脱魔術化による魔術的な負担を魔術的に免除している」なんてわけのわからない話じゃないでしょ。

この「ニセ科学」という概念の存在自体を、科学の危うさを示すものとして捉えることが可能だ。これが私の「疑似科学批判に対する批判」における2つ目のポイント、即ち科学に対する過剰な絶対視の傾向とその危険性である。

 ニセブランド品というカテゴリーの存在自体を、ブランド品の危うさを示すものとして捉えることが可能だ、と書き直せば、えらくナンセンスな話になる。ニセブランド品を批判することの背後に、正規のブランド品に対する過剰な絶対視の傾向があるかとか、危険性があるかとか、ちょっと考えてみればそんなのは違うというのはすぐにわかるだろう。別に普段からブランド信仰してなくたって、「たまにはちょっと高いけどブランド品を買うか、丈夫で長持ちとか使い勝手がよいということで定評があるしなぁ、でも、できれば少しくらいは割引があるといいなあ」などと思ってショッピングに出かけた先で、見た目ブランド品だけどパチモンである確率は結構高いよ、なんてことになってたら私は嫌だ。

上のニセ科学という言葉の定義が示唆する危うさとは、つまり科学的基準と道徳的基準の混同である。ニセ科学という恰も科学的な用語が、実のところは悪意という道徳的な基準に過ぎないと言う構図は、まさにそれ自身がニセ科学的ですらある。このニセ科学というパラドクスは、ニセ科学の対立概念が科学であるかのような錯覚を引き起こすことで、人々に科学を善と捉えることを可能とさせる。

 ニセヴィトンのバッグを作って売りさばくのは倫理的に悪だけど、正規のヴィトンのバッグを売っているという事実は別に善とは結びつかない、ごく普通の商行為に過ぎない。「ニセ○○」はニセだから悪なのである。○○がヴィトンのバッグだろうと科学だろうと。 じゃあ、何で倫理的に悪なのかというと、これには2つの面がある。
 1つは、他人の努力にただ乗りするという点。ブランド品も科学も、これまでに人の努力によって良くしてきたものだ。ブランド品のバッグであれば、耐久性やデザインなどで他社とは違った価値を生み出した。科学は、先に書いたように自然の近似に過ぎないが、それでも、近似の精度を上げるために大勢の人が努力してきた。その結果として、ブランド品は品質に定評があり、科学は近似の精度に定評がある状態になっている。ニセブランド品を作って売ったり、ニセ科学を広めたりする行為は、他人の努力によって築き上げられた信頼や定評といったものを、そうではない粗悪なものも同じだと広く誤解させることで、横からズルをしてかすめ取る行為に他ならない。
 もう1つは、判断のコストを上げるという点。ブランド品を買いに行ったらパチモンが出回っているような状態では、消費者が各自で多大な手間をかけて調べないと、本物を買えない。しかし、人は、あらゆることに十分な手間をかけられるわけではない。ブランド品=精度のよい近似である科学、で判断することができれば、社会全体として判断のコストを下げ、かつ、正しい判断をすることができる。ニセ物の横行を放置しておくというのは、判断のコストを広く一般に押しつけることになる。

こうして生まれるのが科学信者であって、彼らは非科学的なものやそれを信じるものを批判し、<科学的に>啓蒙する行為のなかに善を見出す。当然、上で述べたように我々が出来ることといえば信じることくらいなので、<科学>を信じることも可能なわけだが、それを絶対視し、妄信することにはあまり賛成できない。それは、この<世界>において太古の昔から絶えることのない宗教戦争や、文明化の旗印のもとで公然と行われた植民地主義と大差ない行いだからだ。

 科学者だって、ヴィトンのバッグを買いに行く時は目利きじゃない。自分がヴィトンのバッグを買いに行った時に「パチモンが横行してますが何か?」って状態になってたら、分かる奴ちょっと来て何とかしろ、と思うのが普通だろう。私としては、安心してヴィトンのバッグを買い物できる社会に住みたい。だから、私の方も、安心して科学の内容を正しく知ってもらうために、ニセ科学はニセ科学だとはっきり区別して、パチモンを広めるなと言いまくることにする。ま、今回はヴィトンのバッグを例にしたけど、他の「商品」、例えば経済学とか政治学について知りたいと思った時に、ニセが大流行している状態が放置されているのはやっぱり困るので、そっちはそっちで分かる人が何とかしてくださいよ、それが相互扶助の精神ですよってことで。

 ニセ科学の判定についてどういう基準を立てるかということについては、旧blogのエントリー「ニセ科学の定義と判定について考える」が消えてしまっていたので、編集して再度公開した。
ニセ科学の定義と判定について考える
ニセ科学の定義と判定について考える(つづき)